第6話 電車
新しいバイクが届いたのは、三日前のことだった。
BMW R1250 GS Adventure。白塗装。前のと同じモデル。瀧本は納車されたその日に三時間走り込んで、癖を確認した。エンジンの吹け上がり、ブレーキの効き、コーナリングの感触。前のやつより少しだけハンドルが軽い気がしたが、誤差の範囲だ。
「大事に乗れよ」とダニエルが言った。
「善処する」と瀧本は答えた。
「善処じゃなくて約束しろ」
「善処する」
ダニエルは諦めた顔をした。
三日後。その会話を思い出しながら、瀧本はバンコクの道を走っていた。時速百四十キロ。サイレンを鳴らしながら、車の間を縫っていく。右目だけで前方を見る。左目は動かない。半年前に失った視界には、もう慣れた。
十五分前、本部に緊急通報が入った。
BTSスクンビット線。アソーク駅を出発した電車が乗っ取られた。武装した男たちが乗客を人質に取り、運転士を脅して電車を走らせている。乗客は推定二百名以上。犯人の数は不明。要求も不明。
警察が動いている。軍も動いている。だが電車は止まらない。次の駅で止まるかと思ったら、通過した。その次も通過した。どこに向かっているのか分からない。
局長から通信が入った。
「瀧本、お前が一番近い。現場に急行しろ」
「電車にどうやって乗るんですか」
「考えろ」
「了解」
考えた。答えは一つしかなかった。
BTSの高架が見えてきた。バンコクの空を横切る灰色のコンクリート。その上を電車が走っている。
瀧本は道路から高架の下に入り、並走できるルートを探した。スクンビット通り。片側三車線。渋滞している。だが歩道がある。
歩道に乗り上げた。歩行者が悲鳴を上げて避ける。申し訳ないと思いながら、アクセルを開けた。時速八十キロ。歩道としては異常な速度だ。だが電車に追いつくにはこれでも遅い。
前方に陸橋が見えた。高架と道路が交差する地点。高さは合っていない。高架の方が高い。だが陸橋の最高点から跳べば、届くかもしれない。
届かないかもしれない。
考えている暇はなかった。
瀧本は陸橋に向かってバイクを走らせた。
陸橋の上り坂。加速する。時速百二十キロ。百三十キロ。百四十キロ。
頂点が近づく。
電車が見えた。高架の上を走っている。こちらに向かってくる。タイミングは一度きり。
瀧本はハンドルを切り、縁石を踏み台にした。バイクが跳んだ。
一瞬、空中に浮いた。バンコクの空が見えた。青かった。
電車の屋根が迫ってくる。届く。届くが、このままだとバイクごと激突する。
瀧本はバイクを蹴って体を離した。バイクは電車の屋根に激突して火花を散らしながら滑っていき、反対側に落ちて消えた。瀧本は屋根に着地し、転がり、何かに掴まった。エアコンの室外機だった。
屋根の上で体を起こした。
「……納車三日で大破か」
誰に言うでもなく呟いた。ダニエルの顔が浮かんだ。怒るだろうな、と思った。
電車は走り続けている。風が強い。立っているのがやっとだ。
屋根の上を這うように進み、車両の連結部分を探した。見つけた。非常用のハッチがある。
ハッチを開けて、車内に降りた。
最後尾の車両だった。乗客が座席に座っている。全員が瀧本を見た。恐怖と困惑が混じった目。
瀧本は人差し指を唇に当てた。静かに、という意味だ。
乗客たちは頷いた。声を出す者はいなかった。
前方の車両に向かって歩き始めた。
二両目に入った瞬間、男が振り向いた。
黒いバラクラバで顔を隠している。手にはAK-47。
目が合った。
男が銃を構えようとした。瀧本は三歩で距離を詰め、銃身を掴んで上に跳ね上げた。天井に向けて発砲される。乗客が悲鳴を上げた。
瀧本は銃を持った手首を捻り、関節を極めた。男が銃を落とした。そのまま肘を顔面に叩き込む。鼻が折れる音がした。男が崩れ落ちた。
一人目。
銃声を聞いて、前方から二人が走ってきた。同じ格好。同じ銃。
狭い車内だ。銃は使いにくい。分かっているのか、二人は銃を構えたまま躊躇している。乗客を撃つわけにはいかない。
瀧本はその隙に飛び込んだ。
一人目の銃を払い、喉に掌底を打ち込んだ。男が咳き込んで屈む。その頭を掴んで膝に叩きつけた。倒れた。
