第28話 地獄
メコン川の東岸。
ラオス領内。だが実質的には無法地帯。政府の目が届かない空白地帯。
施設は丘の上にあった。元は農園の倉庫群だったらしい。五棟の建物が鉄条網で囲まれている。監視塔が四つ。見張りは常時十人以上。
中では、地獄が続いていた。
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日本から連れてこられた若者たち。五十三人。
闇バイトの募集に応じた者。借金を抱えた者。「高収入の海外就職」という言葉に騙された者。
パスポートを取り上げられた。逃げ場はない。毎日十二時間、詐欺電話をかけさせられる。ノルマを達成できなければ殴られる。食事は一日二回。風呂は週に一度。
だが、彼らは加害者でもあった。
リクルートされた外国人たち。タイ人、ラオス人、ベトナム人。日本語が話せる若い女たち。
彼女たちは「慰安要員」だった。
日本人の男たちのストレス発散のために、体を差し出すことを強要された。拒否すれば殴られた。逃げようとすれば、見せしめに他の女が痛めつけられた。
毎晩、どこかの部屋から泣き声が聞こえた。
男たちは見て見ぬふりをした。自分が生き延びることで精一杯だった。サーンの組織が怖かった。逆らえば殺される。そう信じていた。
だから従った。女たちを見殺しにした。
時間が経つにつれて、一部の日本人は変わっていった。最初は怯えていた。だが慣れた。権力を持つ側の快楽を知った。女を好きにできる。殴っても誰も止めない。
被害者だったはずの人間が、加害者に変わっていく。
地獄は、そうやって維持されていた。
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リクルートされた若い男、ソムチャイは毎晩同じ夢を見た。
故郷の村。母親の笑顔。日本で働いて、金を送ると約束した日。
だが現実は違った。
日本語が話せるという理由で、見張り役にされた。日本人たちの監視。脱走の阻止。反抗の抑制。
ソムチャイは日本人が嫌いになった。
最初は同情していた。騙されて連れてこられた人たち。可哀想だと思った。
だが違った。
彼らは女を犯した。笑いながら。酒を飲みながら。ソムチャイの幼馴染のラッタナーを、三人がかりで。
ラッタナーは翌日から口を利かなくなった。目が死んでいた。
ソムチャイは何もできなかった。
日本人たちは被害者じゃない。犯罪者だ。元から犯罪者だ。だから闇バイトに応募した。だから金に目がくらんだ。
助ける価値なんてない。
ソムチャイはそう思うようになっていた。
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タイ国境。作戦拠点。
柏木たちは待機していた。
そこに、日本から捜査班が到着した。
警察庁から派遣された特別捜査チーム。六名。リーダーは警視の肩書きを持つ男だった。五十代。髪に白いものが混じっている。名前は片岡。
片岡は到着するなり、チャイロン少佐に言った。
「作戦の指揮は我々が執る」
通訳を介しての発言だった。
チャイロンの目が細くなった。
「ここはタイだ」
「被害者は日本人だ。日本の事件だ」
「施設はラオスにある。タイでもラオスでもない空白地帯だ。日本の管轄ではない」
「だからこそ、我々が来た。日本政府の正式な要請だ」
チャイロンは黙った。
片岡は続けた。
「まず交渉を行う。投降を呼びかける。武力行使は最後の手段だ」
「交渉?」
「そうだ。日本のやり方だ。人命を最優先にする」
チャイロンは柏木を見た。
柏木は何も言わなかった。
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作戦会議が行われた。
片岡が仕切った。
「まず施設を包囲する。次に拡声器で投降を呼びかける。交渉人を送り込む。段階的にエスカレートさせる」
プラチャーが口を挟んだ。
「相手は武装している。自動小銃を持っている」
「承知している。だからこそ、慎重に進める」
「慎重に進めている間に、人質が殺される可能性は」
「そうならないように交渉する」
「交渉が通じる相手か」
片岡はプラチャーを見た。
「我々はプロだ。日本で何度も人質事件を解決してきた」
プラチャーは黙った。
柏木は片岡を見ていた。
この男は分かっていない。ここは日本じゃない。相手は日本の犯罪者じゃない。サーン・トンカムの組織だ。交渉など通じない。
だが柏木は何も言わなかった。
言っても無駄だと分かっていた。
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翌日。午前六時。
作戦が開始された。
タイ国境警備隊が施設を包囲した。チャイロン少佐の部隊も加わっている。日本の捜査班は後方に待機。
片岡が拡声器を手に取った。
「施設内の皆さん、聞こえますか。我々は日本の警察です。あなたたちを助けに来ました。武器を捨てて、出てきてください。危害は加えません」
日本語だった。
施設からの反応はなかった。
片岡は繰り返した。
「繰り返します。武器を捨てて出てきてください。投降すれば、日本への帰国を保証します」
沈黙。
五分が過ぎた。十分が過ぎた。
「反応がない」
チャイロンが言った。
「もう少し待つ」
片岡が答えた。
「待っている間に逃げられる」
「逃げ道は塞いである」
「本当にそう思うか」
チャイロンの声が低くなっていた。
片岡は無視した。
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三十分が過ぎた。
施設の正門が開いた。
白旗が見えた。
「投降だ」
片岡が言った。
「違う」
柏木が言った。
「何?」
「罠だ」
柏木が言い終わる前に、銃声が響いた。
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正門から男が三人出てきた。手を上げている。白旗を持っている。
その後ろから、銃口が見えた。
監視塔の上。建物の窓。複数の射線。
白旗の男たちは囮だった。
日本の捜査班が前に出ていた。交渉のために。
集中砲火が始まった。
「伏せろ!」
チャイロンが叫んだ。
だが遅かった。
片岡の部下が二人、撃たれた。一人は肩。一人は腹。
片岡自身も足を撃たれて倒れた。
「衛生兵!」
誰かが叫んでいる。
タイの部隊が応射した。だが施設側は建物に隠れている。射線が通らない。
柏木は地面に伏せていた。隣にニコライがいる。
「日本式は通じなかったな」
ニコライが言った。
「分かっていた」
「分かっていたなら、なぜ止めなかった」
「止めても聞かない」
銃声が続いている。タイの部隊が撃ち返している。だが膠着状態だ。
チャイロンが柏木の横に来た。
「柏木」
「少佐」
「日本の連中は使えない」
「知っている」
「お前に頼みたいことがある」
柏木はチャイロンを見た。
「中に入れ」
「正面からか」
「裏からだ。施設の裏手に死角がある。二人なら入れる」
「何をする」
「サーンを捕まえろ。奴を押さえれば、組織は崩れる」
柏木は少し考えた。
「被害者は」
「お前がサーンを捕まえた後、正面から突入する。被害者の保護は俺たちがやる」
「分かった」
柏木は立ち上がろうとした。
「柏木」
「何だ」
「生きて帰ってこい」
柏木は答えなかった。
ニコライと目を合わせた。
ニコライが頷いた。
二人は銃声の中を走り出した。




