最終話 新しい名前
三ヶ月後。
バンコク。
柏木はタイ国籍を取得した。
正式名称は「カシワギ・ユウキ」のまま。タイ語の名前を取ることもできたが、柏木は断った。自分の名前を捨てるつもりはなかった。
日本国籍は放棄した。
日本大使館からは何度も連絡があった。「考え直せ」「まだ間に合う」「日本人としての誇りはないのか」。柏木は全て無視した。
最後の連絡は、片岡からだった。
『お前のような人間が日本を捨てるのは、国家の損失だ』
柏木は短く返した。
『損失だと思うなら、なぜ日本で報われなかった』
返事は来なかった。
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ウドンターニー。スッティンのシェルター。
柏木は荷物をまとめていた。
大した量ではない。衣類が少し。日用品が少し。ベレッタM92FSと、マガジン三本。
スッティンが部屋に来た。
「行くのか」
「ああ」
「寂しくなるな」
「そうか」
「そうだ」
スッティンは窓の外を見た。
「お前がいなくなったら、誰が荒事をやるんだ」
「ペットがいる」
「ペットは運転手だ」
「ノックがいる」
「ノックは被害者ケアだ」
「お前がやれ」
スッティンは苦笑した。
「俺は指揮官タイプだ。現場向きじゃないと、お前が言ったんだぞ」
「言ったな」
「なら、どうする」
柏木は荷物を閉じた。
「新しい人間を探せ。俺みたいな馬鹿を」
「そんな馬鹿は滅多にいない」
「探せばいる」
スッティンは黙った。
柏木はスッティンを見た。
「スッティン」
「何だ」
「感謝している」
スッティンの目が少し大きくなった。
「お前から、そんな言葉が出るとは思わなかった」
「俺も思わなかった」
「......何に感謝してるんだ」
「俺をここに呼んでくれたことだ」
柏木は窓の外を見た。
「日本を出る時、俺は終わった人間だった。金もない。仕事もない。体も万全じゃない。消費者金融の借金だけが残っていた」
「......」
「お前が声をかけてくれなかったら、俺は今頃どうなっていたか分からない」
スッティンは何も言わなかった。
「だから感謝している。それだけだ」
スッティンは少し笑った。
「お前は変わったな」
「そうか」
「来た時は、もっと無愛想だった」
「今も無愛想だ」
「少しマシになった」
柏木は荷物を肩にかけた。
「行く」
「ああ」
二人は握手した。
「また会えるか」
「会える。タイは狭い」
「そうだな」
柏木は部屋を出た。
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シェルターの前に、車が停まっていた。
ニコライが運転席にいる。アレクセイが助手席。
柏木は後部座席に乗り込んだ。
「待たせたか」
「待った」
ニコライが言った。
「どれくらいだ」
「三十分」
「悪いな」
「謝るな。待つのは慣れている」
車が走り出した。
「これからバンコクか」
アレクセイが聞いた。
「そうだ」
「少佐が待っているのか」
「そうだ」
「何の話だ」
「新しい仕事の話だ」
ニコライが言った。
「俺たちも含めてか」
「お前たちが望むなら」
「望む」
ニコライは即答した。
「理由は」
「面白そうだからだ」
アレクセイが付け加えた。
「俺も同じだ。お前といると退屈しない」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてる」
車はウドンターニーの市街地を抜け、南へ向かった。
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バンコク。王宮警察本部。
柏木たちは会議室に通された。
チャイロン少佐が待っていた。そして、見慣れない男が一人。
五十代。軍服を着ている。階級章は大佐。顔に表情がない。
「座れ」
チャイロンが言った。
三人が座った。
「紹介する。ウィチャイ大佐だ」
大佐は頷いただけで、何も言わなかった。
チャイロンが続けた。
「今回の件を受けて、中央が動くことになった」
「中央」
「そうだ。タイとラオスの国境地帯における組織犯罪は、もはや地方警察の手に負える規模ではない。日本政府からの要請もあり、専門の部隊を編成することになった」
柏木は黙って聞いていた。
「お前を、その部隊の実働要員として採用したい」
「条件は」
「対犯罪組織の捜査官だ。タイ国籍を取得したお前には、正式な資格がある」
「俺は警察官じゃない」
「訓練を受ければなれる。だが、名目上は別だ」
「どういう意味だ」
チャイロンは少し間を置いた。
「名目上は、俺の部下ということになる。俺が責任者だ。だが、実質的な指揮系統は別にある」
「別とは」
ウィチャイ大佐が初めて口を開いた。
「王宮警察だ」
柏木は大佐を見た。
「王宮警察の管轄に入るということか」
「そうだ」
「なぜ俺なんだ」
