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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第7話 軍医

シェルターに戻ると、知らない男が庭にいた。


 白人だった。四十代。背が高い。百八十五センチはある。肩幅が広く、かつて相当な体格だったことが分かる体の作りをしていた。今は少し削げている。戦場で削げた体と、療養で戻りかけている体の中間だった。


 顔に傷がある。右の頬から顎にかけて、破片が走ったような傷痕が三本。首にも同じような跡がある。


 左脚が義足だった。


 膝下から。金属製のプロテーゼが、ズボンの裾から見えていた。だが立ち方は安定していた。慣れている。杖は持っていない。


 男は庭の木の下でコーヒーを飲んでいた。柏木が車から降りるのを見て、目が動いた。軍人の目だった。入ってきた人間を最初に評価する目だ。


 「誰だ」


 柏木はスッティンに聞いた。


 「アレクセイです。来てほしいと言ったら、昨夜来ました」


 「昨夜」


 「タイミングが良かった。いつも急に来る人間です」


 男が近づいてきた。義足の歩き方だった。わずかにリズムが違う。だが速かった。


 「アレクセイ・ヴォルコフ」


 英語だった。手を差し出した。


 「柏木勇気」


 握手した。手が大きかった。握力が強かった。


 「日本人か」


 「そうだ」


 「軍人だったか」


 「元は」


 アレクセイは柏木のショルダーホルスターを見た。ベレッタが剥き出しになっている。それから柏木の顔を見た。右目だけが動く顔を、ほんの少し観察した。


 「左目」


 「訓練事故だ」


 「俺は左脚だ」


 「見えている」


 「戦場か」


 「違う。訓練中だ」


 アレクセイは少し考えるような顔をした。それから短く笑った。


 「お互い、不運だったな」


 「そうかもしれない」


 二人はそれで終わりにした。それ以上の説明も、同情も必要なかった。同じ種類の喪失を持つ人間同士には、言葉が少なくて済む。


---


 食堂のテーブルで、スッティンが全員を集めた。


 柏木は初めて組織の全容を見た。


 スッティンを入れて、今は四人だった。


---


 **ノック。**


 三十二歳。タイ人女性。細い体に、静かな目をしている。笑うと少し幼くなる顔だが、普段は笑わない。


 スッティンが紹介した時、柏木に軽く頭を下げた。タイ式の礼ではなかった。日本式でもなかった。ただ頭を下げた。それだけだった。


 後でスッティンから聞いた。ノックは十九歳の時に騙されて連れてこられた。三年間、抜け出せなかった。別のNGOに救出されてからスッティンの組織に入った。今は被害者のケアを一人で担っている。シェルターに来た女性や子どもが最初に話せる相手がノックだ。


 「死んだポーは」


 柏木はスッティンに聞いた。


 「ノックの幼馴染みです。同じ村の出身でした」


 柏木はノックを見た。


 ノックはテーブルの木目を見ていた。何も言わなかった。


---


 **ペット。**


 四十七歳。タイ人男性。ウドンターニー北部の農村出身。がっちりした体格。日焼けで肌が黒い。スッティンより頭一つ低いが、横幅はスッティンの倍近くある。


 挨拶はなかった。柏木を一度見て、また窓の外を見た。


 「ペットは移送の運転を担当しています。この地域の道を全部知っています」


 スッティンが言った。


 「農道も、未舗装の道も」


 「何年この仕事をしている」


 柏木はペットに直接聞いた。


 ペットは少し間を置いて答えた。タイ語だった。スッティンが訳した。


 「四年です。最初はスッティンに頼まれてトラックを出しただけだった。そのまま続けている」


 「ポーを知っていたか」


 「よく知っていた」


 それ以上は話さなかった。


---


 **アレクセイ・ヴォルコフ。**


 四十二歳。ロシア人。元軍医。


 「医療の話をする必要があるな」


 アレクセイが自分から言った。


 「ここには正規の医療設備がない。薬は限られている。手術ができる環境ではない。俺にできるのは、処置と判断だ。入院が必要かどうか、手術が必要かどうかの判断。それから、入院が難しい場合の応急処置」


 「入院が難しい理由は何だ」


 柏木が聞いた。


 「病院に連れて行けば、道中で特定される可能性がある。汚職の警官が犯罪組織に情報を流す。被害者が連れ戻されるケースがある。だから俺が来る」


 「お前はどうやって来る」


 「バイクだ。一人で動く方が目立たない」


 「義足でバイクに乗れるか」


 アレクセイは右膝を軽く叩いた。


 「右脚がある。それで十分だ」


 柏木は頷いた。


 「お前の経歴を聞いていいか」


 「スッティンから聞いていないか」


 「聞いた。本人から聞きたい」


 アレクセイは少し柏木を見た。


 それから話した。


---


 「ウクライナだ。前線の医療テントにいた。軍医として従軍していた」


 「ロシア軍か」


 「そうだ。三年前の話だ」


 「負傷したのは」


 「テントにいた時にドローンが来た。自爆型だ。テントごと吹き飛んだ」


 「そのテントで何をしていた」


 アレクセイは少し間を置いた。


 「ウクライナ兵を治療していた。捕虜だ。負傷した捕虜は治療する。それが医師の原則だ」


 柏木は何も言わなかった。


 「前線ではそれが通っていた。誰もが戦争に意味がないことを分かっていたからだ。敵を治療しても、誰も何も言わなかった。俺も、周りも」


 「後方は違った」


 「後方に下がれば話が変わる。後方には意味があると信じている人間がいる。俺がウクライナ兵を治療していた、という事実が、反逆に見える」


 「そのドローンは」


 柏木は聞いた。


 「ロシアのものか、ウクライナのものか」


 アレクセイは右手でコーヒーカップを持った。


 「分からない」


 静かに言った。


 「それが問題だった。自国のドローンかもしれない。俺が何をしていたか知っていた人間が、消そうとしたのかもしれない。あるいはウクライナのドローンで、ただの偶然かもしれない」