二人目が銃を振り回してきた。銃床で殴ろうとしている。瀧本は身を沈めて躱し、足払いをかけた。男がバランスを崩す。立て直す前に、後頭部に肘を落とした。倒れた。
三人目。
前方の車両に進んだ。
四人目が待ち構えていた。銃を構えている。だが瀧本は止まらなかった。
男が撃った。瀧本は横に跳んで座席の陰に隠れた。弾が窓ガラスを砕く。風が吹き込んできた。
座席の下から男の足が見えた。位置を把握する。
瀧本は座席を蹴って跳び出した。男が銃口を向ける。遅い。懐に入り込み、顎に肘を打ち上げた。男の頭が跳ね上がる。意識が飛んでいる。倒れる前に銃を奪い取った。
四人目。
先頭車両が見えた。運転席。
五人目が運転士にナイフを突きつけていた。
「動くな!」
男が叫んだ。ナイフを運転士の首に押し当てている。
瀧本は立ち止まった。奪った銃を床に置き、両手を上げた。
「分かった。落ち着け」
「お前は誰だ」
「王室犯罪対策局」
「警察か」
「似たようなもんだ」
男は運転士を盾にしたまま、瀧本を睨んでいた。目が血走っている。追い詰められた人間の目だ。
「近づくな。近づいたらこいつを殺す」
「殺したら、お前に交渉材料がなくなる」
「うるさい!」
男の手が震えている。ナイフの刃が運転士の首に食い込みそうだ。
運転士の目が瀧本を見ていた。助けてくれ、と言っている。
瀧本は一歩踏み出した。
「動くなと言っただろ!」
「お前の要求は何だ」
「黙れ!」
「要求がないなら、交渉にならない」
「要求は……要求は……」
男が言い淀んだ。その一瞬、ナイフを持つ手の力が緩んだ。
瀧本は動いた。
半年間、世界最高の格闘家たちに叩き込まれた動き。考える前に体が反応する。三歩で距離を詰め、左手でナイフを持つ手首を掴み、右手で運転士を引き剥がした。
男が抵抗しようとした。遅い。
瀧本は半歩下がって軸を作り、右足を振り抜いた。
回し蹴り。
ヴァン・ダム直伝。
蹴りが男のこめかみに直撃した。衝撃で男の体が横に吹っ飛び、壁に叩きつけられた。崩れ落ちた。動かない。
五人目。
運転士が床にへたり込んでいた。
「大丈夫か」
「あ、あなたは……」
「電車を止めてくれ。ゆっくりでいい」
運転士は震える手でブレーキを操作した。電車が減速し始めた。
瀧本は壁に寄りかかった。息が荒い。体中が痛い。電車の屋根に着地した時に肩を打った。四人目と戦った時に脇腹を蹴られた。気づかなかったが、額から血が出ている。
ズタボロだ。いつものことだ。
通信機が鳴った。
「瀧本、状況を報告しろ」
ジョンソンの声だった。
「制圧完了。犯人五名、全員無力化。人質に死傷者なし」
「よくやった」
「バイクは大破した」
「……知ってる。ニュースでやってた」
「ダニエルに謝っといてくれ」
「自分で謝れ」
「善処する」
通信が切れかけた時、ジョンソンが言った。
「瀧本、戻ってくるな」
「は?」
「サイアムで爆発があった。BTS駅だ」
瀧本は壁から体を起こした。
「爆発?」
「それだけじゃない。セントラルワールドでも銃撃。政府庁舎の前で車両突入。同時多発だ」
瀧本は窓の外を見た。バンコクの街並みが見える。平和に見える。だがどこかで煙が上がっているのだろう。
「現場に向かう」
「お前、さっき制圧したばかりだろう」
「動ける」
「動けるかどうかじゃない。お前一人で何カ所も回れるわけがない」
「じゃあどうする」
ジョンソンは一瞬黙った。それから言った。
「局長が動いてる。たぶん、あれを使う」
「あれ?」
「対策局の捜査官だ。十八人いる」
瀧本は理解した。
第四章で局長が言っていた言葉を思い出した。「表向きは縮小した。だが必要な時には、軍のヘリが飛び、対策局の捜査官が銃を取る」
その時が来た。
「俺はどこに行けばいい」
「サイアムだ。一番近い。増援が来るまで持ちこたえろ」
「了解」
電車が完全に停止した。駅ではない場所だが、ドアが開いた。乗客たちが降り始めている。泣いている人もいる。
瀧本は降りようとして、運転士に声をかけた。
「あんた、よく持ちこたえた」
「あなたこそ……ありがとうございます」
「仕事だ」
ホームに降りた。警察が駆けつけてきている。瀧本は警察を無視して走り出した。
サイアムまで、どのくらいだ。走れば十分。
体が痛い。息が苦しい。でも止まれない。
どこかで爆発音が聞こえた。




