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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第29話 決断

施設の裏手。


 柏木とニコライは、鉄条網の下を這って潜り込んだ。


 正面では銃撃戦が続いている。タイの部隊が陽動になっている。裏手の警備は手薄だった。見張りが一人だけ。建物の陰で煙草を吸っている。


 ニコライが近づいた。


 音もなく。影のように。


 見張りが気づいた時には、もう遅かった。ニコライの腕が首に回り、締め上げる。十秒で意識を失った。


 地面に横たえる。


 手信号。クリア。


 柏木が続いた。


---


 裏口から建物に入った。


 暗い廊下。どこかで叫び声が聞こえる。銃声も聞こえる。正面の戦闘が続いている。


 柏木はベレッタを構えた。CARシステム。体の中心に銃を引き付ける。


 廊下を進む。


 左に曲がる。


 男が一人、走ってきた。AKを持っている。


 柏木は止まらなかった。


 距離が縮まる。八メートル。五メートル。


 男が銃を向ける。


 柏木は体を低くしながら前に出た。男の銃口が柏木を追う。だが追いきれない。


 三メートル。


 柏木の左手がAKのバレルを掴んだ。上に逸らす。男が引き金を引いた。弾は天井に当たった。


 同時に、柏木の右手がベレッタを男の脇腹に押し当てていた。


 銃声。


 男が崩れる。


 柏木はAKを奪い取った。そのまま前進する。


 一連の動作に淀みがなかった。


---


 階段を上がった。


 二階。廊下の突き当たりに扉がある。


 その前に男が三人いた。全員がAKを持っている。サーンの護衛だろう。


 距離、十五メートル。


 遠い。だが柏木は止まらなかった。


 奪ったAKを腰だめで構える。体の軸で狙う。


 撃ちながら前に出る。


 一発目。先頭の男の胸。


 二発目。二人目の腹。


 距離が縮まる。十メートル。八メートル。


 三人目が撃ち返してきた。弾が柏木の横を抜ける。


 柏木は止まらない。


 五メートル。


 AKの弾が切れた。


 柏木はAKを投げた。三人目の顔面に当たる。男が怯んだ。


 その隙に距離を詰める。二メートル。


 右手がベレッタを抜いていた。


 男の顔の前に銃口を突きつける。


 「動くな」


 男は動かなかった。


---


 ニコライが追いついてきた。


 三人を拘束する。一人は死んでいる。二人は負傷して動けない。


 「サーンはこの中か」


 ニコライが扉を見た。


 「おそらく」


 柏木は扉に近づいた。


 蹴り破った。


---


 部屋の中は広かった。


 サーン・トンカムがいた。


 机の後ろに立っている。手に拳銃を持っていた。


 そして、人質がいた。


 若い女。タイ人。目が虚ろだ。サーンの腕に首を押さえられている。銃口が女のこめかみに当てられていた。


 「止まれ」


 サーンが言った。


 柏木は止まった。


 「銃を下ろせ」


 「断る」


 「下ろさなければ、この女を殺す」


 サーンの目は本気だった。


 柏木はサーンを見た。


 「お前を逮捕する」


 「逮捕?」


 サーンは笑った。


 「お前は警察じゃない。逮捕する権限などない」


 「権限はない。だが捕まえる」


 「どうやって。俺を撃てば、この女が死ぬ」


 柏木は黙った。


 サーンが続けた。


 「俺を逃がせ。この女は解放する」


 「信用できない」


 「信用しなくていい。選択肢がないだろう」


 柏木は考えた。


 距離、七メートル。CARシステムの有効範囲内。だがサーンの銃口は女のこめかみにある。撃てば女が死ぬ。


 ニコライが横にいる。だが同じ状況だ。


 「十秒やる。銃を下ろせ」


 サーンが言った。


 「十。九。八......」


---


 柏木の目がサーンの全身を捉えていた。


 銃を持つ右手。女の首を押さえる左腕。体の向き。足の位置。


 サーンの意識は柏木に向いている。


 ニコライには向いていない。


 「七。六。五......」


 柏木は小さく手信号を出した。


 右。


 ニコライが動いた。


 右に動く。サーンの視界の端に入る。


 サーンの目がニコライを追った。一瞬だけ。


 その一瞬で、柏木は動いた。


 前に出る。全力で。


 サーンが気づいた。銃口が女から離れ、柏木に向く。


 発砲。


 弾は柏木の左肩を掠めた。


 だが柏木は止まらなかった。


 距離が消える。三メートル。二メートル。


 柏木の左手がサーンの右手首を掴んだ。銃を持つ手。外側に捻る。


 サーンが叫んだ。銃が落ちた。


 同時に柏木の右手がベレッタをサーンの顎下に押し当てていた。


 「終わりだ」


 サーンの体から力が抜けた。


