第29話 決断
施設の裏手。
柏木とニコライは、鉄条網の下を這って潜り込んだ。
正面では銃撃戦が続いている。タイの部隊が陽動になっている。裏手の警備は手薄だった。見張りが一人だけ。建物の陰で煙草を吸っている。
ニコライが近づいた。
音もなく。影のように。
見張りが気づいた時には、もう遅かった。ニコライの腕が首に回り、締め上げる。十秒で意識を失った。
地面に横たえる。
手信号。クリア。
柏木が続いた。
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裏口から建物に入った。
暗い廊下。どこかで叫び声が聞こえる。銃声も聞こえる。正面の戦闘が続いている。
柏木はベレッタを構えた。CARシステム。体の中心に銃を引き付ける。
廊下を進む。
左に曲がる。
男が一人、走ってきた。AKを持っている。
柏木は止まらなかった。
距離が縮まる。八メートル。五メートル。
男が銃を向ける。
柏木は体を低くしながら前に出た。男の銃口が柏木を追う。だが追いきれない。
三メートル。
柏木の左手がAKのバレルを掴んだ。上に逸らす。男が引き金を引いた。弾は天井に当たった。
同時に、柏木の右手がベレッタを男の脇腹に押し当てていた。
銃声。
男が崩れる。
柏木はAKを奪い取った。そのまま前進する。
一連の動作に淀みがなかった。
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階段を上がった。
二階。廊下の突き当たりに扉がある。
その前に男が三人いた。全員がAKを持っている。サーンの護衛だろう。
距離、十五メートル。
遠い。だが柏木は止まらなかった。
奪ったAKを腰だめで構える。体の軸で狙う。
撃ちながら前に出る。
一発目。先頭の男の胸。
二発目。二人目の腹。
距離が縮まる。十メートル。八メートル。
三人目が撃ち返してきた。弾が柏木の横を抜ける。
柏木は止まらない。
五メートル。
AKの弾が切れた。
柏木はAKを投げた。三人目の顔面に当たる。男が怯んだ。
その隙に距離を詰める。二メートル。
右手がベレッタを抜いていた。
男の顔の前に銃口を突きつける。
「動くな」
男は動かなかった。
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ニコライが追いついてきた。
三人を拘束する。一人は死んでいる。二人は負傷して動けない。
「サーンはこの中か」
ニコライが扉を見た。
「おそらく」
柏木は扉に近づいた。
蹴り破った。
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部屋の中は広かった。
サーン・トンカムがいた。
机の後ろに立っている。手に拳銃を持っていた。
そして、人質がいた。
若い女。タイ人。目が虚ろだ。サーンの腕に首を押さえられている。銃口が女のこめかみに当てられていた。
「止まれ」
サーンが言った。
柏木は止まった。
「銃を下ろせ」
「断る」
「下ろさなければ、この女を殺す」
サーンの目は本気だった。
柏木はサーンを見た。
「お前を逮捕する」
「逮捕?」
サーンは笑った。
「お前は警察じゃない。逮捕する権限などない」
「権限はない。だが捕まえる」
「どうやって。俺を撃てば、この女が死ぬ」
柏木は黙った。
サーンが続けた。
「俺を逃がせ。この女は解放する」
「信用できない」
「信用しなくていい。選択肢がないだろう」
柏木は考えた。
距離、七メートル。CARシステムの有効範囲内。だがサーンの銃口は女のこめかみにある。撃てば女が死ぬ。
ニコライが横にいる。だが同じ状況だ。
「十秒やる。銃を下ろせ」
サーンが言った。
「十。九。八......」
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柏木の目がサーンの全身を捉えていた。
銃を持つ右手。女の首を押さえる左腕。体の向き。足の位置。
サーンの意識は柏木に向いている。
ニコライには向いていない。
「七。六。五......」
柏木は小さく手信号を出した。
右。
ニコライが動いた。
右に動く。サーンの視界の端に入る。
サーンの目がニコライを追った。一瞬だけ。
その一瞬で、柏木は動いた。
前に出る。全力で。
サーンが気づいた。銃口が女から離れ、柏木に向く。
発砲。
弾は柏木の左肩を掠めた。
だが柏木は止まらなかった。
距離が消える。三メートル。二メートル。
柏木の左手がサーンの右手首を掴んだ。銃を持つ手。外側に捻る。
サーンが叫んだ。銃が落ちた。
同時に柏木の右手がベレッタをサーンの顎下に押し当てていた。
「終わりだ」
サーンの体から力が抜けた。
