第17話 仲間
アレクセイがニコライの番号を持っていたのは、偶然に近かった。
ウクライナの前線を離れる直前、ニコライが衛星電話でその番号を教えた。「どこかで生きていたら連絡しろ」。それだけ言った。アレクセイはノートの端に書き留め、タイに逃げる時に持っていった。三年間、開かなかったページだった。
川口のホテルに入った翌朝、そのノートを引っ張り出した。
番号を見た。生きているかどうかも分からない。日本にいるかどうかも分からない。それでも指が動いた。ロシア語で一行だけ打って、送信した。
*「俺だ。アレクセイだ。生きているか」*
返信が来るまで四時間かかった。
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画面を柏木に見せた。
「同じ大隊にいた人間だ。今、日本にいるらしい」
「どこだ」
「まだ聞いていない」
「聞け」
アレクセイは返信を打った。*「東京にいる。お前は」*
しばらく待った。
*「東京だ。会えるか」*
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待ち合わせはニコライが池袋を指定した。西口公園の前。夜の八時。
柏木はホテルに残ることになった。出がけに一言だけ言った。
「危険か」
「大尉だ。警護部隊の隊長をしていた。心配するな」
「好きなだけかけてこい」
アレクセイは黒いコートを着て、外に出た。
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一月の池袋は人が多い。帰宅の流れと、これから街に繰り出す流れが西口でぶつかり合っている。アレクセイは公園のベンチに座って、義足の冷えを感じながら人波を目で流した。
タイの三年間、足がこれほど冷えたことはなかった。
男が見えた。
人波の中で頭一つ抜けた大柄な体格。短く刈り込んだ金髪。頬に古い傷跡。コートの前をきつく合わせ、人を避けるでも探すでもなく、ただ真っ直ぐ歩いてくる。
その目がアレクセイを捉えた瞬間、止まった。
三年間、戦場と逃亡でこわばり続けていたニコライ・ヴォロノフの顔に、何かが解けた。
アレクセイも立ち上がった。
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並んでベンチに座った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。東京の夜の音だけがあった。
ニコライの視線がアレクセイの膝の下に落ちた。義足のところで止まって、それから顔が上がった。
「前線でか」
「ドローンだ。テントごと吹き飛んだ」
「何のドローンだ」
「分からない。ロシアのものかウクライナのものか、今も」
ニコライは黙った。その沈黙に、前線を生き延びた人間だけが持つ種類の重さがあった。問い詰めない。ただ受け取る。それがニコライという人間のやり方だった。
「タイにいたと聞いた」
「三年いた」
「何をしていた」
「医者だ。ずっと医者だ。今も医者だ」
「日本では」
「仕事だ」
それ以上は言わなかった。ニコライも掘り下げなかった。
「お前はなぜ日本にいる」
ニコライは正面を向いた。池袋の光が遠いビルに反射している。
「動員令が出た。拒否した。出国した」
「戻れないか」
「戻ったら銃殺だ」
「日本には」
「ルートがあった」
それだけだった。アレクセイも聞かなかった。
「在留資格は」
「グレーだ。長くはいられない。だがまだいる」
隣のベンチに初老の男が座り、スマートフォンを見始めた。二人のことなど眼中にない。
ニコライが煙草を取り出す前に、言った。
「お前がいなければ死んでいた」
「何の話だ」
「分かっているだろう」
「チェルニヒウの手前か」
「腸が出ていた。あの時縫ってくれなければ」
「縫っただけだ」
「俺にとっては命だ」
アレクセイは煙草を取り出した。ニコライも出した。二人で火をつけた。煙が冬の夜気に白く立ち上がり、すぐに流れて消えた。
「腹の傷は痛まないか」
「冬は痛む」
「気をつけろ」
「お前に言われたくない。足を吹き飛ばされた男に」
「足は一本残っている」
「半分だ」
「半分あれば十分だ」
ニコライが短く笑った。
前線では一度も聞かなかった笑い方だった。酒の席でだけ出る笑い方だ。三年ぶりに聞いた。アレクセイは煙草を吸いながら、その笑い方を耳の奥に収めた。
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煙草が半分になったところで、アレクセイが言った。
「頼みがある」
ニコライが横を向いた。
「一緒に動いている日本人がいる。元軍人だ。今、厄介な仕事をしている」
「どんな仕事だ」
「搾取されている人間を助ける仕事だ。相手がいる」
「ヤクザか」
「ベトナム人の犯罪組織と、それを使っている日本人だ」
ニコライは煙草を灰皿に押しつけた。
「俺に何をしてほしい」
「いざという時に隣に立ってほしい。それだけだ」
「銃はあるか」
「タイから持ち込めなかった。丸腰だ」
「一丁なら用意できる。弾は限りがある。補充は諦めろ」
「分かっている」
「ロシア製になる」
「撃てれば何でもいい」
ニコライは立ち上がり、コートの前を合わせた。
「その日本人に会わせろ」
「明日でいいか」
「明日でいい」
二人は公園を出て、池袋の人波に入った。並んで歩いた。アレクセイの義足がコンクリートを踏む音と、ニコライの重い足音が交互に響いた。
二人の間に言葉はなかった。それで十分だった。
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ホテルに戻ったのは夜の十一時を過ぎていた。
柏木はデスクにノートを広げたまま待っていた。
「生きていた」
それだけ言って、アレクセイはコートを脱いだ。
「明日会わせる」
「分かった」
「一つだけ言っておく。あいつは俺が命を救った人間だ」
柏木はノートを閉じた。
「信用する」
「それだけか」
「十分だ」
アレクセイはベッドに腰を下ろし、義足を外した。脱いだそれをベッドの脇に立てかけた時、チェルニヒウの夜のことが一瞬だけ浮かんだ。泥と血と、懐中電灯の光と、ニコライの腹から出ていた腸の熱さが。
縫っただけだ、とアレクセイはまた思った。
だがニコライは今夜、池袋の公園で煙草を吸って笑っていた。
窓の外に川口の夜景が広がっていた。工場の明かりが点在し、高速道路の橋が光っている。
目を閉じた。