 「どちらでも結果は同じだった」


 「そうだ。どちらでも、病院を抜け出す理由になった。自国のドローンなら、次が来る。ウクライナのドローンでも、俺がウクライナ兵を治療していた事実は残る。後方では反逆者だ」


 「タイを選んだのは」


 「ロシア人が多い。紛れ込める。それだけだ」


 「スッティンとはどこで会った」


 「バンコクのロシア人が集まる場所にいた。スッティンが来た。人を治療できる人間を探していると言った。金は払えないが、居場所と目的を与えると言った」


 「それで来たのか」


 「居場所と目的は、金より価値がある場合がある」


 柏木はアレクセイを見た。


 右目だけが動く顔で、静かに見た。


 「俺も同じだ」


 アレクセイは少し目を細めた。


 「スッティンは人を集めるのが上手い。流れ着いた者ばかり集めている」


 「お前もそう思うか」


 「俺は流れ着いた。ノックも流れ着いた。ペットは根が張っているが、それでもここまで流れてきた。あなたも、日本から流れてきた」


 「流れ着いた者がここで何をするか」


 「根を張るんじゃないですか」


 スッティンが言った。


 二人が振り向いた。スッティンは入口に立っていた。いつから聞いていたか分からなかった。


 「流れ着いた者が根を張る場所を作りたくて、俺はこれをやっています」


 誰も何も言わなかった。


 ノックが少しだけ、下を向いた。


 ペットは窓の外を見たままだった。


---


 その夜、柏木とアレクセイは庭で煙草を吸った。


 アレクセイはロシアの煙草を持っていた。柏木は自分のを吸った。


 しばらく黙っていた。


 「ポーという男を知っているか」


 柏木が聞いた。


 「知っている。俺が来る前からいた。スッティンから聞いた」


 「どういう男だった」


 「二十四歳。動ける体と、止まれない気持ちを持っていた男だと聞いた。よく似た男を戦場で何人も見た」


 「止まれない気持ち、か」


 「正しいことをしている時、人は止まれなくなる。それが若ければ若いほど、恐怖の計算が甘くなる」


 柏木は煙草を吸った。


 「俺も似たようなものかもしれない」


 「あなたは三十八歳だ。恐怖の計算はできる年齢です」


 「計算した上で来た」


 「だから相棒として使えます」


 柏木はアレクセイを見た。


 「相棒と言うには、お前は現場に出ない」


 「現場の外にも戦場はある。撃たれた人間を生かすのも、戦いの一部だ」


 柏木はそれを聞いた。


 「そうだな」


 「認めるのが早い」


 「正しいことには早く同意する。自衛隊で覚えた」


 アレクセイは少し笑った。


 「良い組織だったか」


 「悪くなかった。俺を切るまでは」


 「俺の軍も悪くなかった。切るまでは」


 二人はまた黙った。


 タイの夜は虫の音がうるさかった。日本の夏より音が多い。だが不快ではなかった。


 「一つ聞いていいか」


 アレクセイが言った。


 「どうぞ」


 「あなたの左目。痛むか」


 「今は痛まない」


 「最初は痛んだか」


 「しばらくは痛んだ」


 「俺の脚も、最初は痛んだ。ない脚が痛む。幻肢痛という」


 「知っている」


 「今は痛まないか」


 「たまに痛む。天気が変わる前に」


 柏木は少し間を置いた。


 「俺も同じだ。疲れた時に、ない目の奥が痛む気がする」


 「気がする、じゃない。本当に痛むんだ」


 「そうか」


 「脳が覚えているんだ。あった場所を。それは正直な反応だ」


 柏木はその言葉を聞いた。


 脳が覚えている。あった場所を。


 「医者らしい言い方だな」


 「軍医だから」


 「元、だろ」


 「俺にとっては今も軍医だ。免許がなくても、知識は残る。体が覚えている」


 柏木は煙草を踏み消した。


 「俺も、自衛隊の訓練は体に残っている」


 「だからCARシステムを一日で形にした」


 「スッティンから聞いたのか」


 「話は伝わる。小さい組織だから」


 柏木は立ち上がった。


 「明日も訓練する。見に来るか」


 「行きます」


 「足手まといになるな」


 「あなたが撃った弾が体に残ったら、俺が出る幕です。足手まといにはならない」


 柏木は少し間を置いた。


 「それは頼もしい」


 「社交辞令か」


 「俺は社交辞令を言わない」


 アレクセイは短く笑った。


 夜のウドンターニーで、虫の音が続いていた。


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