 女が崩れ落ちた。ニコライが駆け寄り、抱き起こした。


 「大丈夫か」


 女は答えなかった。目が虚ろなまま、震えていた。


---


 柏木はサーンを床に押し倒した。膝で背中を押さえ、手首を後ろで縛る。


 「これで二度目だ」


 柏木が言った。


 「何」


 「お前を捕まえるのは」


 サーンは笑った。


 「また出てくる」


 「出てこない」


 「なぜ分かる」


 「今度は殺人だからだ。お前の組織が何人殺したか、数えているか」


 サーンは黙った。


 柏木は立ち上がった。


 「終わったな」


 ニコライが言った。


 「ああ」


 柏木の左肩から血が流れていた。掠り傷だが、血が止まらない。


 「アレクセイに診てもらえ」


 「後でいい」


 「後じゃない。今だ」


 柏木は少し笑った。


 「分かった」


---


 施設の制圧が完了したのは、午前十時だった。


 サーンの組織は壊滅した。拘束者十七人。負傷者八人。死者四人。


 被害者は五十三人の日本人と、二十一人の外国人。全員が保護された。


 女たちの多くは、立つことすらできなかった。担架で運ばれた。


 日本人の男たちは、無言で座り込んでいた。誰も目を合わせようとしなかった。


 柏木は彼らを見た。


 被害者のはずだった。だが、目を見れば分かった。彼らの一部は加害者でもあった。


 柏木は何も言わなかった。


 それを裁くのは、柏木の仕事ではない。


---


 午後。


 柏木はアレクセイに肩の傷を縫ってもらっていた。


 「浅い。骨には達していない」


 「分かっている」


 「だが痛むだろう」


 「慣れている」


 アレクセイは黙って縫い続けた。


 チャイロン少佐が近づいてきた。


 「柏木」


 「少佐」


 「日本の捜査班が話したがっている」


 「何の話だ」


 「お前の身柄についてだ」


---


 仮設テントの中。


 片岡がいた。足を撃たれて、椅子に座っている。傍らに部下が二人。


 そして、見慣れない男が一人。スーツを着ている。


 「在タイ日本大使館の者です」


 男が言った。名刺を差し出す。柏木は受け取らなかった。


 「何の用だ」


 「柏木勇気さん。あなたを日本に連れ帰る必要があります」


 「連れ帰る」


 「そうです」


 片岡が口を挟んだ。


 「お前には聞きたいことが山ほどある」


 「聞きたいこと」


 「お前は何者だ。元自衛隊だと聞いた。だが普通の元自衛隊じゃない」


 「答える義務はない」


 「義務はなくても、協力はしてもらう」


 「協力?」


 「お前が施設の中で何をしたか、報告書を書かなければならない」


 柏木は黙った。


 大使館の男が続けた。


 「さらに、あなたが所持していた銃器についても説明が必要です」


 「タイで合法的に入手したものだ」


 「それはタイ側の問題です。問題は、あなたが日本国籍を持つ人間だということです」


 「だから何だ」


 「日本人が海外で銃器を使用した場合、日本の法律が適用される可能性があります」


 柏木は大使館の男を見た。


 「俺を逮捕するつもりか」


 「逮捕ではありません。任意の聴取です」


 「任意なら断る」


 「断ることはできません」


 「できる。ここはタイだ」


 片岡が立ち上がろうとした。足を引きずっている。


 「ふざけるな。お前は日本人だ。日本の法律に従え」


 「従わない」


 「何だと」


 「お前たちの命を救ったのは誰だ」


 片岡が黙った。


 「正面から突入して、撃たれたのは誰だ。交渉すれば解決すると思い込んでいたのは誰だ」


 「それは——」


 「お前たちが無能だったから、俺が動いた。それを今さら逮捕するだと」


 片岡の顔が赤くなった。


 「貴様——」


---


 テントの入口が開いた。


 チャイロン少佐が入ってきた。後ろにプラチャーがいる。


 「何の話だ」


 チャイロンが聞いた。


 大使館の男が答えた。


 「柏木氏の身柄について、日本側として話し合いたいと」


 「身柄?」


 「はい。日本への帰国と、任意の聴取を求めています」


 チャイロンは大使館の男を見た。


 「断る」


 「何ですか」


 「柏木はタイ国家警察の協力者だ。今回の作戦は、タイ政府の正式な枠組みの中で行われた。柏木の行動は、すべてタイ政府の承認を受けている」


 「しかし——」


 「しかしも何もない。柏木をどうするかは、タイ政府が決める。日本政府に口を出す権限はない」


 大使館の男の顔が強張った。


 「これは外交問題になりますよ」


 「なればいい」


 チャイロンは柏木を見た。


 「柏木。お前はどうしたい」


---


 柏木は黙っていた。


 日本に帰れば、逮捕される。任意の聴取と言っているが、実質は逮捕だ。拘留される。取り調べを受ける。何ヶ月もかかる。


