第10話 狩り
テロ発生から十二時間。
バンコクは完全封鎖されていた。
主要道路は軍が封鎖。空港は閉鎖。港も封鎖。鉄道は運行停止。
街はパニック状態だった。人々が逃げ惑い、車が渋滞を作り、サイレンが鳴り響いている。
その混乱の中で、逃げようとしている者たちがいた。
王室犯罪対策局本部。作戦室。
局長が全員を見渡した。
「王宮の書類を解析した。汚職に関与した人物は二十八名。政治家八名、軍幹部五名、警察幹部三名、財界人十二名。全員を今日中に逮捕する」
トンプソンが腕を組んだ。元海兵隊。新隊員の中で最も経験豊富。左頬に昨夜の戦闘で受けた痣がある。
「逃がすつもりはない」
低い声だった。藤原誠一と何度も訓練で組んだ。言葉は通じなくても、動きで分かり合えた。その藤原は、裏切り者に殺された。そして今、その裏切りを生んだ腐敗の元凶を追う。
「優先度が高いのは三人だ」
局長がホワイトボードに名前を書いた。
「政界のドン、チャイワット・プラサート。陸軍の元将軍、ソムチャイ・ウォンサワット。警察副長官、プラチャ・タンティウォン」
通信機が鳴った。
ハーパーが出た。
「……局長、瀧本から通信です」
「瀧本? 入院中だろう」
「病室から連絡してきてます。話したいことがあると」
局長は通信機を受け取った。
「瀧本、何だ」
「局長、チャイワットの逃走ルート、分かりました」
瀧本の声はかすれていた。だが、意識ははっきりしている。
「空港じゃないです。あいつ、ヘリを持ってる。自宅の屋上にヘリポートがある。そこから逃げるつもりだ」
「どこで知った」
「去年、チャイワットの会社を調査した時の資料を思い出した。ルノーが作ったやつです。あいつは空港嫌いで、国内移動は全部ヘリだった。自宅にヘリポートがあるって書いてあった」
局長は地図を見た。
「自宅の場所は」
「サトーン地区。川沿いの豪邸です」
「分かった。アルファチームの目標を変更する」
通信を切った。
トンプソンが聞いた。
「目標変更ですか」
「チャイワットは空港じゃない。自宅からヘリで逃げる。先回りしろ」
「了解」
午前五時。
三つのチームが出発した。
サトーン地区。チャオプラヤー川沿いの豪邸。
チーム・アルファは裏口から侵入した。
「屋上にヘリポートがある。ヘリが見える」
シュミットがスコープで確認した。元GSG-9の狙撃手。
「エンジンがかかってる。もう逃げようとしてる」
「急げ」
トンプソンが先頭を走った。
階段を駆け上がる。三階。四階。五階。屋上。
扉を蹴破った。
ヘリが目の前にあった。ローターが回っている。
チャイワットが乗り込もうとしていた。七十代の老人。白髪。高級スーツ。
ボディガードが六人。全員が銃を構えた。
「止まれ!」
トンプソンが叫んだ。
「王室犯罪対策局だ! チャイワット・プラサートを逮捕する!」
ボディガードが発砲した。
トンプソンが横に跳んだ。弾が通過する。
オコナーが柱の陰に隠れた。応射した。一人のボディガードが倒れた。
シュミットが狙いを定めた。二発。二人が倒れた。
エマが走った。残りの三人に向かって。
一人が銃を向けた。エマは横に跳んで躱し、男の懐に入った。銃を払い、肘を顎に叩き込んだ。男が崩れた。
二人目が殴りかかってきた。エマは腕を取り、投げた。男が床に叩きつけられた。
三人目が逃げようとした。トンプソンが追いついて、後ろから首を絞めた。男が動かなくなった。
六人のボディガードが全員倒れた。
だが、その間にチャイワットはヘリに乗り込んでいた。
ヘリが浮き上がった。
「逃げる気か!」
トンプソンが走った。
ヘリのスキッドに飛びついた。掴んだ。
ヘリが上昇する。トンプソンがぶら下がっている。
「トンプソン!」
オコナーが叫んだ。
トンプソンは片手でスキッドを掴みながら、もう片方の手で銃を抜いた。
コックピットに向けて撃った。
ガラスが砕けた。パイロットが倒れた。
ヘリがバランスを崩した。傾いた。
トンプソンは手を離した。屋上に落ちた。転がった。
ヘリは制御を失って、屋上の端に墜落した。爆発はしなかった。だが、動かない。
トンプソンが立ち上がった。
ヘリに近づいた。
ドアを開けた。
チャイワットがいた。額から血が流れている。意識はある。