女が崩れ落ちた。ニコライが駆け寄り、抱き起こした。
「大丈夫か」
女は答えなかった。目が虚ろなまま、震えていた。
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柏木はサーンを床に押し倒した。膝で背中を押さえ、手首を後ろで縛る。
「これで二度目だ」
柏木が言った。
「何」
「お前を捕まえるのは」
サーンは笑った。
「また出てくる」
「出てこない」
「なぜ分かる」
「今度は殺人だからだ。お前の組織が何人殺したか、数えているか」
サーンは黙った。
柏木は立ち上がった。
「終わったな」
ニコライが言った。
「ああ」
柏木の左肩から血が流れていた。掠り傷だが、血が止まらない。
「アレクセイに診てもらえ」
「後でいい」
「後じゃない。今だ」
柏木は少し笑った。
「分かった」
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施設の制圧が完了したのは、午前十時だった。
サーンの組織は壊滅した。拘束者十七人。負傷者八人。死者四人。
被害者は五十三人の日本人と、二十一人の外国人。全員が保護された。
女たちの多くは、立つことすらできなかった。担架で運ばれた。
日本人の男たちは、無言で座り込んでいた。誰も目を合わせようとしなかった。
柏木は彼らを見た。
被害者のはずだった。だが、目を見れば分かった。彼らの一部は加害者でもあった。
柏木は何も言わなかった。
それを裁くのは、柏木の仕事ではない。
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午後。
柏木はアレクセイに肩の傷を縫ってもらっていた。
「浅い。骨には達していない」
「分かっている」
「だが痛むだろう」
「慣れている」
アレクセイは黙って縫い続けた。
チャイロン少佐が近づいてきた。
「柏木」
「少佐」
「日本の捜査班が話したがっている」
「何の話だ」
「お前の身柄についてだ」
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仮設テントの中。
片岡がいた。足を撃たれて、椅子に座っている。傍らに部下が二人。
そして、見慣れない男が一人。スーツを着ている。
「在タイ日本大使館の者です」
男が言った。名刺を差し出す。柏木は受け取らなかった。
「何の用だ」
「柏木勇気さん。あなたを日本に連れ帰る必要があります」
「連れ帰る」
「そうです」
片岡が口を挟んだ。
「お前には聞きたいことが山ほどある」
「聞きたいこと」
「お前は何者だ。元自衛隊だと聞いた。だが普通の元自衛隊じゃない」
「答える義務はない」
「義務はなくても、協力はしてもらう」
「協力?」
「お前が施設の中で何をしたか、報告書を書かなければならない」
柏木は黙った。
大使館の男が続けた。
「さらに、あなたが所持していた銃器についても説明が必要です」
「タイで合法的に入手したものだ」
「それはタイ側の問題です。問題は、あなたが日本国籍を持つ人間だということです」
「だから何だ」
「日本人が海外で銃器を使用した場合、日本の法律が適用される可能性があります」
柏木は大使館の男を見た。
「俺を逮捕するつもりか」
「逮捕ではありません。任意の聴取です」
「任意なら断る」
「断ることはできません」
「できる。ここはタイだ」
片岡が立ち上がろうとした。足を引きずっている。
「ふざけるな。お前は日本人だ。日本の法律に従え」
「従わない」
「何だと」
「お前たちの命を救ったのは誰だ」
片岡が黙った。
「正面から突入して、撃たれたのは誰だ。交渉すれば解決すると思い込んでいたのは誰だ」
「それは——」
「お前たちが無能だったから、俺が動いた。それを今さら逮捕するだと」
片岡の顔が赤くなった。
「貴様——」
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テントの入口が開いた。
チャイロン少佐が入ってきた。後ろにプラチャーがいる。
「何の話だ」
チャイロンが聞いた。
大使館の男が答えた。
「柏木氏の身柄について、日本側として話し合いたいと」
「身柄?」
「はい。日本への帰国と、任意の聴取を求めています」
チャイロンは大使館の男を見た。
「断る」
「何ですか」
「柏木はタイ国家警察の協力者だ。今回の作戦は、タイ政府の正式な枠組みの中で行われた。柏木の行動は、すべてタイ政府の承認を受けている」
「しかし——」
「しかしも何もない。柏木をどうするかは、タイ政府が決める。日本政府に口を出す権限はない」
大使館の男の顔が強張った。
「これは外交問題になりますよ」
「なればいい」
