第8話 叱責
バンコク。王宮警察本部。
柏木は大佐の執務室に呼び出された。
一人で入った。
ウィチャイ大佐がデスクの後ろに座っていた。表情がない。だが、空気が違った。重い。
「座れ」
柏木は座った。
大佐は書類を見ていた。しばらく沈黙が続いた。
やがて、大佐が顔を上げた。
「お前は馬鹿か」
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柏木は黙っていた。
「答えろ」
「......何のことでしょうか」
「何のことか分からないのか。本当に分からないのか」
大佐は書類をテーブルに叩きつけた。
「この写真を見ろ」
写真だった。チェンマイの作戦の時のものだ。柏木が建物に突入する瞬間。
黒のスーツ。紅色のベスト。ショルダーホルスターが剥き出し。
「この格好で、ゴールデン・トライアングルに突っ込んだのか」
「......はい」
「スーツで。ベストで。防弾装備もなしに」
「防弾ベストは着ていました。スーツの下に」
「スーツの下の防弾ベストで、AKの7.62ミリ弾が止まると思っているのか」
柏木は答えなかった。
「止まらない。貫通する。お前は死ぬ」
大佐は立ち上がった。
「チェンマイの敵はAKを持っていた。次はもっと重武装になる。RPGが来るかもしれない。機関銃が来るかもしれない。お前のスーツは、それを止められるのか」
「......止められません」
「なら、なぜ着替えない」
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大佐の声が大きくなった。
「お前は優秀だ。認めている。だが、死んだら意味がない」
「......」
「お前が死んだら、チームは崩壊する。お前のチームは、お前を中心に動いている。お前がいなくなれば、全員がバラバラになる」
「そんなことは——」
「ある。お前は分かっていないだけだ」
大佐は柏木の前に立った。
「いい加減、戦闘服と防護装備を着ろ」
「......」
「これは命令だ。脅しではない。本気で言っている」
大佐の目は冷たかった。だが、その奥に何かがあった。怒りだけではない。
心配。
柏木はそれに気づいた。
「......了解しました」
「本当に了解したのか」
「しました」
「次にスーツで戦場に出たら、俺がお前を撃つ」
「......」
「冗談じゃない。本気だ」
柏木は頷いた。
「了解しました。戦闘装備を用意します」
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大佐は少し落ち着いた。椅子に戻った。
「装備の話だけじゃない」
「他にも何か」
「ある。座れ」
柏木は座り直した。
「お前たちの活動範囲が広がる。チェンマイだけでは足りない。ゴールデン・トライアングル全域をカバーする必要がある」
「地上車両では限界があります」
「分かっている。だからヘリを回す」
柏木の目が少し大きくなった。
「ヘリ」
「UH-1だ。古いが、まだ飛べる。山岳地帯での運用には十分だ」
「......ありがとうございます」
「礼を言うのは早い」
大佐の目が鋭くなった。
「パイロットと整備要員は、自前で用意しろ」
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柏木は黙った。
「聞こえなかったか」
「聞こえました。パイロットと整備要員を、自前で用意しろと」
「そうだ」
「......理由を聞いてもいいですか」
「破壊工作を阻止するためだ」
「破壊工作」
「ゴールデン・トライアングルの組織は、金を持っている。我々の中にも、買収されている人間がいる可能性がある」
「王宮警察の中に」
「可能性の話だ。だが、ゼロではない」
大佐は続けた。
「ヘリが飛行中に故障したら、お前たちは死ぬ。整備不良で墜落したら、お前たちは死ぬ。パイロットが裏切って敵地に着陸したら、お前たちは死ぬ」
「......」
「だから、信頼できる人間を使え。お前が選んだ人間を。お前が責任を持てる人間を」
柏木は理解した。
「班の人員は、全員俺が揃えろということですか」
「そういうことだ」
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「まだある」
大佐は別の書類を取り出した。
「お前たちのチームは、現在七人だ。全員が外国人。タイ国籍を持っているのは、お前だけだ」
「そうです」
「これは問題だ」
「問題ですか」
「王宮警察の正式な部隊として活動している。だが、メンバーの大半が外国籍。これでは対外的に説明がつかない」
柏木は嫌な予感がした。
「全員に、タイ国籍を取得させろ」
