第15話 共に
アレクセイ・ヴォルコフが日本行きを言い出したのは、柏木が出発する三日前の夕方だった。
シェルターの食堂で、スッティンと柏木が翌週の段取りを話していた。テーブルの端でコーヒーを飲みながら聞いていたアレクセイが、会話の隙間に言った。
「俺も行く」
「日本に」と、間を置かずに続けた。
スッティンが顔を上げた。柏木も上げた。
「なぜですか」
アレクセイはカップをソーサーに戻した。磁器が触れ合う音が静かに鳴った。
「ファリダーがまた来る。柏木がいなければ俺が相手をしなければならない。それが嫌だ」
「それだけですか」
「柏木が怪我をした時に縫う人間が必要だ」
「日本で怪我をする可能性があるか」
柏木が言った。軍人の言い方だった。可能性を問う言葉だ。するつもりか、ではない。
「ある。お前のことだから」
「否定できん」
「タイで脇腹を刺された男が言うことか」
柏木は黙った。
スッティンはアレクセイを見た。決めた顔をしていた。こういう顔の時に言葉をいくら重ねても変わらないことを、スッティンはすでに知っていた。
「ビザはどうするんですか」
「チャイロン少佐に頼む。短期滞在なら取れる」
「義足でも問題ないか」
「三年間バイクに乗ってきた。歩くだけなら問題ない」
スッティンは柏木に目を向けた。柏木は手元のメモを見ていた。反対する気配がなかった。
「言語は」
「英語が通じる場所を使う。柏木が通訳する」
「通訳は任務外だ」
「相棒だろう」
柏木はメモに何かを書いた。返事をしなかった。それが返事だった。
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チャイロン少佐は三日でビザの手配を終えた。
短期滞在、九十日。職業欄はコンサルタントと書いてあった。
書類を手渡しながら、スッティンが言った。
「日本で医療行為はしないでください」
「怪我をした人間を見捨てろということか」
「そういう意味では——」
「では医療行為はしない。ただ偶然そこにいるだけだ。偶然手が動くだけだ」
スッティンは口を閉じた。
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別々の便で成田に入った。アレクセイの便が二時間遅れた。
柏木は到着ロビーのベンチに座って待った。人の波が引いては押し寄せる。出迎えの人間がボードを持って並んでいる。再会した家族が抱き合っている。その全部が、柏木には少し遠い景色に見えた。
人波の中に、頭一つ分抜けた男が現れた。黒いダッフルバッグを肩にかけ、義足特有のわずかな規則性を持った歩き方で進んでくる。遠くからでも分かった。
柏木は立ち上がった。
「待ったか」
「二時間だ」
「機内食が出た。温かいうちに食べたかった」
「了解した」
それだけ言って歩き出した。アレクセイが並んだ。
外に出ると一月の乾いた冷気が来た。アレクセイの顔が動いた。眉が寄り、口元が引き締まる。寒さへの反応というより、異物に触れた時の顔だった。
喫煙所に入り、二人で火をつけた。
「どんな街だ」
「現在地は千葉だ。東京の隣になる」
「東京に行くのか」
「川口へ向かう。埼玉にある」
「東京の隣の隣か」
「そうだ」
アレクセイは煙草を吸いながら、灰色の空を仰いだ。煙が白く上がり、すぐに消えた。
「タイより空が低い」
柏木も空を見た。確かにそう見える。密集した建物と乾いた空気が、天井を押し下げているように感じさせる。ウドンターニーの空は遠かった。ここの空は近い。近いが、閉じている。
「湿度と建物の密度によるものだ」
アレクセイは頷いた。しばらく二人で煙草を吸った。
「ファリダーはここには来ないか」
「現時点ではタイにいる」
「よかった」
柏木はアレクセイを見た。横顔が灰色の空を向いている。心底ほっとした顔だった。
「それが本当の理由か」
「医療の件も本当だ。両方本当だ」
「なぜ両方言わなかった」
「ファリダーの件だけで十分断られると思った」
「俺は正しいことには早く同意する」
「知っている」
「ならば両方最初から言え」
「次から そうする」
煙草を灰皿に押しつけ、二人は喫煙所を出た。アレクセイの義足がコンクリートを踏む音と、柏木の革靴の音が交互に響きながら、電車の乗り場へ向かった。
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川口のビジネスホテルに着いたのは夜の十時を回ってからだった。
フロントでアレクセイが部屋の種類を確認し始めた。柏木が横から口を出した。
「ツインを一室頼む」
「なぜ同じ部屋だ」
「予算上、別々に取れない」
「俺も同じだ」
「ならツインで確定だ」
アレクセイは特に異論を挟まなかった。
部屋に入ると、アレクセイはバッグから医療道具のポーチを取り出して中身を確認した。一つ一つ手に取り、状態を確かめ、また戻す。その動作に無駄がない。戦場の軍医が身につけた習慣だ。柏木はデスクに座ってノートを開いた。
「明日の夜、一九〇〇。足立でズンと接触する。同行は不要だ」
「なぜだ」
「初対面のロシア人がいると情報が出にくい。単独で先行する」
アレクセイはポーチをしまい、ベッドに腰を下ろした。義足を外してベッドの脇に立てかけた。その動作を、柏木はノートに目を落としたまま見ていた。見ていないようで、見ていた。
「日本語は」
「アリガトウとスミマセン。それだけだ」
「タイ語もそこから始めたか」
「そうだ。必要に迫られれば覚える」
「日本語も必要になる場面が出るかもしれない」
「文字が三種類あると聞いた」
「誰に聞いた」
「機内誌に書いてあった。英語のページだ」
柏木はノートを閉じた。窓の外に川口の夜景が広がっている。工場の明かりが点在し、首都高速の橋が遠くに光っている。ウドンターニーの夜とは違う光だ。あちらは疎らで温かかった。こちらは密で、冷たい。
「一つ聞いていいか」
アレクセイが天井を向いたまま言った。
「どうぞ」
「ここで何かあった時、誰が助けに来る」
柏木は窓の外を見たまま答えた。
「俺たちだけだ」
「タイと同じだな」
「そうだ」
「なら問題ない」
アレクセイはそれ以上何も言わなかった。天井を見たまま、目を閉じた。
柏木はもう一度だけ窓の外を見た。
工場の明かりの向こうに、暗い空が広がっている。あの工場の中に、今夜も誰かがいる。明日のズンのことを考えた。何ができて、何ができないか。どこから手をつけるか。段取りを頭の中で繰り返した。
ベッドに横になった。
脇腹の傷がまだ鈍く疼いた。アレクセイが縫ったところだ。
隣のベッドから、規則的な寝息が聞こえ始めた。
早い。
柏木は目を閉じた。




