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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第14話 入国

成田空港の入国審査レーンは、午後の便が重なって混んでいた。


 柏木勇気は列に並び、前の人間が進むのに合わせて足を動かしながら、天井を見た。蛍光灯の白い光。案内板の日本語。制服を着た係官が、窓口の向こうで淡々と作業を続けている。


 六週間ぶりの日本だった。


 だが帰ってきた、という感覚がなかった。


 ウドンターニーを発つ朝、スッティンが空港まで送ってきた。車の中でほとんど話さなかった。出発ロビーの前で、スッティンが言った。


 「ほとぼりが冷めたら戻ってください」


 「分かっています」


 「日本での活動も、ここの仕事の延長です。忘れないでください」


 柏木は頷いた。


 「ファリダーさんがまた来ると思います」


 「来るでしょう」


 「何も話さなくていい」


 「言われなくても」


 スッティンは少し笑った。それから真顔に戻った。


 「気をつけてください」


 「そちらも」


 それだけだった。


---


 窓口に進んだ。


 係官がパスポートを受け取り、顔を見た。右目だけが動く顔を、一瞬だけ見た。それから画面に目を落とした。


 「ご職業は」


 「コンサルタントです」


 「どちらに」


 「フリーランスです」


 「滞在予定期間は」


 「未定です」


 係官はパスポートにスタンプを押した。


 「お帰りなさい」


 柏木はパスポートを受け取った。


 帰国ではない。入国だ。


 そう思いながら、審査レーンを抜けた。


---


 荷物を受け取り、税関を通り、到着ロビーに出た。


 人が多かった。出迎えの人間が、名前を書いたボードを持って並んでいる。再会した家族が抱き合っている。子どもが走っている。


 柏木を迎える人間は誰もいなかった。


 スマートフォンを取り出した。電源を入れると、メッセージが溜まっていた。ズンからが三件。アン・ティン・ミンからが二件。チャウからが一件。ミンからはなかった。


 一通ずつ読んだ。


 到着ロビーの端のベンチに座り、読んだ。


 ズンの状況が最も切迫していた。工場の同僚からの勧誘が続いている。今月断ったが、来月の家賃が払えるかどうか分からないと書いてあった。


 アン・ティン・ミンは職場でのトラブルを書いていた。残業代が払われていない。抗議したら担当者に「文句を言うなら帰国させる」と言われた。


 チャウは飲食店のオーナーからの「紹介」の話を断れないでいた。


 ミンからはメッセージがない。


 柏木はスマートフォンを膝の上に置いた。


 六畳のアパートはもうない。退職してから解約した。今夜の宿はネットで取ってある。川口のビジネスホテル。川口を選んだのは、チャウとミンが埼玉にいるからだ。


 煙草を吸いたかった。空港の中では吸えない。


 立ち上がって、外に向かった。


---


 喫煙所で煙草に火をつけた。


 一月の東京の空気は乾いていた。ウドンターニーの湿気と熱に六週間いると、日本の冬の乾燥が肌に刺さるように感じる。


 煙草を吸いながら、柏木は頭の中で順序を組み立てた。


 まずズンに会う。状況が最も危うい。次にアン・ティン・ミン。チャウはもう少し時間がある。ミンは自分から連絡してこない。こちらから動く必要がある。


 グローバルキャリアの後任担当者が誰かは分かっている。山本隆二。ナリンから聞いた。山本については三年間、横で見てきた。相談対応の経験がほとんどない。今頃、三百人以上を前にして途方に暮れているはずだ。


 使えるかもしれない。


 柏木はスマートフォンを取り出し、ズンにメッセージを送った。


 *「柏木です。今日、日本に来ました。明日会えますか」*


 送信した。


 煙草の煙が冬の空気に白く溶けた。


 成田空港の外は、灰色の空が広がっていた。


 タイの青すぎる空とは違う。だがそれでいい。ここは今、作戦地域だ。


---


 電車に乗った。


 成田から都内に向かう特急の座席に、柏木は窓側に座った。車内は空いていた。隣に人はいない。


 車窓から千葉の平野が流れていく。田んぼ。住宅地。工場。高圧線の鉄塔が等間隔に並んでいる。見慣れた風景だった。三年間、毎朝通い続けた路線だ。


 だが見え方が変わっていた。


 以前は通り過ぎるだけの景色だったものが、今は違って見える。あの工場に何人の外国人労働者がいるか。あの住宅地のシェアハウスに何人が押し込まれているか。


 タイで目が変わった。


 スマートフォンが鳴った。ズンからの返信だった。


 *「本当ですか。会いたいです。いつでも大丈夫です」*


 柏木は返信を打った。


 *「明日の夜、七時。足立の駅前で」*


 *「行きます。絶対行きます」*


 柏木はスマートフォンをポケットにしまった。


 車窓の景色が流れ続けている。


 帰国ではない。入国だ。


 その感覚は、電車の中でも変わらなかった。


---


 川口のビジネスホテルにチェックインしたのは夜の八時を過ぎていた。


 部屋に入った。シングルの狭い部屋。ベッドとデスクと小さなテレビ。ウドンターニーのシェルターより清潔だが、あそこにあった何かがここにはない。


 何だろうと少し考えた。


 人の気配だ、と思った。


 シェルターには常に誰かがいた。ノックが食事を作っている音。ペットがトラックを整備する音。アレクセイが医療道具を準備している音。被害者の子どもが走り回る音。


 ここには自分しかいない。


 柏木はデスクに座り、ノートを開いた。


 四人の状況を整理して書いた。ズン、アン・ティン・ミン、チャウ、ミン。それぞれの問題と、取れる手段と、必要な時間を書いた。


 次のページに、使えるルートを書いた。


 三年間で積み上げたものがある。ベトナム人コミュニティの中に、顔の利く人間が何人かいる。タイ人のコミュニティにも。インドネシア人にも。彼らは柏木が登録支援機関の職員だった頃から付き合いがある。今の柏木が何者かを説明すれば、動いてくれる人間がいる。


 装備については、すでに当たりをつけてある。


 銃は無理だ。日本では使えない。だがそれ以外のものは揃う。監視に使える機材。安全に会話できる場所。必要な時に動いてくれる人間の数名。


 柏木はノートを閉じた。


 煙草に火をつけた。窓を開けると、川口の夜の空気が入ってきた。遠くに工場の明かりが見えた。


 あの工場の中に、今夜も誰かがいる。


 柏木は煙草を吸い終えて、窓を閉めた。


 シャワーを浴びた。ベッドに横になった。


 脇腹の縫合跡がまだ鈍く痛んだ。アレクセイが縫ったところだ。


 明日からだ。


 目を閉じた。


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