「......全員にですか」
「そうだ。ニコライ、アレクセイ、ジョンソン、マルティネス、サラ。全員だ」
「彼らが同意するかどうか——」
「同意させろ。お前の仕事だ」
大佐は書類を柏木に渡した。
「手続きは簡略化する。通常なら数年かかるが、特例で処理する。書類を揃えれば、一ヶ月で完了する」
「一ヶ月」
「そうだ。急げ」
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柏木は書類を見つめていた。
怒られた。
その上、無茶振りされた。
戦闘装備を用意しろ。パイロットと整備要員を探せ。全員にタイ国籍を取らせろ。
一人でやれと。
「......大佐」
「何だ」
「これは、全部俺一人でやれと」
「そうだ」
「他に支援は」
「ない」
「予算は」
「つける。金の問題ではない。人の問題だ」
「人を探す時間は」
「一ヶ月だ。チェンマイでの作戦は継続しろ。その間に、パイロットと整備要員を見つけろ」
「並行してやれと」
「そうだ」
柏木は黙った。
大佐は柏木を見た。
「できないか」
「......やります」
「本当か」
「やります。やるしかない」
大佐は少しだけ表情を緩めた。ほんの少しだけ。
「期待している」
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執務室を出た。
廊下でチャイロン少佐が待っていた。
「大佐に怒られたか」
「怒られた」
「予想通りだ」
「知っていたのか」
「知っていた。昨日の会議で、お前の装備について議論があった」
「なぜ教えてくれなかった」
「教えても、お前は聞かないだろう」
柏木は黙った。
チャイロンは少し笑った。
「大佐は本気で心配している。お前のことを」
「......分かった」
「分かったなら、装備を変えろ。本当に死ぬぞ」
「変える」
「それと、パイロットの件」
「何か心当たりがあるのか」
「ない。だが、お前なら見つけるだろう」
「楽観的だな」
「お前を信頼しているだけだ」
チャイロンは歩き去った。
柏木は一人で廊下に立っていた。
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チェンマイに戻った。
全員を集めた。
「話がある」
会議室に七人が揃った。
柏木は説明した。戦闘装備への変更。王宮警察のパッチとタイ国旗の着用。そして、国籍変更。
最初に反応したのはニコライだった。
「タイ国籍を取れと」
「そうだ」
「俺はロシアを捨てた。もう一度国籍を変えろと言うのか」
「そうなる」
ニコライは黙った。
アレクセイが言った。
「俺も同じだ。ロシアは捨てた。だが、タイ人になるかどうかは......」
ジョンソンが腕を組んだ。
「俺はアメリカ人だ。生まれてからずっと。それを捨てるのは、簡単じゃない」
マルティネスが首のクロスを触った。
「俺も同じだ。メキシコ系アメリカ人として生きてきた。タイ人になるというのは......」
サラは黙っていた。
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柏木は全員を見渡した。
「強制はしない」
「しないのか」
「しない。これは各自の判断だ。国籍は、アイデンティティに関わる。簡単に決められることじゃない」
「だが、大佐に命令されたんだろう」
「命令された。だが、俺は強制しない」
「お前はどうするつもりだ」
「俺は説得する。だが、最終的な決定は各自に任せる」
沈黙があった。
ニコライが言った。
「......考える時間をくれ」
「いくらでもやる」
「いくらでもはないだろう。期限がある」
「一ヶ月だ」
「一ヶ月か」
ニコライは窓の外を見た。
「お前は、なぜタイ国籍を取った」
「日本に戻る理由がなかったからだ」
「それだけか」
「それと、ここに居場所があったから」
「居場所か」
「そうだ。お前たちがいる。スッティンがいる。チャイロンがいる。俺を必要としてくれる人間がいる」
ニコライは柏木を見た。
「......俺も同じかもしれない」
「どういう意味だ」
「ロシアには戻れない。戻る理由もない。ここには、お前たちがいる」
アレクセイが頷いた。
「俺も同じだ」
ジョンソンが言った。
「アメリカには家族がいる。だが、もう何年も会っていない。俺がいなくても、彼らは生きていける」
マルティネスが付け加えた。
「俺もだ。アメリカに残してきたものはない。ここには、仲間がいる」
サラが初めて口を開いた。
「私も同じよ。CIDを追い出されてから、アメリカに居場所はなかった。ここに来て、初めて居場所を見つけた」