「……終わりだな」
チャイワットが言った。
「ああ、終わりだ」
トンプソンが手錠を取り出した。
「藤原」
小さく呟いた。
「一人目だ」
陸軍第一師団基地。正門前。
チーム・ブラボーは待機していた。
門の向こうに、武装した兵士たちが見える。
「入れないな」
ピーターが言った。
「入れない。でも、待ってれば入れる」
ベッカーが言った。難民を守ろうとして上官を殴り、軍を追い出された男。
「軍の連中を知ってる。上からの命令には逆らえない」
黒田が静かに言った。日本人女性。藤原誠一と同郷だった。
「私たちは、待つだけです。待って、捕まえる」
キム・ジュンソが頷いた。韓国人。寡黙。
通信機が鳴った。
「ピーター、参謀総長と話がついた。ソムチャイの身柄引き渡しを命じる」
「了解」
五分後、基地の門が開いた。
将校が出てきた。顔が硬い。
「……ソムチャイ元将軍を引き渡す」
その後ろから、ソムチャイが連れてこられた。六十代。がっしりした体格。軍服を着ている。
彼は捜査官たちを睨みつけた。
「貴様ら、何の権利があって——」
「王室犯罪対策局です」
黒田が前に出た。
「汚職、公金横領、テロ支援の容疑で逮捕します」
「女に逮捕されると思うか!」
黒田は動じなかった。
「思います。私の同郷の仲間が、あなたのような人間のせいで死にました。藤原誠一という名前です。覚えておいてください」
ベッカーが手錠を取り出した。
「俺は上官を殴って軍を追い出された。難民を守ろうとしたからだ。お前みたいな奴がいるから、軍は腐る」
手錠がかけられた。
ソムチャイが暴れようとした。
キム・ジュンソが動いた。腕を掴み、関節を極めた。
「静かに。抵抗すれば、折る」
ソムチャイは動きを止めた。
警察本部。
局長と四名の捜査官が到着した。
モラレス。元メキシコ連邦警察。麻薬カルテルとの戦いで家族を失っている。
ワシントン。元米軍MP。規律を重んじる。
コーエン。イスラエル系。元軍事情報部。皮肉屋。
イ・スジン。韓国人女性。寡黙だが、笑う時は笑う。
「局長、本当に正面から行くんですか」
モラレスが聞いた。
「正面から行く」
「俺はメキシコで麻薬カルテルと戦った。正面から行って、何度も死にかけた」
「死んだか?」
「死んでない」
「なら問題ない」
エレベーターで最上階に向かった。
エレベーターが開いた。
廊下に警官が十人立っていた。全員が銃を持っている。
五人じゃない。十人だ。
先頭の警部は、目が座っていた。
「止まれ。これ以上は通さない」
「王室犯罪対策局だ。プラチャ副長官を逮捕する」
「副長官は無実だ。お前たちこそ不法侵入で逮捕する」
局長は逮捕状を見せた。
「王室の印がある。お前にこれを止める権限はない」
警部が銃を構えた。
「王室だろうが何だろうが、通さない。副長官を守る。それが俺たちの仕事だ」
「お前も金をもらっているのか」
「もらってる。だから何だ。お前たちに裁く権利があるのか」
局長は一歩前に出た。
「ある」
警部が引き金を引いた。
局長は横に跳んだ。だが、完全には躱せなかった。
弾が左腕を掠めた。血が飛んだ。
「局長!」
モラレスが叫んだ。
局長は止まらなかった。
走った。警部に向かって。
ブアカーオ直伝のムエタイ。
警部の銃を払い、肘を顎に叩き込んだ。警部が崩れ落ちた。
残りの九人が動いた。
乱戦になった。
モラレスが二人を相手にした。カルテルとの戦いで鍛えられた技術。一人の銃を奪い、もう一人を殴り倒した。
ワシントンが三人を相手にした。大きな体を活かして、一人を壁に叩きつけ、二人目を投げ、三人目を殴った。
コーエンが二人を相手にした。喉に掌底を入れ、膝を蹴り抜いた。
イ・スジンが二人を相手にした。一人を投げ、もう一人の腕を極めた。
十人の警官が全員倒れた。
だが、局長の左腕から血が流れている。
「局長、大丈夫ですか」
「問題ない。行くぞ」
副長官室の扉を蹴破った。
プラチャがいた。五十代。太った体。
だが、一人じゃなかった。
女性を人質に取っていた。若い女。秘書か。首にナイフを当てている。
「来るな!」
プラチャが叫んだ。
「この女を殺すぞ!」
局長は止まった。
