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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第18話 ボドイ

二月に入ってから、ホアンの目が変わった。


 それまでは誘ってくる目だった。夜の仕事がある、月に十万は稼げる、断っても懲りずにまた翌月やってくる、しつこいが憎めない種類の男だった。それがある日の工場の休憩室で、隣に腰を下ろしたホアンの顔を見たとき、ズンは何かが違うと感じた。声が低かった。笑っていなかった。


 「お前、新しい担当者に会ったか」


 「山本さんのことか」とズンが聞くと、ホアンは頷いて、あいつはお前のことを調べているぞ、と言った。何をと聞けば、在留資格だという。問題があるかもしれないと言っていたと。


 ズンの胸の中で何かが冷えた。問題はない、ちゃんと更新していると返すと、ホアンは日本の入管は厳しいぞ、書類に一つでも問題があれば終わりだ、と続けた。それだけじゃない、兄貴の分の借金も全部消える方法がある、俺たちと動けば担当者に話をつけてやると。


 ズンはホアンを見た。誘っている目ではなかった。もう決まっている、だから告げている、そういう目だった。


---


 その夜、柏木にメッセージを送った。ホアンが変わったこと、在留資格のことを言ってきたこと、担当者の山本と繋がっているかもしれないこと。返信はすぐに来た。明日、会える場所を指定しろと。


 翌日の夜、足立のベトナム料理店に行くと、柏木の隣に見慣れない男がいた。大柄で、短く刈り込んだ金髪で、頬に古い傷跡がある。日本人ではなかった。


 「誰ですか」と聞くと、柏木はニコライだ、信用していいと言った。その男は短く頷いて、片言の日本語でヨロシク、とだけ言った。


 ズンは全部話した。在留資格のこと、口利きの話、兄の借金のこと。柏木はフォーを食べながら聞いた。メモも取らず、録音もせず、ただ聞いていた。一通り話し終えると、山本とホアンが繋がっているということかと確認して、ホアンに返事はしたかと聞いた。考えると言いましたと答えると、それでいい、まだ返事をするなと言った。


 在留資格は本当に大丈夫なのかと聞いたとき、柏木はズンの顔を見た。


 「お前の書類に問題はない。俺が三年間管理した。脅しだ」


 その言葉が、ズンの胸の中で固いものになった。


---


 佐藤隆が何をしているかを柏木が掴むのに三日かかった。ベトナム人コミュニティの情報網が動き、佐藤がボドイ数人と飲食店で会っている場面を目撃した人間が出てきた。金の受け渡しではなく、書類のようなものが渡っていたという。ニコライが在日ロシア人コミュニティの繋がりから別の角度で当たり、グローバルキャリアの担当者が在留資格の更新を意図的に遅らせたり早めたりできる立場にいるという話を引き出した。


 三日目の夜、柏木はホテルの部屋でノートを開いて状況を整理した。佐藤はボドイに在留資格を餌として使っている。従えば更新を通してやる、逆らえば問題があると報告する、その鎖でボドイを動かし、文句を言う労働者を脅したり排除させている。柏木がいなくなった穴に、真逆のものが入り込んでいた。


 アレクセイが動くかと聞いた。動くと答えた。


---


 ズンにメッセージを送り、ホアンに返事をしてやってみると言えと指示した。翌日、ホアンから場所と時間が届いた。川口の古い倉庫街の一角、夜の十時。


 昼間に柏木一人で下見に行った。倉庫が三棟並んでいて、人気がない。入口は一つで、裏に抜ける細い道がある。頭に地図を入れて、夜に備えた。


 夜、三人で動いた。柏木とアレクセイとニコライ。ニコライが用意したMP-443グラーチが柏木のホルスターに収まっていた。マガジン一本、十七発、補充はない。


---


 ズンが倉庫に入ると、中に五人いた。ホアンと、見知らぬベトナム人が三人。奥の椅子に、四十代の眼鏡をかけた男が一人、スーツのまま腕を組んで座っていた。柏木に見せてもらった写真と同じ顔だった。佐藤隆だった。


 「来たか」と佐藤が日本語で言い、ホアンが通訳した。座れと言われて、ズンは座った。体が震えていたが、悟られないようにした。


 お前の在留資格は来月更新だ、俺が担当だ、通るかどうかは俺次第だ、と佐藤は言った。何をすればいいかと聞くと、工場にいる他のベトナム人を俺に紹介しろ、文句の多い奴を教えろ、そいつらは俺が処理する、と。


 その言葉が倉庫の中に落ちた瞬間、背後の扉が開いた。


---


 三人が入ってきた。


 柏木が先頭で、オールバックのまま、紅色のベストのまま、ショルダーホルスターが剥き出しでグラーチが収まっている。アレクセイが右、ニコライが左。ただそれだけの光景だったが、ベトナム人三人とホアンが瞬時に動きを止めた。


