第7話 軍医
シェルターに戻ると、知らない男が庭にいた。
白人だった。四十代。背が高い。百八十五センチはある。肩幅が広く、かつて相当な体格だったことが分かる体の作りをしていた。今は少し削げている。戦場で削げた体と、療養で戻りかけている体の中間だった。
顔に傷がある。右の頬から顎にかけて、破片が走ったような傷痕が三本。首にも同じような跡がある。
左脚が義足だった。
膝下から。金属製のプロテーゼが、ズボンの裾から見えていた。だが立ち方は安定していた。慣れている。杖は持っていない。
男は庭の木の下でコーヒーを飲んでいた。柏木が車から降りるのを見て、目が動いた。軍人の目だった。入ってきた人間を最初に評価する目だ。
「誰だ」
柏木はスッティンに聞いた。
「アレクセイです。来てほしいと言ったら、昨夜来ました」
「昨夜」
「タイミングが良かった。いつも急に来る人間です」
男が近づいてきた。義足の歩き方だった。わずかにリズムが違う。だが速かった。
「アレクセイ・ヴォルコフ」
英語だった。手を差し出した。
「柏木勇気」
握手した。手が大きかった。握力が強かった。
「日本人か」
「そうだ」
「軍人だったか」
「元は」
アレクセイは柏木のショルダーホルスターを見た。ベレッタが剥き出しになっている。それから柏木の顔を見た。右目だけが動く顔を、ほんの少し観察した。
「左目」
「訓練事故だ」
「俺は左脚だ」
「見えている」
「戦場か」
「違う。訓練中だ」
アレクセイは少し考えるような顔をした。それから短く笑った。
「お互い、不運だったな」
「そうかもしれない」
二人はそれで終わりにした。それ以上の説明も、同情も必要なかった。同じ種類の喪失を持つ人間同士には、言葉が少なくて済む。
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食堂のテーブルで、スッティンが全員を集めた。
柏木は初めて組織の全容を見た。
スッティンを入れて、今は四人だった。
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**ノック。**
三十二歳。タイ人女性。細い体に、静かな目をしている。笑うと少し幼くなる顔だが、普段は笑わない。
スッティンが紹介した時、柏木に軽く頭を下げた。タイ式の礼ではなかった。日本式でもなかった。ただ頭を下げた。それだけだった。
後でスッティンから聞いた。ノックは十九歳の時に騙されて連れてこられた。三年間、抜け出せなかった。別のNGOに救出されてからスッティンの組織に入った。今は被害者のケアを一人で担っている。シェルターに来た女性や子どもが最初に話せる相手がノックだ。
「死んだポーは」
柏木はスッティンに聞いた。
「ノックの幼馴染みです。同じ村の出身でした」
柏木はノックを見た。
ノックはテーブルの木目を見ていた。何も言わなかった。
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**ペット。**
四十七歳。タイ人男性。ウドンターニー北部の農村出身。がっちりした体格。日焼けで肌が黒い。スッティンより頭一つ低いが、横幅はスッティンの倍近くある。
挨拶はなかった。柏木を一度見て、また窓の外を見た。
「ペットは移送の運転を担当しています。この地域の道を全部知っています」
スッティンが言った。
「農道も、未舗装の道も」
「何年この仕事をしている」
柏木はペットに直接聞いた。
ペットは少し間を置いて答えた。タイ語だった。スッティンが訳した。
「四年です。最初はスッティンに頼まれてトラックを出しただけだった。そのまま続けている」
「ポーを知っていたか」
「よく知っていた」
それ以上は話さなかった。
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**アレクセイ・ヴォルコフ。**
四十二歳。ロシア人。元軍医。
「医療の話をする必要があるな」
アレクセイが自分から言った。
「ここには正規の医療設備がない。薬は限られている。手術ができる環境ではない。俺にできるのは、処置と判断だ。入院が必要かどうか、手術が必要かどうかの判断。それから、入院が難しい場合の応急処置」
「入院が難しい理由は何だ」
柏木が聞いた。
「病院に連れて行けば、道中で特定される可能性がある。汚職の警官が犯罪組織に情報を流す。被害者が連れ戻されるケースがある。だから俺が来る」
「お前はどうやって来る」
「バイクだ。一人で動く方が目立たない」
「義足でバイクに乗れるか」
アレクセイは右膝を軽く叩いた。
「右脚がある。それで十分だ」
柏木は頷いた。
「お前の経歴を聞いていいか」
「スッティンから聞いていないか」
「聞いた。本人から聞きたい」
アレクセイは少し柏木を見た。
それから話した。
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「ウクライナだ。前線の医療テントにいた。軍医として従軍していた」
「ロシア軍か」
「そうだ。三年前の話だ」
「負傷したのは」
