幕間 経費
チェンマイ。柏木班の拠点。
事務室。
ナターシャとラッタナーが机に向かっていた。
二人の前に、書類の山が積まれている。
領収書。請求書。申請書。報告書。
「......また却下された」
ナターシャが電話を切った。
「何がですか」
「トイレットペーパー」
「トイレットペーパー?」
「そう。三十ロール。四百五十バーツ。却下」
「なぜ」
「『特別予算の対象外』だそうよ」
ラッタナーは首を傾げた。
「ミニガンの弾薬は通るのに?」
「通る」
「GAU-19の弾薬は?」
「通る」
「トイレットペーパーは?」
「通らない」
「......おかしくないですか」
「おかしい。だから戦っている」
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王宮警察の予算システムは複雑だった。
特別作戦用の予算と、通常運営用の予算が別々に管理されている。
武器、弾薬、車両、通信機器。これらは特別予算から出る。大佐の一声で通る。
だが、日用品は通常予算だ。総務部の承認が必要。手続きが煩雑。時間がかかる。
「先週申請した洗剤は」
「まだ審査中」
「コピー用紙は」
「書類不備で差し戻し」
「何が不備なんですか」
「『使用目的が不明確』だそうよ」
「コピー用紙の使用目的って、コピーに使う以外に何があるんですか」
「知らないわ。総務部に聞いて」
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ナターシャは電話を取った。
バンコクの総務部に繋がる。
「もしもし。チェンマイ特別捜査班のナターシャです」
「ああ、また君か」
総務部の担当者の声は、明らかに面倒くさそうだった。
「トイレットペーパーの件ですが」
「却下した」
「理由を教えてください」
「特別予算の対象外だ」
「では、通常予算から出してください」
「通常予算は、正規の部署にしか適用されない」
「私たちは正規の部署です」
「君たちは『特別捜査班』だ。特別予算で運営されている」
「特別予算は武器と弾薬だけです。日用品は含まれていません」
「なら、自費で買え」
「十五人分のトイレットペーパーを自費で?」
「そうだ」
「......」
ナターシャは深呼吸した。
「では、弾薬として申請したらどうなりますか」
「何?」
「7.62ミリ弾、千発。品目名『トイレットペーパー』」
「ふざけているのか」
「ふざけていません。本気です」
電話が切れた。
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ラッタナーが聞いた。
「どうでしたか」
「駄目だった」
「やっぱり」
「でも、方法を思いついた」
「何ですか」
「大佐に直訴する」
「大佐に?」
「そう。大佐なら、総務部を黙らせられる」
「......それ、越権行為じゃないですか」
「越権行為でも、トイレットペーパーがないよりマシよ」
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バンコク。王宮警察本部。
ナターシャは大佐の執務室にいた。
「トイレットペーパー?」
「はい」
「それを俺に言いに来たのか」
「はい」
大佐は少し黙った。
「......分かった。何とかする」
「ありがとうございます」
「だが、今後はこういう件で俺を呼ぶな」
「では、どうすれば」
「総務部を説得しろ」
「説得できません」
「なぜ」
「彼らは規則しか見ていないからです」
大佐はため息をついた。
「......俺が総務部長に話をつける。今後は、日用品も特別予算から出せるようにする」
「本当ですか」
「本当だ。だが、時間がかかる」
「どれくらい」
「一ヶ月くらいだ」
「一ヶ月......」
「それまでは、自費で立て替えろ。後で精算する」
「分かりました」
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チェンマイに戻った。
「どうでしたか」
ラッタナーが聞いた。
「一ヶ月待てば、何とかなるそうよ」
「一ヶ月......」
「それまでは立て替え」
「立て替え......」
二人はため息をついた。
そこに、ニコライが入ってきた。
「これ、経費で落としてくれ」
領収書を差し出した。
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ナターシャは領収書を見た。
「......ウォッカ。十二本。三千六百バーツ」
「そうだ」
「なぜウォッカが経費になるんですか」
「消毒用だ」
「消毒用」
「傷口の消毒に使う」
「アルコール消毒液を買えばいいでしょう」
「ウォッカの方が効く」
「効きません」
「効く。ロシアでは常識だ」
「ここはタイです」
「タイでも効く」
「......」
ナターシャは領収書を却下の山に置いた。
「駄目です」
「なぜ」
「酒類は経費で落とせません」
「消毒用だと言っている」
「飲むでしょう」
「......少しは飲む」
「駄目です」
ニコライは不満そうに出ていった。
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五分後。
ジョンソンが入ってきた。
「これ、経費で」
領収書を差し出した。
ラッタナーが見た。
「......金の腕時計のバンド交換。一万二千バーツ」
「そうだ」
「なぜこれが経費になるんですか」
「作戦中に切れた」
「作戦中に」
「そうだ。敵と格闘した時に」
「それは......消耗品として認められるかもしれませんが、一万二千バーツは高すぎます」
「高くない。純正品だ」
「純正品じゃなくてもいいでしょう」
「駄目だ。親父の形見だ。安物は付けられない」
「形見なら、自費で直してください」
「......」
ジョンソンは不満そうに出ていった。