 「座れ」と柏木が言った。


 佐藤だけが立ち上がった。眼鏡の奥の目が、柏木とグラーチの間を行き来した。追い詰められた人間の目だった。それから声を張り上げた。


 「やれ」


 ホアンが最初に動いた。テーブルの上の灰皿を掴んで柏木の顔に向けて投げた。柏木は顎を引き、灰皿は右肩を掠めた。痛みより先に灰が散った。


 次の瞬間、ナイフを持ったベトナム人が飛びかかってきた。柏木は横にずれてナイフをやり過ごし、男の腕を掴んでそのまま壁に叩きつけた。頭がコンクリートに当たる鈍い音がして、男は崩れた。


 背後から腕が首に回ってきた。締め上げる力があった。柏木は後頭部を真後ろに打ち込んだ。鼻の骨が折れる音がして、腕が緩んだところに肘を入れると、男が床に落ちた。


 三人目が鉄パイプを持って走ってきたところで、柏木がグラーチを抜いた。


 「止まれ」


 男が止まった。鉄パイプを持ったまま、固まった。倉庫の中が静止した。


 右ではニコライがホアンを制圧していた。扉に向かって走ったホアンの正面に立ちふさがり、突っ込んできたところを肩ごと掴んで床に引き倒した。起き上がろうとしたホアンがニコライの目を見て、やめた。左ではアレクセイが佐藤を椅子に押し返していた。腕を振り払おうとした佐藤の手首を取ってひねると、佐藤が声を上げて椅子に収まった。


 「動くな」とアレクセイがロシア語で言った。言葉は分からなかったはずだが、意味は伝わった。


---


 静かになった倉庫の中で、柏木は右肩をさすりながらグラーチをホルスターに戻した。灰皿が当たったところだ。後でアレクセイに見せればいい。


 鉄パイプの男に床に置けと言うと、ゆっくりと置いた。


 佐藤は椅子の上で荒い息をしていた。眼鏡がずれ、額に汗が浮いていた。


 「話すか」と柏木が聞いた。


 「弁護士を呼ぶ権利がある」と佐藤は言った。


 「後でいくらでも呼べ。今夜は話す」


 「強要だ。証拠にならない」


 「お前が今夜ここでやったことも証拠だ」


 柏木がスマートフォンを持ち上げると、画面が点灯していて、録音が走っていた。佐藤の顔から血の気が引いた。グローバルキャリアの佐藤隆、在留資格を餌にボドイを使って労働者を脅し排除していた、今の会話は全部入っていると柏木が言うと、佐藤は眼鏡を外してレンズを拭こうとして、手が震えて拭けなかった。


 「話さなければ今夜の録音が明日の朝に入管と会社といくつかのメディアに届く。話せば警察に自首する。どちらかを選べ」


 倉庫の外で風が鳴った。


 しばらく経って、佐藤は眼鏡をかけ直した。


 「分かった」と、小さな声で言った。


---


 話は一時間かかった。ボドイと接触した経緯、在留資格を使った手口、処理した労働者の数、会社の上層部が関与していたかどうか。全部喋った。喋り終えた佐藤は椅子の上で小さくなっていた。


 柏木は録音を止めた。


 「立て」


 「どこへ」


 「警察だ」


 佐藤は立ち上がった。膝が笑っていた。


---


 ホアンたちを解放する前に、柏木はホアンの正面に立った。在留資格の件は消えた、佐藤にはもう何もできない、次に誰かを脅しに来たら今夜の録音にお前の声も入っていることを忘れるなと言うと、ホアンは黙って頷いた。三人は足早に出ていった。


---


 倉庫の外は冷えていた。川口の夜の空気が肺に入った。


 歩き始めてすぐ、アレクセイが柏木の右肩を見た。


 「灰皿か」


 「掠っただけだ」


 「後で見せろ」


 「問題ない」


 「俺が決める」


 佐藤はアレクセイとニコライに挟まれて歩いた。逃げる気力も残っていない顔だった。


 ズンが柏木の隣を歩きながら、在留資格は本当に大丈夫かと聞いた。問題ないと柏木は言った。なぜここまでやってくれるのかとズンが聞くと、柏木は前を向いたまましばらく黙っていて、それから言った。


 「見ていられないからだ」


 三年前、不法タクシーを止めに来た時と同じ言葉だった。同じ声だった。何も変わっていなかった。ズンは目が熱くなるのを感じたが、泣かなかった。


---


 川口の警察署に着いたのは深夜を過ぎてからで、佐藤を引き渡して録音データを提出して経緯を説明すると、担当の警察官がニコライを見て怪訝な顔をした。この方はと聞くので、コンサルタントですと答えた。ニコライがパスポートを出すと、警察官はスタンプを確認して何も言わなかった。


 全部片付いたのは朝の四時近かった。署を出ると、東の空がわずかに白み始めていた。


 「飯でも食うか」とニコライが片言の日本語で言った。


 柏木は空を見た。「食う」と答えた。


 四人で川口の夜明け前の道を歩いた。


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