幕間 言語
チェンマイ。柏木班の拠点。
通信室。
川島とカルロスが無線機の前に座っていた。
二人とも、頭を抱えていた。
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「もう一回言ってくれ」
川島が無線に向かって言った。
タイ語の返答が返ってきた。
長い。速い。声調が上下する。
川島は何も分からなかった。
「......カルロス、聞き取れたか」
「無理だ。俺はスペイン語とポルトガル語と英語しか分からない」
「俺は日本語と英語だけだ」
「タイ語は」
「三ヶ月勉強した。だが、全然分からない」
「俺も二ヶ月やった。同じだ」
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問題は単純だった。
柏木班の通信士は二人とも外国人。
タイ語が話せない。
だが、現地の警察や軍との連絡は、タイ語で行われる。
ファリダーが通訳をすることもあるが、彼女は作戦中は前線にいる。
通信室には、タイ語を話せる人間がいない。
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「ファリダーを呼ぶか」
「作戦の打ち合わせ中だ」
「ラッタナーは」
「経理の仕事中だ」
「誰かタイ語が分かる人間は」
「いない」
「......」
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無線から、また声が聞こえた。
タイ語。速い。
川島は必死にメモを取ろうとした。
「クラップ......ティー......マイ......」
「何だ、それは」
「分からない。音だけ拾った」
「意味は」
「分からない」
「......」
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川島はタイ語の辞書を開いた。
「クラップ......これは丁寧語だ。『です』みたいな意味」
「それは分かる。俺でも知っている」
「ティー......『場所』か『〜番目』か......」
「どっちだ」
「文脈による」
「文脈が分からないんだ」
「だから分からないんだ」
「......」
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カルロスが無線を取った。
「こちらチェンマイ特別捜査班。英語で話せますか。リピート。英語で話せますか」
返答。タイ語。
「......何て言っている」
「分からない」
「英語で話せるかどうかも分からないのか」
「分からない」
カルロスは無線を置いた。
「駄目だ。向こうは英語が通じない」
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三十分後。
ファリダーが通信室に来た。
「何かあったんですか」
「助けてくれ」
川島が言った。
「何を」
「タイ語が分からない」
「......また?」
「また」
ファリダーはため息をついた。
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無線の録音を聞いた。
「これは......メーホンソンの県警からですね」
「何て言っている」
「『明日の作戦について確認したい。集合時間と場所を教えてくれ』」
「それだけか」
「それだけです」
「三十分かけて、それが分からなかったのか、俺たちは」
「......そうですね」
川島とカルロスは机に突っ伏した。
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「タイ語、難しすぎる」
カルロスが呟いた。
「同感だ」
川島が答えた。
ファリダーが聞いた。
「どこが難しいですか」
「全部だ」
「全部?」
「まず、声調が分からない」
川島が説明した。
「タイ語は声調言語だろう。同じ音でも、上がったり下がったりで意味が変わる」
「はい。五つの声調があります」
「五つ?」
「はい。平声、低声、下声、高声、上声」
「......日本語には声調がない。英語にもない。スペイン語にもない」
カルロスが付け加えた。
「だから、聞き分けられない」
「練習すれば」
「三ヶ月練習した」
「まだ足りないですね」
「何年かかるんだ」
「人によります」
「......」
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「それと、文字が読めない」
川島が続けた。
「タイ文字ですか」
「そうだ。あれは何だ。曲線だらけで、どこで区切るかも分からない」
「スペースがないんですよね」
カルロスが言った。
「はい。タイ語は単語の間にスペースを入れません」
「なぜ」
「そういう言語だからです」
「不便じゃないのか」
「タイ人には不便じゃないです」
「俺たちには不便だ」
「......そうですね」
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「あと、母音が多すぎる」
カルロスが言った。
「三十二個あるんだろう」
「正確には、短母音と長母音を合わせて、二十を超えます」
「スペイン語は五個だぞ」
「日本語も五個だ」
「タイ語は多すぎる」
「......」
ファリダーは少し困った顔をした。
