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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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最終話 新しい名前

三ヶ月後。


 バンコク。


 柏木はタイ国籍を取得した。


 正式名称は「カシワギ・ユウキ」のまま。タイ語の名前を取ることもできたが、柏木は断った。自分の名前を捨てるつもりはなかった。


 日本国籍は放棄した。


 日本大使館からは何度も連絡があった。「考え直せ」「まだ間に合う」「日本人としての誇りはないのか」。柏木は全て無視した。


 最後の連絡は、片岡からだった。


 『お前のような人間が日本を捨てるのは、国家の損失だ』


 柏木は短く返した。


 『損失だと思うなら、なぜ日本で報われなかった』


 返事は来なかった。


---


 ウドンターニー。スッティンのシェルター。


 柏木は荷物をまとめていた。


 大した量ではない。衣類が少し。日用品が少し。ベレッタM92FSと、マガジン三本。


 スッティンが部屋に来た。


 「行くのか」


 「ああ」


 「寂しくなるな」


 「そうか」


 「そうだ」


 スッティンは窓の外を見た。


 「お前がいなくなったら、誰が荒事をやるんだ」


 「ペットがいる」


 「ペットは運転手だ」


 「ノックがいる」


 「ノックは被害者ケアだ」


 「お前がやれ」


 スッティンは苦笑した。


 「俺は指揮官タイプだ。現場向きじゃないと、お前が言ったんだぞ」


 「言ったな」


 「なら、どうする」


 柏木は荷物を閉じた。


 「新しい人間を探せ。俺みたいな馬鹿を」


 「そんな馬鹿は滅多にいない」


 「探せばいる」


 スッティンは黙った。


 柏木はスッティンを見た。


 「スッティン」


 「何だ」


 「感謝している」


 スッティンの目が少し大きくなった。


 「お前から、そんな言葉が出るとは思わなかった」


 「俺も思わなかった」


 「......何に感謝してるんだ」


 「俺をここに呼んでくれたことだ」


 柏木は窓の外を見た。


 「日本を出る時、俺は終わった人間だった。金もない。仕事もない。体も万全じゃない。消費者金融の借金だけが残っていた」


 「......」


 「お前が声をかけてくれなかったら、俺は今頃どうなっていたか分からない」


 スッティンは何も言わなかった。


 「だから感謝している。それだけだ」


 スッティンは少し笑った。


 「お前は変わったな」


 「そうか」


 「来た時は、もっと無愛想だった」


 「今も無愛想だ」


 「少しマシになった」


 柏木は荷物を肩にかけた。


 「行く」


 「ああ」


 二人は握手した。


 「また会えるか」


 「会える。タイは狭い」


 「そうだな」


 柏木は部屋を出た。


---


 シェルターの前に、車が停まっていた。


 ニコライが運転席にいる。アレクセイが助手席。


 柏木は後部座席に乗り込んだ。


 「待たせたか」


 「待った」


 ニコライが言った。


 「どれくらいだ」


 「三十分」


 「悪いな」


 「謝るな。待つのは慣れている」


 車が走り出した。


 「これからバンコクか」


 アレクセイが聞いた。


 「そうだ」


 「少佐が待っているのか」


 「そうだ」


 「何の話だ」


 「新しい仕事の話だ」


 ニコライが言った。


 「俺たちも含めてか」


 「お前たちが望むなら」


 「望む」


 ニコライは即答した。


 「理由は」


 「面白そうだからだ」


 アレクセイが付け加えた。


 「俺も同じだ。お前といると退屈しない」


 「褒め言葉として受け取っておく」


 「褒めてる」


 車はウドンターニーの市街地を抜け、南へ向かった。


---


 バンコク。王宮警察本部。


 柏木たちは会議室に通された。


 チャイロン少佐が待っていた。そして、見慣れない男が一人。


 五十代。軍服を着ている。階級章は大佐。顔に表情がない。


 「座れ」


 チャイロンが言った。


 三人が座った。


 「紹介する。ウィチャイ大佐だ」


 大佐は頷いただけで、何も言わなかった。


 チャイロンが続けた。


 「今回の件を受けて、中央が動くことになった」


 「中央」


 「そうだ。タイとラオスの国境地帯における組織犯罪は、もはや地方警察の手に負える規模ではない。日本政府からの要請もあり、専門の部隊を編成することになった」


 柏木は黙って聞いていた。


 「お前を、その部隊の実働要員として採用したい」


 「条件は」


 「対犯罪組織の捜査官だ。タイ国籍を取得したお前には、正式な資格がある」


 「俺は警察官じゃない」


 「訓練を受ければなれる。だが、名目上は別だ」


 「どういう意味だ」


 チャイロンは少し間を置いた。


 「名目上は、俺の部下ということになる。俺が責任者だ。だが、実質的な指揮系統は別にある」


 「別とは」


 ウィチャイ大佐が初めて口を開いた。


 「王宮警察だ」


 柏木は大佐を見た。


 「王宮警察の管轄に入るということか」


 「そうだ」


 「なぜ俺なんだ」


 大佐は答えなかった。


 チャイロンが代わりに言った。


