第16話 再会
足立区の駅前は、夜の七時でもまだ人が多かった。
帰宅途中のサラリーマン。スーパーの袋を提げた主婦。自転車で走り抜ける学生。その流れの中に、ベトナム人の若者が一人、柱の陰に立って待っていた。
ズン・グエン・タン。三十歳。食品加工工場の作業着の上にダウンジャケットを羽織っている。顔が細い。二年前より細くなっている。目の下に疲れが溜まっていた。
柏木を見た瞬間、ズンの表情が動いた。安堵と、それから何か別のものが混じった顔だった。
柏木は足を止めた。
「久しぶりだ」
「柏木さん」
「さんはいらない」
ズンは少し戸惑った顔をした。それでも頷いた。
「柏木」
「そうだ。飯は食ったか」
「まだです」
「行くぞ」
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駅から二分歩いたところに、ベトナム料理の小さな店があった。
柏木が先に入った。カウンター席に二人並んで座った。店主はベトナム人の中年女性で、柏木の顔を見て一瞬動きを止めたが、すぐにメニューを差し出した。
「フォーを二つ。あと生春巻き」
注文してから、ズンを見た。
「話せ」
ズンは手を膝の上で組んだ。組んで、また解いた。
「どこから話せばいいですか」
「全部だ」
ズンは頷き、話し始めた。
工場の同僚から声をかけられたのは、柏木が退職した翌月だった。夜の仕事だと言った。詳しくは教えてくれなかったが、月に十万は稼げると言った。断った。翌月また来た。また断った。今月は三回来た。
「名前は分かるか」
「ホアンさんです。同じ工場にいます」
「ホアンが直接声をかけてくるのか」
「はい」
「ホアンの上に誰かいるか」
「分かりません。でも、ホアンのスマホに連絡してくる人がいます。タイ語か、ラオス語みたいな言葉を話していました」
柏木は黙った。
タイ語かラオス語。
その一点が、柏木の頭の中で何かに引っかかった。今はまだ輪郭が見えない。だが引っかかった。
フォーが来た。二人で食べ始めた。
ズンは最初の数口を食べて、少し顔が変わった。温かいものが体に入った時の顔だ。
「借金はいくら残っている」
「百二十万くらいです。兄の分が七十万、自分の分が五十万」
「利子はどの程度ついている」
「月に三万くらい増えます」
「手元に残るのは」
「六千円です。今月は」
柏木はフォーを食べながら聞いた。数字を整理した。六千円。月に三万増える利子。百二十万の元本。
「ホアンの誘いを断り続けたら、どうなると思う」
「怒ると思います。工場で嫌がらせをされるかもしれない」
「されたことはあるか」
「まだないです」
「お前がホアンにとって必要な人間である間は、嫌がらせはしない。必要じゃなくなった時が危ない」
ズンは箸を止めた。
「どういう意味ですか」
「次の獲物を見つけたら、お前は用済みになる。その時に何かしてくる可能性がある」
「何かって」
「在留管理局に密告するか、あるいは別の方法で追い詰める。やり方はいくつかある」
ズンの顔から血の気が引いた。
柏木は生春巻きを取った。
「だから先に動く」
「先に、というのは」
「ホアンの上にいる人間を特定する。そこから崩す」
「どうやって」
「俺がやる。お前はホアンに対して今まで通り接しろ。断るのも今まで通りでいい。変に刺激するな」
「柏木は、今は何者なんですか」
柏木は生春巻きを半分食べて、皿に置いた。
「お前の味方だ。それだけ知っていれば十分だ」
ズンはしばらく柏木を見ていた。
見た目は変わっていなかった。いや、少し変わっていた。タイに行く前より、どこか鋭くなっている。研がれたような感じがする。それが怖いのか安心なのか、ズンには判断できなかった。
「信用していいですか」
「お前が決めることだ」
「今まで、柏木に騙されたことはないです」
「これからも騙さない」
ズンは頷いた。
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店を出ると、夜の足立の空気が来た。
柏木は煙草に火をつけた。ズンはコートの前を合わせた。
「もう一つ聞いていいですか」
「何だ」
「タイは、どうでしたか」
煙草の煙が夜気に溶けていく。柏木は少しの間、何も言わなかった。
「悪くなかった」
「また行くんですか」
「ほとぼりが冷めたら戻る」
「ほとぼり」
「向こうで少し派手なことをした」
ズンは聞き返さなかった。柏木の言う「派手なこと」が何を意味するか、なんとなく分かる気がしたからだ。
「気をつけてください」
「お前もな」
ズンは頭を下げた。それから駅の方へ歩いていった。
柏木はその背中を見た。細くなった背中だった。
煙草を最後まで吸って、灰皿に押しつけた。
スマートフォンを取り出してアレクセイにメッセージを送った。
*「終わった。ホアンという人間を調べる。タイ語かラオス語を話す人間と繋がっている」*
返信はすぐに来た。
*「面白い」*
柏木はスマートフォンをポケットにしまった。
足立の夜は、まだ続いていた。




