幕間 勅命
タイという国は、汚職で回っている。
誰もが知っている。誰も言わない。警察も軍も政治家も、金で動く。正義より金。法より金。それがこの国の現実だった。
組織犯罪の取り締まりは、特に難しい。
犯罪組織は金を持っている。金があれば警察を買える。買えない警察官がいれば、脅せばいい。それでも動かなければ、殺せばいい。
だから見逃しが起こる。
サーン・トンカムが保釈されたのも、そういうことだった。五百万バーツ。政治家の金。裁判官の目は曇り、書類は処理され、男は出てきた。
タイ人による取り締まりには限界がある。
血縁。地縁。学閥。軍閥。あらゆる繋がりが、判断を鈍らせる。従兄弟の従兄弟が組織にいる。同級生の父親が政治家だ。上官の息子が関わっている。
手心が加わる。見逃しが起こる。正義が腐る。
だから、外国人が必要だった。
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だが、ただの外国人ではいけない。
ならず者を雇えば、ならず者の仕事しかしない。金で動く人間は、より高い金で寝返る。PMCを雇えば、タイは外国の傭兵に国内の治安を委ねることになる。主権の問題だ。
必要なのは、タイ人を守る外国人だった。
タイの法に従い、タイの民を守り、タイの敵を倒す人間。金で動かない人間。脅しに屈しない人間。正義のために戦う人間。
そんな人間は滅多にいない。
だが、現れた。
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柏木勇気。
日本人。元自衛隊。片目を失い、国を追われ、タイに流れ着いた男。
ウドンターニーでNGOに参加し、人身売買組織を単独で壊滅させた。日本に戻り、犯罪ネットワークを解体した。タイに戻り、国境の詐欺拠点を制圧した。
二人で十二人を相手にした。二人で本拠点に突入し、サーン・トンカムを捕らえた。
報告書は上に届いた。
チャイロン少佐から、ウィチャイ大佐へ。大佐から、さらに上へ。
最終的に、ある御方の目に留まった。
誰とは言えない。言ってはならない。だが、タイという国で「御方」と言えば、一人しかいない。
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御方は判断した。
この男を使え。
日本政府と揉めることになるだろう。外交問題になるかもしれない。だが、その価値はある。
タイには、容赦のない刃が必要だ。汚職を切り、見逃しを許さず、犯罪組織を根絶する刃が。
タイ人にはそれができない。できる人間がいても、繋がりが邪魔をする。
外国人にやらせる。だが、タイを守る外国人に。
柏木勇気は、その条件を満たしていた。
日本政府との交渉は難航した。だが、最終的にタイ側が押し切った。柏木はタイ国籍を取得した。日本人ではなくなった。日本政府に口を出す権限はなくなった。
すべては、御方の意思だった。
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バンコク。
新設された捜査本部。
二階建ての小さなビル。外から見れば、ただの事務所にしか見えない。看板もない。表札もない。
だが、中には最新の通信機器がある。武器庫がある。車両が三台。資金は潤沢に用意されている。
柏木、ニコライ、アレクセイ。三人がビルの前に立っていた。
チャイロン少佐が待っていた。
「ここがお前たちの拠点だ」
「小さいな」
「小さい方がいい。目立たない」
柏木は建物を見上げた。
「中を見せてくれ」
「ついてこい」
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一階はオフィスと会議室。二階は武器庫と休憩室。地下に車庫がある。
柏木は武器庫を見た。
HK416が六丁。タイ軍の制式小銃だ。グロック17が八丁。SIG P320が四丁。弾薬は十分にある。防弾ベスト。暗視ゴーグル。通信機器。
柏木のベレッタM92FSは、ここにはない。ポーの遺品は、柏木のホルスターの中にある。それでいい。
「装備は十分だ」
「金は惜しまない。上からの指示だ」
「上とは」
チャイロンは答えなかった。
会議室に入った。テーブルの上に封筒が置いてある。
「これが指令だ」
柏木は封筒を開けた。
中に紙が一枚。タイ語で書かれている。
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『犯罪班を組織せよ。
資金と装備は渡す。人材はなんとかしろ。
問題が起これば、ウィチャイ大佐とチャイロン少佐が連名で全責任を取る。
忘れるな。』
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柏木は紙を見つめた。
「これだけか」
「これだけだ」
「具体的な指示は」
「ない」
「目標は」
「組織犯罪の壊滅だ。人身売買。特殊詐欺。麻薬。武器密輸。すべてだ」
「範囲が広すぎる」
「だから『班を組織しろ』と書いてある」
柏木はニコライを見た。ニコライはアレクセイを見た。アレクセイは肩をすくめた。
「人材はなんとかしろ、か」
ニコライが言った。
「そういうことだ」
「当てはあるのか」
「ない」
「ないのか」
「これから探す」
チャイロンが口を挟んだ。
「一つだけ条件がある」
「何だ」
「タイ人を一人入れろ。外国人だけでは、現地の情報が取れない」
「誰かいるのか」
「いる」
チャイロンは窓の外を見た。
「ファリダーだ」
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柏木は少し黙った。
「あの女か」
「そうだ。お前と一緒に動いた。経験がある」
「経験は浅い」
「だから育てる。お前が育てろ」
「俺が」
「そうだ」
柏木は考えた。
ファリダー・チャンチャイ。ウドンターニー警察の新人刑事。首席で卒業した女。射撃も一位だった。
しつこい。うるさい。だが、裏口を見つけたのは彼女だった。被害者を保護したのも彼女だった。
使えないことはない。
「......分かった」
「受けるか」
「受ける」
チャイロンは頷いた。
「ファリダーには俺から話す。一週間後にここに来る」
「分かった」
チャイロンは立ち上がった。
「最後に一つ」
「何だ」
「問題が起これば、俺と大佐が責任を取る。だが、それはお前たちを守るためじゃない」
「分かっている」
「お前たちが暴走すれば、切り捨てる。それも分かっているな」
「分かっている」
「なら、いい」
チャイロンは会議室を出ていった。
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三人が残った。
ニコライが指令書を見た。
「シンプルだな」
「シンプルすぎる」
アレクセイが言った。
「犯罪班を組織しろ。人材はなんとかしろ。これだけで何をしろと」
柏木は窓の外を見た。
バンコクの街並み。高層ビル。渋滞。喧騒。
この街のどこかに、犯罪組織がある。人を売り、人を騙し、人を殺している。
それを止める。
それが仕事だ。
「まず情報だ」
柏木が言った。
「情報?」
「今、タイで動いている犯罪組織をリストアップする。規模、活動内容、拠点、構成員。全部だ」
「どうやって」
「プラチャーに聞く。スッティンにも聞く。ファリダーが来たら、警察のデータベースにアクセスさせる」
「それから」
「優先順位をつける。一番悪質なところから潰す」
ニコライは少し笑った。
「分かりやすいな」
「複雑にする必要がない」
「そうだな」
アレクセイが言った。
「俺は医療の準備をしておく。怪我人が出るだろうからな」
「頼む」
柏木は煙草を取り出した。
火をつけた。
深く吸い込んだ。
新しい戦いが始まる。
資金はある。装備はある。仲間がいる。
あとは、やるだけだ。