「テントにいた時にドローンが来た。自爆型だ。テントごと吹き飛んだ」
「そのテントで何をしていた」
アレクセイは少し間を置いた。
「ウクライナ兵を治療していた。捕虜だ。負傷した捕虜は治療する。それが医師の原則だ」
柏木は何も言わなかった。
「前線ではそれが通っていた。誰もが戦争に意味がないことを分かっていたからだ。敵を治療しても、誰も何も言わなかった。俺も、周りも」
「後方は違った」
「後方に下がれば話が変わる。後方には意味があると信じている人間がいる。俺がウクライナ兵を治療していた、という事実が、反逆に見える」
「そのドローンは」
柏木は聞いた。
「ロシアのものか、ウクライナのものか」
アレクセイは右手でコーヒーカップを持った。
「分からない」
静かに言った。
「それが問題だった。自国のドローンかもしれない。俺が何をしていたか知っていた人間が、消そうとしたのかもしれない。あるいはウクライナのドローンで、ただの偶然かもしれない」
「どちらでも結果は同じだった」
「そうだ。どちらでも、病院を抜け出す理由になった。自国のドローンなら、次が来る。ウクライナのドローンでも、俺がウクライナ兵を治療していた事実は残る。後方では反逆者だ」
「タイを選んだのは」
「ロシア人が多い。紛れ込める。それだけだ」
「スッティンとはどこで会った」
「バンコクのロシア人が集まる場所にいた。スッティンが来た。人を治療できる人間を探していると言った。金は払えないが、居場所と目的を与えると言った」
「それで来たのか」
「居場所と目的は、金より価値がある場合がある」
柏木はアレクセイを見た。
右目だけが動く顔で、静かに見た。
「俺も同じだ」
アレクセイは少し目を細めた。
「スッティンは人を集めるのが上手い。流れ着いた者ばかり集めている」
「お前もそう思うか」
「俺は流れ着いた。ノックも流れ着いた。ペットは根が張っているが、それでもここまで流れてきた。あなたも、日本から流れてきた」
「流れ着いた者がここで何をするか」
「根を張るんじゃないですか」
スッティンが言った。
二人が振り向いた。スッティンは入口に立っていた。いつから聞いていたか分からなかった。
「流れ着いた者が根を張る場所を作りたくて、俺はこれをやっています」
誰も何も言わなかった。
ノックが少しだけ、下を向いた。
ペットは窓の外を見たままだった。
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その夜、柏木とアレクセイは庭で煙草を吸った。
アレクセイはロシアの煙草を持っていた。柏木は自分のを吸った。
しばらく黙っていた。
「ポーという男を知っているか」
柏木が聞いた。
「知っている。俺が来る前からいた。スッティンから聞いた」
「どういう男だった」
「二十四歳。動ける体と、止まれない気持ちを持っていた男だと聞いた。よく似た男を戦場で何人も見た」
「止まれない気持ち、か」
「正しいことをしている時、人は止まれなくなる。それが若ければ若いほど、恐怖の計算が甘くなる」
柏木は煙草を吸った。
「俺も似たようなものかもしれない」
「あなたは三十八歳だ。恐怖の計算はできる年齢です」
「計算した上で来た」
「だから相棒として使えます」
柏木はアレクセイを見た。
「相棒と言うには、お前は現場に出ない」
「現場の外にも戦場はある。撃たれた人間を生かすのも、戦いの一部だ」
柏木はそれを聞いた。
「そうだな」
「認めるのが早い」
「正しいことには早く同意する。自衛隊で覚えた」
アレクセイは少し笑った。
「良い組織だったか」
「悪くなかった。俺を切るまでは」
「俺の軍も悪くなかった。切るまでは」
二人はまた黙った。
タイの夜は虫の音がうるさかった。日本の夏より音が多い。だが不快ではなかった。
「一つ聞いていいか」
アレクセイが言った。
「どうぞ」
「あなたの左目。痛むか」
「今は痛まない」
「最初は痛んだか」
「しばらくは痛んだ」
「俺の脚も、最初は痛んだ。ない脚が痛む。幻肢痛という」
「知っている」
「今は痛まないか」
「たまに痛む。天気が変わる前に」
柏木は少し間を置いた。
「俺も同じだ。疲れた時に、ない目の奥が痛む気がする」
「気がする、じゃない。本当に痛むんだ」
「そうか」
「脳が覚えているんだ。あった場所を。それは正直な反応だ」
柏木はその言葉を聞いた。
脳が覚えている。あった場所を。
「医者らしい言い方だな」
「軍医だから」
「元、だろ」
「俺にとっては今も軍医だ。免許がなくても、知識は残る。体が覚えている」
柏木は煙草を踏み消した。
「俺も、自衛隊の訓練は体に残っている」
「だからCARシステムを一日で形にした」
「スッティンから聞いたのか」
「話は伝わる。小さい組織だから」
柏木は立ち上がった。
「明日も訓練する。見に来るか」
「行きます」
「足手まといになるな」
「あなたが撃った弾が体に残ったら、俺が出る幕です。足手まといにはならない」
柏木は少し間を置いた。
「それは頼もしい」
「社交辞令か」
「俺は社交辞令を言わない」
アレクセイは短く笑った。
夜のウドンターニーで、虫の音が続いていた。