 「お前の働きは、上に報告されている。リクルート拠点の制圧。本拠点への突入。サーン・トンカムの逮捕。すべてだ」


 「それで」


 「評価されたということだ。誰にとは言わない。言えない」


 柏木は黙った。


 王宮警察。タイ王室の直轄組織。国王を守るための警察だが、その権限は広い。政府や軍とは別の系統で動く。


 誰の意思なのか。


 多くは語られない。だが、はっきりと分かる。


 「断ったらどうなる」


 「断ることはできない」


 大佐が言った。


 「これは条件だ。タイ国籍を取得するための条件。お前はすでに受け入れている」


 柏木は少し考えた。


 「......最初から決まっていたのか」


 チャイロンが頷いた。


 「そうだ。お前がタイに残りたいと言った時点で、話は動いていた」


 「俺に拒否権はなかったということか」


 「なかった。だが、悪い話ではないはずだ」


 柏木は窓の外を見た。


 バンコクの街並み。高層ビル。渋滞する車。喧騒。


 「......分かった」


 「受けるか」


 「受ける」


 大佐が立ち上がった。


 「では、これから詳細を説明する。ついてこい」


 三人は立ち上がった。


 会議室を出る前に、柏木はチャイロンを見た。


 「少佐」


 「何だ」


 「俺を利用したな」


 チャイロンは少し笑った。


 「利用したんじゃない。適材適所だ」


 「同じことだ」


 「違う。お前には選択肢があった。日本に帰ることもできた」


 「帰れなかった」


 「帰れなかったんじゃない。帰らなかったんだ。お前が選んだ」


 柏木は黙った。


 チャイロンが続けた。


 「お前は正義の人間だ。正義のために戦う人間だ。そういう人間には、相応しい場所がある」


 「ここがそうだと」


 「そうだ」


 柏木は何も言わなかった。


 廊下に出た。


 大佐の後について歩く。ニコライとアレクセイが隣にいる。


 「聞いたか」


 ニコライが小声で言った。


 「聞いた」


 「王宮警察か。出世したな」


 「出世じゃない。利用されているだけだ」


 「同じことだ」


 「違う」


 アレクセイが言った。


 「どう違う」


 「利用されているなら、利用し返せばいい」


 柏木はアレクセイを見た。


 「お前も来るのか」


 「来る」


 「理由は」


 「さっき言った。お前といると退屈しない」


 「それだけか」


 「それだけだ。それで十分だ」


 ニコライが笑った。


 「俺も同じだ。面白そうだから来る。理由は要らない」


 柏木は前を向いた。


 大佐の背中が見える。


 新しい仕事。新しい立場。新しい人生。


 日本を捨てた。名前は残した。


 柏木勇気。


 元自衛隊。元登録支援機関。元NGOスタッフ。


 そして今は、タイ王宮警察の対犯罪組織捜査官。


 肩書きは変わった。だが、やることは変わらない。


 正しいことをする。


 見ていられないから、助ける。


 それだけだ。


---


 夜。


 バンコクの屋台街。


 柏木とニコライとアレクセイ。三人で飯を食っていた。


 パッタイ。トムヤムクン。カオマンガイ。


 ニコライはカオマンガイを三皿食べた。


 「よく食うな」


 柏木が言った。


 「体が大きいからな」


 「それにしても多い」


 「ロシア料理よりうまい」


 「そうか」


 「そうだ」


 アレクセイがビールを飲みながら言った。


 「これから忙しくなるな」


 「そうだな」


 「後悔はないか」


 「ない」


 「本当か」


 柏木は煙草を取り出した。火をつけた。


 「本当だ」


 「日本を捨てたことも」


 「捨てたんじゃない。出ていったんだ」


 「同じことだ」


 「違う」


 ニコライが口を挟んだ。


 「俺はロシアを捨てた。戦争を拒否した時に、捨てた。だが後悔はしていない」


 「なぜだ」


 「ここにいるからだ。お前たちと。それで十分だ」


 アレクセイが頷いた。


 「俺もだ。前線を離れた時、俺はロシア軍を捨てた。だが後悔はしていない。ここにいるからだ」


 柏木は二人を見た。


 「お前たちは変わっているな」


 「お前もだ」


 「そうか」


 「そうだ」


 三人は黙って飯を食った。


 屋台の明かりが揺れている。バンコクの夜は蒸し暑い。虫が鳴いている。


 柏木は空を見上げた。


 星が見えた。日本で見た星と同じ星。だが、違う空の下。


 新しい場所。新しい仲間。新しい戦い。


 ポーの遺品のベレッタが、ホルスターの中にある。


 まだ終わっていない。


 サーンは捕まった。グローバルキャリアは潰れた。リクルート拠点も本拠点も制圧した。


 だが、犯罪は終わらない。新しい組織が生まれる。新しい被害者が生まれる。


 それを止めるのが、柏木の仕事になった。


 「柏木」


 ニコライが言った。


 「何だ」


 「これからよろしく頼む」


 「こちらこそ」


 「形式的だな」


 「形式は大事だ」


 ニコライは笑った。


 アレクセイがビールを掲げた。


 「乾杯しよう」


 「何に」


 「新しい始まりに」


 柏木は水を掲げた。酒は飲まない。


 「新しい始まりに」


 三つのグラスがぶつかった。


 タイの夜は、まだ長い。

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