大佐は答えなかった。
チャイロンが代わりに言った。
「お前の働きは、上に報告されている。リクルート拠点の制圧。本拠点への突入。サーン・トンカムの逮捕。すべてだ」
「それで」
「評価されたということだ。誰にとは言わない。言えない」
柏木は黙った。
王宮警察。タイ王室の直轄組織。国王を守るための警察だが、その権限は広い。政府や軍とは別の系統で動く。
誰の意思なのか。
多くは語られない。だが、はっきりと分かる。
「断ったらどうなる」
「断ることはできない」
大佐が言った。
「これは条件だ。タイ国籍を取得するための条件。お前はすでに受け入れている」
柏木は少し考えた。
「......最初から決まっていたのか」
チャイロンが頷いた。
「そうだ。お前がタイに残りたいと言った時点で、話は動いていた」
「俺に拒否権はなかったということか」
「なかった。だが、悪い話ではないはずだ」
柏木は窓の外を見た。
バンコクの街並み。高層ビル。渋滞する車。喧騒。
「......分かった」
「受けるか」
「受ける」
大佐が立ち上がった。
「では、これから詳細を説明する。ついてこい」
三人は立ち上がった。
会議室を出る前に、柏木はチャイロンを見た。
「少佐」
「何だ」
「俺を利用したな」
チャイロンは少し笑った。
「利用したんじゃない。適材適所だ」
「同じことだ」
「違う。お前には選択肢があった。日本に帰ることもできた」
「帰れなかった」
「帰れなかったんじゃない。帰らなかったんだ。お前が選んだ」
柏木は黙った。
チャイロンが続けた。
「お前は正義の人間だ。正義のために戦う人間だ。そういう人間には、相応しい場所がある」
「ここがそうだと」
「そうだ」
柏木は何も言わなかった。
廊下に出た。
大佐の後について歩く。ニコライとアレクセイが隣にいる。
「聞いたか」
ニコライが小声で言った。
「聞いた」
「王宮警察か。出世したな」
「出世じゃない。利用されているだけだ」
「同じことだ」
「違う」
アレクセイが言った。
「どう違う」
「利用されているなら、利用し返せばいい」
柏木はアレクセイを見た。
「お前も来るのか」
「来る」
「理由は」
「さっき言った。お前といると退屈しない」
「それだけか」
「それだけだ。それで十分だ」
ニコライが笑った。
「俺も同じだ。面白そうだから来る。理由は要らない」
柏木は前を向いた。
大佐の背中が見える。
新しい仕事。新しい立場。新しい人生。
日本を捨てた。名前は残した。
柏木勇気。
元自衛隊。元登録支援機関。元NGOスタッフ。
そして今は、タイ王宮警察の対犯罪組織捜査官。
肩書きは変わった。だが、やることは変わらない。
正しいことをする。
見ていられないから、助ける。
それだけだ。
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夜。
バンコクの屋台街。
柏木とニコライとアレクセイ。三人で飯を食っていた。
パッタイ。トムヤムクン。カオマンガイ。
ニコライはカオマンガイを三皿食べた。
「よく食うな」
柏木が言った。
「体が大きいからな」
「それにしても多い」
「ロシア料理よりうまい」
「そうか」
「そうだ」
アレクセイがビールを飲みながら言った。
「これから忙しくなるな」
「そうだな」
「後悔はないか」
「ない」
「本当か」
柏木は煙草を取り出した。火をつけた。
「本当だ」
「日本を捨てたことも」
「捨てたんじゃない。出ていったんだ」
「同じことだ」
「違う」
ニコライが口を挟んだ。
「俺はロシアを捨てた。戦争を拒否した時に、捨てた。だが後悔はしていない」
「なぜだ」
「ここにいるからだ。お前たちと。それで十分だ」
アレクセイが頷いた。
「俺もだ。前線を離れた時、俺はロシア軍を捨てた。だが後悔はしていない。ここにいるからだ」
柏木は二人を見た。
「お前たちは変わっているな」
「お前もだ」
「そうか」
「そうだ」
三人は黙って飯を食った。
屋台の明かりが揺れている。バンコクの夜は蒸し暑い。虫が鳴いている。
柏木は空を見上げた。
星が見えた。日本で見た星と同じ星。だが、違う空の下。
新しい場所。新しい仲間。新しい戦い。
ポーの遺品のベレッタが、ホルスターの中にある。
まだ終わっていない。
サーンは捕まった。グローバルキャリアは潰れた。リクルート拠点も本拠点も制圧した。
だが、犯罪は終わらない。新しい組織が生まれる。新しい被害者が生まれる。
それを止めるのが、柏木の仕事になった。
「柏木」
ニコライが言った。
「何だ」
「これからよろしく頼む」
「こちらこそ」
「形式的だな」
「形式は大事だ」
ニコライは笑った。
アレクセイがビールを掲げた。
「乾杯しよう」
「何に」
「新しい始まりに」
柏木は水を掲げた。酒は飲まない。
「新しい始まりに」
三つのグラスがぶつかった。
タイの夜は、まだ長い。