 そして帰国したところで、何がある。


 家族はいない。友人もいない。仕事もない。


 グローバルキャリアは潰れた。四人のベトナム人労働者は、もう柏木を必要としていない。自分で立ち上がれるようになった。


 日本には、もう何もない。


 タイには、スッティンがいる。ノックがいる。ペットがいる。アレクセイがいる。ニコライがいる。


 そして、チャイロンがいる。プラチャーがいる。


 柏木を守ろうとしてくれる人間が、ここにいる。


 柏木は口を開いた。


 「少佐」


 「何だ」


 「タイの市民権を取ることはできるか」


 テントの中が静まり返った。


 片岡が叫んだ。


 「何を言っている!」


 大使館の男も動揺していた。


 「柏木さん、それは——」


 「黙れ」


 柏木は二人を見た。


 「お前たちに関係ない」


 チャイロンは柏木を見ていた。


 「本気か」


 「本気だ」


 「日本を捨てるということだぞ」


 「分かっている」


 「二度と戻れなくなるかもしれない」


 「構わない」


 チャイロンは少し間を置いた。


 「......理由を聞いていいか」


 柏木は窓の外を見た。タイの空が広がっている。


 「俺がやっていることは、日本では報われない。お前も知っているだろう。日本という国は、正義を貫く人間に優しくない」


 「タイも同じだ」


 「違う。タイには、俺を守ろうとしてくれる人間がいる。今、この瞬間にも」


 チャイロンは黙った。


 「俺は日本で三年間、身銭を切って外国人労働者を助けた。結果はどうだった。会社を追い出され、消費者金融の借金だけが残った」


 「......」


 「タイに来て、初めて報われた。お前やプラチャーが、俺のやり方を認めてくれた。スッティンが俺を必要としてくれた」


 柏木はチャイロンを見た。


 「俺の戦いが報われる場所は、日本じゃない。ここだ」


 長い沈黙があった。


 チャイロンが口を開いた。


 「分かった」


 「少佐」


 「市民権の申請を手伝ってやる。時間はかかるが、不可能じゃない」


 片岡が叫んだ。


 「待て! そんなことが許されると思っているのか!」


 チャイロンは片岡を見た。


 「お前に許可を求めていない」


 「日本政府として——」


 「日本政府の意向は承知している。だがここはタイだ。タイの法律に従ってもらう」


 片岡は何か言おうとした。だが言葉が出なかった。


 プラチャーが片岡に近づいた。


 「片岡さん。足の傷を診てもらった方がいい。医務室に案内しましょう」


 「俺は——」


 「案内しましょう」


 プラチャーの目は笑っていなかった。


 片岡は黙って、部下に支えられながらテントを出ていった。大使館の男も、無言でついていった。


---


 テントに柏木とチャイロンだけが残った。


 「本当にいいのか」


 チャイロンが聞いた。


 「いい」


 「後悔しないか」


 「しない」


 チャイロンは柏木を見た。


 「お前のような人間は珍しい」


 「そうか」


 「正義のために国を捨てる人間は、多くない」


 「正義のためじゃない」


 「じゃあ何のためだ」


 柏木は少し考えた。


 「......分からない。ただ、ここにいるべきだと思った」


 チャイロンは笑った。


 「それで十分だ」


 柏木はテントの外に出た。


 タイの空が広がっていた。青く、高く、どこまでも続いている。


 日本を捨てた。


 だが、失ったものより得たものの方が多い気がした。


 ニコライが近づいてきた。


 「聞いた」


 「早いな」


 「プラチャーが教えてくれた」


 「そうか」


 「タイ人になるのか」


 「そうなる」


 ニコライは少し笑った。


 「俺は国を捨てた人間だ。お前の気持ちは分かる」


 「そうか」


 「だが一つだけ言っておく」


 「何だ」


 「国を捨てても、自分は捨てるな」


 柏木はニコライを見た。


 「お前は何を捨てた」


 「ロシア人としての誇りだ。戦争を拒否した時に、捨てた」


 「後悔しているか」


 「していない。だが、時々思い出す」


 「何を」


 「自分が何者だったか、ということを」


 柏木は黙った。


 ニコライが続けた。


 「お前は日本人じゃなくなる。だが、お前がやってきたことは消えない。日本で助けた人間たち。タイで救った人間たち。それはお前の一部だ」


 「......」


 「国籍を変えても、お前は柏木勇気だ。それを忘れるな」


 柏木は空を見上げた。


 青い空。白い雲。タイの太陽。


 「忘れない」


 柏木は煙草を取り出した。


 火をつけた。


 深く吸い込んだ。


 新しい人生が、始まろうとしていた。


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