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柏木は少し驚いていた。
「......全員、同意するのか」
「急がせるな。考える時間はもらう」
ニコライが言った。
「だが、方向性は決まった。俺はタイ国籍を取る。たぶん」
「たぶん、か」
「たぶんだ。まだ決めていない」
アレクセイが笑った。
「素直じゃないな」
「うるさい」
会議室の空気が少し和らいだ。
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「次は装備の話だ」
柏木が言った。
「戦闘装備に変更する。全員だ」
「スーツは捨てるのか」
「戦闘時は捨てる。普段は好きにしろ」
「どんな装備になる」
柏木は説明した。
黒のコンバットシャツ。黒のプレートキャリア。セラミックプレート。ライフル弾対応。タクティカルパンツ。戦闘ブーツ。
「それと、王宮警察のエンブレムパッチを着用する。タイ国旗も」
「目立つな」
「目立たせる。大佐の方針だ」
ジョンソンが聞いた。
「個性は残せるのか」
「残せる。各自のスタイルで構わない。だが、プレートキャリアとパッチは必須だ」
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「俺は紅色のシュマグを巻く」
柏木が言った。
「シュマグ?」
「アラブ式のスカーフだ。首に巻く。紅色なら、俺のアイデンティティが残る」
ニコライが言った。
「俺は黒のバラクラバを首に下げておく。使う時は被る」
アレクセイが付け加えた。
「俺は医療パッチをつける。赤十字。それと、ポケットが多いタクティカルベスト」
ファリダーが言った。
「私はタイシルクのスカーフを首に巻きます。紫に金刺繍の」
ジョンソンが腕時計を見た。
「俺はこの時計だけでいい。親父の形見だ」
マルティネスが首のクロスを触った。
「俺はこれだ。外さない」
サラが言った。
「私はシンプルでいいわ。でも、髪は結ぶ。邪魔だから」
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柏木は頷いた。
「それでいい。各自、装備を準備しろ。一週間以内に揃える」
「了解」
「それと、もう一つ」
「まだあるのか」
「ある。ヘリが回されることになった」
「ヘリ?」
「UH-1だ。古いが、飛べる」
ジョンソンが口笛を吹いた。
「ヒューイか。懐かしいな」
「知っているのか」
「ベトナム戦争の象徴だ。アメリカ人なら誰でも知っている」
マルティネスが言った。
「パイロットは誰だ」
「それが問題だ」
「問題?」
「パイロットと整備要員は、俺たちで用意しろと言われた」
沈黙が落ちた。
「......また無茶振りか」
ニコライが呟いた。
「また無茶振りだ」
「心当たりは」
「ない」
「ないのか」
「ないから困っている」
アレクセイが言った。
「俺の知り合いに、元ロシア空軍のパイロットがいる」
「本当か」
「本当だ。ウクライナで一緒だった。今はどこにいるか分からないが......連絡は取れるかもしれない」
「整備要員は」
「それは分からない」
サラが言った。
「私の元同僚に、ヘリの整備経験がある人間がいるわ。元陸軍。今は民間で働いている」
「連絡は取れるか」
「取れると思う。ただ、タイに来るかどうかは分からない」
柏木は少し考えた。
「......全員に連絡を取ってくれ。可能性がある人間には、全員だ」
「了解」
「一ヶ月以内に、パイロットと整備要員を確保する。それが目標だ」
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会議が終わった。
柏木は一人で屋上に出た。
煙草に火をつけた。
チェンマイの夜空。星が見える。バンコクより空気が澄んでいる。
怒られた。無茶振りされた。やることが山積みだ。
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
仲間がいる。
一緒に考えてくれる人間がいる。
一人じゃない。
ニコライが屋上に来た。
「考え事か」
「少し」
「国籍の件、決めた」
「早いな」
「考える必要がなかった」
「どういう意味だ」
「俺はもうロシア人じゃない。ロシアを捨てた時に、そうなった。タイ人になるかどうかは、ただの手続きの問題だ」
「そう思えるのか」
「思える。お前がいるからだ」
柏木はニコライを見た。
「お前についていく。それだけだ」
ニコライは少し笑った。
「感謝しろ。俺がこんなことを言うのは、滅多にない」
「感謝する」
「よし」
二人は黙って、夜空を見た。
星が瞬いていた。