チャイロンは柏木を見た。
「柏木。お前はどうしたい」
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柏木は黙っていた。
日本に帰れば、逮捕される。任意の聴取と言っているが、実質は逮捕だ。拘留される。取り調べを受ける。何ヶ月もかかる。
そして帰国したところで、何がある。
家族はいない。友人もいない。仕事もない。
グローバルキャリアは潰れた。四人のベトナム人労働者は、もう柏木を必要としていない。自分で立ち上がれるようになった。
日本には、もう何もない。
タイには、スッティンがいる。ノックがいる。ペットがいる。アレクセイがいる。ニコライがいる。
そして、チャイロンがいる。プラチャーがいる。
柏木を守ろうとしてくれる人間が、ここにいる。
柏木は口を開いた。
「少佐」
「何だ」
「タイの市民権を取ることはできるか」
テントの中が静まり返った。
片岡が叫んだ。
「何を言っている!」
大使館の男も動揺していた。
「柏木さん、それは——」
「黙れ」
柏木は二人を見た。
「お前たちに関係ない」
チャイロンは柏木を見ていた。
「本気か」
「本気だ」
「日本を捨てるということだぞ」
「分かっている」
「二度と戻れなくなるかもしれない」
「構わない」
チャイロンは少し間を置いた。
「......理由を聞いていいか」
柏木は窓の外を見た。タイの空が広がっている。
「俺がやっていることは、日本では報われない。お前も知っているだろう。日本という国は、正義を貫く人間に優しくない」
「タイも同じだ」
「違う。タイには、俺を守ろうとしてくれる人間がいる。今、この瞬間にも」
チャイロンは黙った。
「俺は日本で三年間、身銭を切って外国人労働者を助けた。結果はどうだった。会社を追い出され、消費者金融の借金だけが残った」
「......」
「タイに来て、初めて報われた。お前やプラチャーが、俺のやり方を認めてくれた。スッティンが俺を必要としてくれた」
柏木はチャイロンを見た。
「俺の戦いが報われる場所は、日本じゃない。ここだ」
長い沈黙があった。
チャイロンが口を開いた。
「分かった」
「少佐」
「市民権の申請を手伝ってやる。時間はかかるが、不可能じゃない」
片岡が叫んだ。
「待て! そんなことが許されると思っているのか!」
チャイロンは片岡を見た。
「お前に許可を求めていない」
「日本政府として——」
「日本政府の意向は承知している。だがここはタイだ。タイの法律に従ってもらう」
片岡は何か言おうとした。だが言葉が出なかった。
プラチャーが片岡に近づいた。
「片岡さん。足の傷を診てもらった方がいい。医務室に案内しましょう」
「俺は——」
「案内しましょう」
プラチャーの目は笑っていなかった。
片岡は黙って、部下に支えられながらテントを出ていった。大使館の男も、無言でついていった。
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テントに柏木とチャイロンだけが残った。
「本当にいいのか」
チャイロンが聞いた。
「いい」
「後悔しないか」
「しない」
チャイロンは柏木を見た。
「お前のような人間は珍しい」
「そうか」
「正義のために国を捨てる人間は、多くない」
「正義のためじゃない」
「じゃあ何のためだ」
柏木は少し考えた。
「......分からない。ただ、ここにいるべきだと思った」
チャイロンは笑った。
「それで十分だ」
柏木はテントの外に出た。
タイの空が広がっていた。青く、高く、どこまでも続いている。
日本を捨てた。
だが、失ったものより得たものの方が多い気がした。
ニコライが近づいてきた。
「聞いた」
「早いな」
「プラチャーが教えてくれた」
「そうか」
「タイ人になるのか」
「そうなる」
ニコライは少し笑った。
「俺は国を捨てた人間だ。お前の気持ちは分かる」
「そうか」
「だが一つだけ言っておく」
「何だ」
「国を捨てても、自分は捨てるな」
柏木はニコライを見た。
「お前は何を捨てた」
「ロシア人としての誇りだ。戦争を拒否した時に、捨てた」
「後悔しているか」
「していない。だが、時々思い出す」
「何を」
「自分が何者だったか、ということを」
柏木は黙った。
ニコライが続けた。
「お前は日本人じゃなくなる。だが、お前がやってきたことは消えない。日本で助けた人間たち。タイで救った人間たち。それはお前の一部だ」
「......」
「国籍を変えても、お前は柏木勇気だ。それを忘れるな」
柏木は空を見上げた。
青い空。白い雲。タイの太陽。
「忘れない」
柏木は煙草を取り出した。
火をつけた。
深く吸い込んだ。
新しい人生が、始まろうとしていた。




