第8話 疾走
サイアム駅を出ると、街は混乱していた。
サイレンが鳴り響いている。救急車。パトカー。消防車。どこもかしこも渋滞している。逃げ惑う人々が道路を埋め尽くしている。
「車は無理だな」
瀧本は周囲を見渡した。タクシーは止まっている。バスも動いていない。BTSは運行停止。
王宮まで、直線距離で約五キロ。走れば二十分以上かかる。撃たれた左腕を抱えて全力疾走するのは厳しい。
瀧本の目が、路地の入り口で止まった。
トゥクトゥク。
三輪タクシー。バンコク名物。小型のエンジンを積んだ、屋根付きの三輪車。運転手が車を置いて、どこかに逃げたらしい。エンジンがかかったまま放置されている。
瀧本はトゥクトゥクに近づいた。運転席に乗り込んだ。
サラが追いついてきた。
瀧本がハンドルを握っているのを見て、足を止めた。
「……何してるの」
「乗れ」
「瀧本が運転するの」
「他に誰がいる」
「免許は」
「神奈川県警で白バイ十五年やってた」
「トゥクトゥクは白バイじゃないわ」
「三輪か二輪かの違いだ」
「全然違う」
「乗れ」
サラは黙った。瀧本を見た。トゥクトゥクを見た。また瀧本を見た。
諦めたように乗り込んだ。
「死んでも知らないわよ」
「死なない」
瀧本はアクセルを踏んだ。
トゥクトゥクが発進した。
最初は普通の道を行った。だが、すぐに渋滞に突き当たった。車が詰まっている。クラクションが鳴り響く。
瀧本は躊躇わなかった。ハンドルを切り、歩道に乗り上げた。
歩行者が悲鳴を上げて避ける。屋台が倒れる。果物が転がる。焼き鳥の煙が流れる。
「すまん!」
瀧本が叫んだ。だが止まらない。
トゥクトゥクは歩道を突っ走り、交差点を横切り、また車道に戻った。
「瀧本!」
「何だ!」
「対向車!」
トラックが迫ってくる。瀧本はハンドルを切った。トゥクトゥクが傾く。二輪だけで走った。車体が四十五度に傾いたまま、トラックの横をすり抜けた。
「おおおおおお!」
瀧本が叫んだ。
サラは何も言わなかった。手すりを握りしめている。顔が青い。
ラチャダムリ通りを抜けた。
赤信号。無視した。
タクシーの間を縫う。バイクを追い抜く。逆走する。
警官が笛を吹いた。無視した。
「瀧本、警察が」
「後で謝る」
「謝って済む問題じゃ——」
急ブレーキ。目の前をバスが横切った。ぶつかる寸前で止まった。
バスが通り過ぎた瞬間、再加速。
「死ぬ!」
「死なない!」
サラは何か言おうとして、やめた。言っても無駄だと悟った。
通信機が鳴った。
「瀧本、今どこだ」
ジョンソンの声だった。
「ラチャプラソン付近! 王宮に向かってる!」
「移動手段は」
「トゥクトゥク!」
通信が一瞬途切れた。
「……トゥクトゥク?」
「トゥクトゥクだ! 俺が運転してる!」
「お前が運転……?」
「サラも一緒だ!」
サラが叫んだ。
「私は反対したわ!」
「だろうな!」
ジョンソンの声が緊張を帯びた。
「王宮の状況を伝える! 警備隊が崩壊した! テロリストが正門を突破して、王宮内になだれ込んでいる!」
「なだれ込んでる!?」
「数は五十人以上! 重武装だ! RPGも確認されている!」
「五十人!?」
「増援を送ってる! 突撃隊の全員と、対策局の捜査官も向かわせた! だが渋滞で動けない!」
「俺たちが一番乗りか!」
「そうなる! だが二人で五十人は無理だ! 増援が来るまで——」
「来るまで待てない! 王宮の中で何をするつもりか分からないんだろ!?」
「分からない! だから——」
「だから突っ込む!」
瀧本は通信を切った。
王宮が見えてきた。
白い壁。金色の尖塔。タイ王国の象徴。
その正門が、破壊されていた。
門扉が吹き飛んでいる。RPGでやられたらしい。警備隊の車両が燃えている。警備員の遺体が転がっている。
テロリストの姿は見えない。もう中に入った後だ。
銃声が聞こえる。王宮の奥から。まだ抵抗している警備員がいるのか。
「どうするの」
サラが聞いた。
「突っ込む」
「門は壊れてる」
「だから突っ込みやすい」
「中に入ってどうするの」
「考えてない」
「……」
サラは何も言わなかった。銃を構え直した。
「分かった」
それだけ言った。
瀧本はアクセルを全開にした。
トゥクトゥクが加速する。時速六十キロ。七十キロ。八十キロ。三輪車の限界に近い。
破壊された門を通り抜けた。王宮の敷地に入った。
広い。白い建物が並んでいる。金色の装飾が輝いている。普段なら観光客で賑わっている場所だ。今は誰もいない。
いや、いる。
前方に、黒い服の集団。二十人ほど。建物の入り口に向かって移動している。
瀧本はクラクションを鳴らした。
全員が振り向いた。
トゥクトゥクが突っ込んでくる。
「どけええええ!」
瀧本が叫んだ。
テロリストが散った。何人かは逃げ遅れた。トゥクトゥクが三人を跳ね飛ばした。
一人が銃を構えた。撃った。フロントガラスが砕けた。瀧本は身を低くした。弾が頭上を通過する。
サラが撃ち返した。男が倒れた。
トゥクトゥクは止まらない。建物の入り口に向かって突進する。
階段がある。三段。
「掴まれ!」
トゥクトゥクが階段を駆け上がった。衝撃で体が浮いた。着地。タイヤが悲鳴を上げる。
建物の入り口に突っ込んだ。
扉を破壊した。
トゥクトゥクが建物の中に侵入した。
広間だった。
天井が高い。柱が並んでいる。床は大理石。壁には仏画が描かれている。
その中央に、テロリストがいた。三十人以上。
全員が振り向いた。
三輪車が建物の中に突っ込んできた。信じられないものを見る目だった。
瀧本はブレーキを踏んだ。トゥクトゥクがスピンした。横滑りしながら止まった。
「降りろ!」
サラが飛び降りた。瀧本も飛び降りた。
トゥクトゥクを盾にして身を隠す。
三十人以上のテロリストが、銃を構えている。
二対三十。
「まずいな」
「まずいわね」
その時、建物の別の入り口から声が響いた。
「瀧本! サラ!」
ジョンソンの声だった。
振り向くと、突撃隊が突入してきていた。ジョンソン。ニコライ。マルティネス。ヨナタン。ジェームズ。陳志明。
さらにその後ろから、対策局の捜査官たち。ンゴマ。アブドゥル。ピーター。新隊員たち。
全員が揃った。
ジョンソンが叫んだ。
「銃は使うな! ここは王宮だ! 格闘で制圧しろ!」
テロリストが発砲しようとした。
だが、突撃隊の方が速かった。
全員が一斉に飛び出した。
王宮の広間で、乱戦が始まった。