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十分後。
マルティネスが入ってきた。
「これ」
領収書を差し出した。
「......シルバーのクロスネックレス。修理代。八百バーツ」
「そうだ」
「作戦中に壊れたんですか」
「そうだ。敵の弾が当たった」
「弾が当たった?」
「首のネックレスに弾が当たって、チェーンが切れた」
「......それ、ネックレスがなかったら死んでいたんじゃ」
「そうだな。神の加護だ」
「......」
ラッタナーは少し考えた。
「これは......認めます」
「本当か」
「作戦中の損傷ですから。でも、次からは防弾ベストの中に入れてください」
「分かった」
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三十分後。
ヨナタンが入ってきた。
無言で領収書を置いた。
ナターシャが見た。
「......『品目不明』。二万バーツ」
「そうだ」
「品目不明って何ですか」
「言えない」
「言えないものを経費で落とせません」
「必要なものだ」
「何に必要なんですか」
「言えない」
「......」
ナターシャはヨナタンを見た。
ヨナタンは無表情だった。
「......大佐に確認を取ります」
「取ってくれ」
ヨナタンは出ていった。
ラッタナーが聞いた。
「何だと思いますか」
「分からない。でも、元モサドだから......聞かない方がいいかもしれない」
「......そうですね」
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一時間後。
サラが入ってきた。
「これ、お願い」
領収書を差し出した。
「......シャンプー、コンディショナー、ヘアオイル。合計千二百バーツ」
「そうよ」
「これは......個人の日用品では」
「違うわ。作戦用よ」
「作戦用?」
「髪がボサボサだと、敵に素人だと思われる。プロフェッショナルな外見を維持するのは、作戦の一部よ」
「......」
ナターシャは少し考えた。
「却下です」
「なぜ」
「ニコライのウォッカを却下したから。公平性の問題よ」
「ウォッカとシャンプーは違うでしょう」
「どちらも個人消費です」
「......」
サラは不満そうに出ていった。
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その後も、領収書は続いた。
川島。「日本食材。味噌、醤油、だしの素。合計六百バーツ」
「これは」
「士気の維持に必要です。日本人は味噌汁がないと戦えません」
「却下です」
「なぜ」
「私はロシア人ですが、ボルシチなしでも戦えています」
「......」
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イーゴリ。「サングラス。パイロット用。三千バーツ」
「これは」
「太陽が眩しいと操縦できない」
「普通のサングラスじゃ駄目なんですか」
「駄目だ。偏光レンズが必要だ」
「......認めます。でも、壊さないでください」
「壊さない」
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エイブラハム。「カーステレオ。八千バーツ」
「これは絶対に駄目です」
「なぜ」
「車の装備は公費で賄われています。カーステレオを追加する必要はありません」
「音楽がないと運転できない」
「できます」
「できない。眠くなる」
「コーヒーを飲んでください」
「......」
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マリー。「ギリースーツ用の植物素材。二千バーツ」
「これは......何ですか」
「現地の植物を使って、カモフラージュを改良する」
「植物を買ったんですか」
「そうだ。山で採ると時間がかかる」
「......認めます」
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夕方。
ナターシャとラッタナーは机に突っ伏していた。
「疲れた......」
「疲れました......」
領収書の山は、半分も処理できていなかった。
却下:十五件。
保留:八件。
承認:六件。
「明日も続きがあるのよね」
「あります」
「......」
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そこに、柏木が入ってきた。
「これ」
領収書を差し出した。
ナターシャは恐る恐る見た。
「......煙草。十カートン。二千バーツ」
「そうだ」
「これは......」
「経費で落ちないのは分かっている。自費でいい」
「......え?」
「自費だ。金は払う。記録だけ残してくれ」
ナターシャは柏木を見た。
「......ありがとうございます」
「何がだ」
「普通の領収書を持ってきてくれて」
「普通?」
「はい。ウォッカとか、金の腕時計とか、品目不明二万バーツとか、そういうのじゃなくて」
柏木は少し考えた。
「......誰だ、品目不明は」
「ヨナタンさんです」
「あいつか」
「何だと思いますか」
「聞かない方がいい」
「......やっぱりそうですか」
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柏木は部屋を出ようとして、振り返った。
「大変だろうが、頼む」
「え?」
「お前たちがいないと、この部隊は回らない。戦闘だけが仕事じゃない」
「......」
「感謝している」
柏木は出ていった。
ナターシャとラッタナーは顔を見合わせた。
「......頑張りますか」
「頑張りましょう」
二人は領収書の山に向き直った。
事務官の戦いは、まだ続く。