「人質か。警察副長官が、そこまで落ちたか」
「落ちた? 俺は生き残るんだ! 何が何でも!」
プラチャの目が狂っていた。追い詰められた獣の目だ。
「お前たちが来ることは分かってた! だから保険を用意した!」
「その女を離せ。お前の罪が一つ増えるだけだ」
「増えたって同じだ! どうせ死刑だ! なら道連れにしてやる!」
女が泣いていた。体が震えている。
局長は一歩前に出た。
「撃つなら撃て。俺を」
「何?」
「その女じゃなく、俺を撃て。俺を殺せば、お前は逃げられるかもしれない」
プラチャは局長を見た。
「……何を考えてる」
「考えてない。お前が人質を取るような卑怯者だと思わなかっただけだ」
「卑怯? 生き残るためだ!」
「生き残ってどうする。お前の人脈は全員逮捕される。金も凍結される。逃げる場所はない」
「……」
「その女を殺しても、お前は逃げられない。分かってるだろう」
プラチャの手が震えた。
「……なぜだ。なぜ、こんなことに……」
「お前が選んだ道だ」
局長はゆっくりと近づいた。
「俺の部下が九人入院している。一人は心臓が三回止まった。一人は二度と歩けないかもしれない」
「……」
「それでも誰も死ななかった。全員生きている。お前を捕まえるために」
プラチャの手からナイフが落ちた。
女が逃げ出した。イ・スジンが受け止めた。
プラチャは崩れ落ちた。泣いていた。
「……終わりだ……全部、終わりだ……」
「ああ、終わりだ」
手錠がかけられた。
午前十時。
二十八人のうち、二十七人が逮捕された。
一人だけ、逮捕できなかった。
財界人の一人、ウィチャイ・スワンナポン。建設会社の社長。
チームが自宅に踏み込んだ時、彼は書斎にいた。
机の上に、大量の書類があった。火をつけようとしていた。
「動くな!」
捜査官が叫んだ。
ウィチャイは振り向いた。
六十代。痩せた男。目が虚ろだった。
「……遅かったな」
彼は笑った。
「でも、これだけは渡さない」
彼は書類にライターで火をつけた。
捜査官が飛びかかった。だが、間に合わなかった。
書類が燃え始めた。
そして、ウィチャイは窓に向かって走った。
窓を突き破った。
十二階から落ちた。
捜査官が窓から下を見た。
ウィチャイは、コンクリートの上に横たわっていた。動かなかった。
午後三時。
局長は病院にいた。
左腕に包帯を巻いている。撃たれた傷だ。
集中治療室の前。
瀧本が車椅子に乗って出てきた。顔中に包帯を巻いている。左腕が固定されている。
「局長、腕」
「掠っただけだ。お前の方がひどい」
「そうですね」
瀧本は局長を見た。
「二十七人、逮捕したんですね」
「二十七人だ。一人は逃げた」
「逃げた?」
「飛び降りた。十二階から。書類を燃やしてから」
瀧本は黙った。
「……そうですか」
「証拠の一部は失われた。完璧な勝利じゃない」
「でも、二十七人は捕まえた」
「捕まえた」
「書類の大部分は無事だ」
「無事だ」
瀧本は窓の外を見た。
「俺たちが守ったものは、無駄じゃなかった」
「無駄じゃない」
局長は瀧本を見た。
「お前の情報がなければ、チャイワットは逃げていた。ヘリで」
「たまたま覚えてただけです」
「たまたまでも、役に立った」
瀧本は少し笑った。顔が痛かった。
「ニコライは、どうですか」
「まだ分からない。医者は、歩けるようになるかもしれないと言っている。リハビリ次第だと」
「ンゴマは」
「意識が戻った。今朝」
「……よかった」
瀧本は天井を見た。
「完璧な勝利じゃない。一人逃げた。一人死んだ。ニコライは歩けないかもしれない。でも——」
「でも」
「全員、生きてる。俺たちは」
「生きてる」
局長は窓の外を見た。
「これから裁判が始まる。証言が集められる。全ての真実が明らかになる。長い戦いになる」
「俺たちも戦いますか」
「戦う。だが、今は休め」
局長は瀧本の肩を軽く叩いた。
「お前たちの戦いは、一つ終わった。次の戦いに備えろ」
局長は歩いていった。
瀧本は車椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。
バンコクの空は、青かった。
完璧じゃない。
でも、勝った。
それで、十分だ。




