表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Operation:Thailand  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
15/128

第15話 共に

アレクセイ・ヴォルコフが日本行きを言い出したのは、柏木が出発する三日前の夕方だった。


 シェルターの食堂で、スッティンと柏木が翌週の段取りを話していた。テーブルの端でコーヒーを飲みながら聞いていたアレクセイが、会話の隙間に言った。


 「俺も行く」


 「日本に」と、間を置かずに続けた。


 スッティンが顔を上げた。柏木も上げた。


 「なぜですか」


 アレクセイはカップをソーサーに戻した。磁器が触れ合う音が静かに鳴った。


 「ファリダーがまた来る。柏木がいなければ俺が相手をしなければならない。それが嫌だ」


 「それだけですか」


 「柏木が怪我をした時に縫う人間が必要だ」


 「日本で怪我をする可能性があるか」


 柏木が言った。軍人の言い方だった。可能性を問う言葉だ。するつもりか、ではない。


 「ある。お前のことだから」


 「否定できん」


 「タイで脇腹を刺された男が言うことか」


 柏木は黙った。


 スッティンはアレクセイを見た。決めた顔をしていた。こういう顔の時に言葉をいくら重ねても変わらないことを、スッティンはすでに知っていた。


 「ビザはどうするんですか」


 「チャイロン少佐に頼む。短期滞在なら取れる」


 「義足でも問題ないか」


 「三年間バイクに乗ってきた。歩くだけなら問題ない」


 スッティンは柏木に目を向けた。柏木は手元のメモを見ていた。反対する気配がなかった。


 「言語は」


 「英語が通じる場所を使う。柏木が通訳する」


 「通訳は任務外だ」


 「相棒だろう」


 柏木はメモに何かを書いた。返事をしなかった。それが返事だった。


---


 チャイロン少佐は三日でビザの手配を終えた。


 短期滞在、九十日。職業欄はコンサルタントと書いてあった。


 書類を手渡しながら、スッティンが言った。


 「日本で医療行為はしないでください」


 「怪我をした人間を見捨てろということか」


 「そういう意味では——」


 「では医療行為はしない。ただ偶然そこにいるだけだ。偶然手が動くだけだ」


 スッティンは口を閉じた。


---


 別々の便で成田に入った。アレクセイの便が二時間遅れた。


 柏木は到着ロビーのベンチに座って待った。人の波が引いては押し寄せる。出迎えの人間がボードを持って並んでいる。再会した家族が抱き合っている。その全部が、柏木には少し遠い景色に見えた。


 人波の中に、頭一つ分抜けた男が現れた。黒いダッフルバッグを肩にかけ、義足特有のわずかな規則性を持った歩き方で進んでくる。遠くからでも分かった。


 柏木は立ち上がった。


 「待ったか」


 「二時間だ」


 「機内食が出た。温かいうちに食べたかった」


 「了解した」


 それだけ言って歩き出した。アレクセイが並んだ。


 外に出ると一月の乾いた冷気が来た。アレクセイの顔が動いた。眉が寄り、口元が引き締まる。寒さへの反応というより、異物に触れた時の顔だった。


 喫煙所に入り、二人で火をつけた。


 「どんな街だ」


 「現在地は千葉だ。東京の隣になる」


 「東京に行くのか」


 「川口へ向かう。埼玉にある」


 「東京の隣の隣か」


 「そうだ」


 アレクセイは煙草を吸いながら、灰色の空を仰いだ。煙が白く上がり、すぐに消えた。


 「タイより空が低い」


 柏木も空を見た。確かにそう見える。密集した建物と乾いた空気が、天井を押し下げているように感じさせる。ウドンターニーの空は遠かった。ここの空は近い。近いが、閉じている。


 「湿度と建物の密度によるものだ」


 アレクセイは頷いた。しばらく二人で煙草を吸った。


 「ファリダーはここには来ないか」


 「現時点ではタイにいる」


 「よかった」


 柏木はアレクセイを見た。横顔が灰色の空を向いている。心底ほっとした顔だった。


 「それが本当の理由か」


 「医療の件も本当だ。両方本当だ」


 「なぜ両方言わなかった」


 「ファリダーの件だけで十分断られると思った」


 「俺は正しいことには早く同意する」


 「知っている」


 「ならば両方最初から言え」


 「次から そうする」


 煙草を灰皿に押しつけ、二人は喫煙所を出た。アレクセイの義足がコンクリートを踏む音と、柏木の革靴の音が交互に響きながら、電車の乗り場へ向かった。


---


 川口のビジネスホテルに着いたのは夜の十時を回ってからだった。


 フロントでアレクセイが部屋の種類を確認し始めた。柏木が横から口を出した。


 「ツインを一室頼む」


 「なぜ同じ部屋だ」


 「予算上、別々に取れない」


 「俺も同じだ」


 「ならツインで確定だ」


 アレクセイは特に異論を挟まなかった。


 部屋に入ると、アレクセイはバッグから医療道具のポーチを取り出して中身を確認した。一つ一つ手に取り、状態を確かめ、また戻す。その動作に無駄がない。戦場の軍医が身につけた習慣だ。柏木はデスクに座ってノートを開いた。


 「明日の夜、一九〇〇。足立でズンと接触する。同行は不要だ」


 「なぜだ」


 「初対面のロシア人がいると情報が出にくい。単独で先行する」


 アレクセイはポーチをしまい、ベッドに腰を下ろした。義足を外してベッドの脇に立てかけた。その動作を、柏木はノートに目を落としたまま見ていた。見ていないようで、見ていた。


 「日本語は」


 「アリガトウとスミマセン。それだけだ」


 「タイ語もそこから始めたか」


 「そうだ。必要に迫られれば覚える」


 「日本語も必要になる場面が出るかもしれない」


 「文字が三種類あると聞いた」


 「誰に聞いた」


 「機内誌に書いてあった。英語のページだ」


 柏木はノートを閉じた。窓の外に川口の夜景が広がっている。工場の明かりが点在し、首都高速の橋が遠くに光っている。ウドンターニーの夜とは違う光だ。あちらは疎らで温かかった。こちらは密で、冷たい。


 「一つ聞いていいか」


 アレクセイが天井を向いたまま言った。


 「どうぞ」


 「ここで何かあった時、誰が助けに来る」


 柏木は窓の外を見たまま答えた。


 「俺たちだけだ」


 「タイと同じだな」


 「そうだ」


 「なら問題ない」


 アレクセイはそれ以上何も言わなかった。天井を見たまま、目を閉じた。


 柏木はもう一度だけ窓の外を見た。


 工場の明かりの向こうに、暗い空が広がっている。あの工場の中に、今夜も誰かがいる。明日のズンのことを考えた。何ができて、何ができないか。どこから手をつけるか。段取りを頭の中で繰り返した。


 ベッドに横になった。


 脇腹の傷がまだ鈍く疼いた。アレクセイが縫ったところだ。


 隣のベッドから、規則的な寝息が聞こえ始めた。


 早い。


 柏木は目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