「でも、作戦では英語を使っていますよね」
「班内ではな。だが、外部との連絡はタイ語だ」
「それは......仕方ないですね」
「仕方ないで済むか。通信士が通信できないんだぞ」
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その時、無線が鳴った。
タイ語の声が流れてきた。
長い。速い。声調が上下する。
川島とカルロスは顔を見合わせた。
ファリダーが無線を取った。
「はい。......はい。......分かりました。伝えます」
通話が終わった。
「何だった」
「チェンライの県警からです。明後日の作戦について、追加の人員を出せるそうです」
「それを俺たちに言われても分からない」
「......そうですね」
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川島が立ち上がった。
「もう限界だ」
「何をするんですか」
「柏木さんに直訴する」
「何を」
「外部との通信を英語に統一してもらう」
「できるんですか」
「やるしかない」
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柏木の部屋。
川島とカルロスが立っていた。
「英語で統一?」
「はい。外部との通信を、全部英語にしてください」
「タイの警察が英語を話せるのか」
「話せない人が多いです」
「なら無理だろう」
「無理でも、やってもらうしかありません」
「なぜだ」
「俺たちがタイ語を話せないからです」
柏木は少し考えた。
「......お前たちがタイ語を覚えればいいんじゃないか」
「三ヶ月やりました」
「足りないのか」
「足りません。五つの声調が聞き分けられません」
「俺は聞き分けられるぞ」
「隊長は特殊です」
「特殊か」
「特殊です」
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カルロスが口を挟んだ。
「柏木さん、何ヶ国語話せるんですか」
「日本語、英語、タイ語。少しだけベトナム語」
「四ヶ国語」
「そうだ」
「どうやって覚えたんですか」
「必要だったから覚えた」
「必要だから覚えられるなら、苦労しません」
「......」
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柏木は煙草を取り出した。
「分かった。大佐に相談する」
「本当ですか」
「本当だ。だが、期待するな。タイの警察に英語を強制するのは難しい」
「では、どうすれば」
「通訳を増やす」
「通訳?」
「タイ語と英語ができる人間を、通信室に配置する」
「誰がいるんですか」
「探す」
「また『探す』ですか」
「そうだ。この部隊は、いつも人を探している」
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一週間後。
通信室に新しい人間が配置された。
プラウィット。二十八歳。タイ人。元通訳。
英語とタイ語が完璧に話せる。
「よろしく」
プラウィットが言った。
「助かる」
川島が言った。
「本当に助かる」
カルロスが言った。
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だが、問題は完全には解決しなかった。
「川島さん、この通信、英語で来てますけど、訛りがひどくて分かりません」
「どこからだ」
「ミャンマー国境の警備隊です」
「ミャンマー訛りの英語か」
「はい。何を言っているか分かりません」
「......」
川島は頭を抱えた。
「タイ語が分からない。ミャンマー訛りの英語も分からない。俺たちは何なら分かるんだ」
「日本語」
「日本語を話すタイ人はいない」
「いませんね」
「......」
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カルロスが言った。
「いっそ、全員にスペイン語を覚えさせるか」
「誰が覚えるんだ」
「分からない」
「却下だ」
「だろうな」
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その夜。
通信室で、川島とカルロスとプラウィットが残業していた。
無線が鳴った。
タイ語。
プラウィットが応答した。
「......はい。......はい。......分かりました」
通話が終わった。
「何だった」
「大佐からです」
「大佐?」
「明日の会議に、川島さんとカルロスさんも出席してほしいそうです」
「何の会議だ」
「通信システムの改善について」
「お、ついに」
「英語を標準にする案が出ているそうです」
「本当か」
「本当です」
川島とカルロスは顔を見合わせた。
「やっと......」
「やっとだな」
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翌日の会議。
結論。
「タイ語を基本とし、必要に応じて英語を併用する」
何も変わらなかった。
「......」
川島とカルロスは無言で通信室に戻った。
プラウィットが待っていた。
「どうでしたか」
「何も変わらなかった」
「そうですか」
「そうだ」
「じゃあ、これからも一緒に頑張りましょう」
「......ああ」
通信士の戦いは、まだまだ続く。




