第2話 夜行
深夜二時。
病室の天井は、薄暗い非常灯に照らされて、ぼんやりと白く浮かんでいた。
瀧本勝幸は、その天井を見つめていた。
眠れない。三日間、ほとんど眠れていない。目を閉じると、スヨンの顔が浮かぶ。白いドレス。赤い血。崩れ落ちる体。何度も、何度も。
起き上がろうとした。全身が悲鳴を上げた。肋骨が軋み、腹部の傷が引き攣り、左目の奥が鈍く痛んだ。
構わなかった。
点滴の針を抜いた。腕から血が滲んだ。それも構わなかった。
ベッドの縁に足を下ろす。冷たいリノリウムの床が、素足に触れた。立ち上がろうとして、膝が震えた。壁に手をついて、やっと体を支えた。
三日間、ほとんど食べていない。体重が落ちている。筋力も落ちている。
それでも、立った。
廊下は静まり返っていた。非常灯の緑色の光が、長い廊下を照らしている。看護師の姿はない。巡回の隙間だった。
瀧本は壁伝いに歩いた。一歩ごとに、傷口が痛んだ。それでも足を止めなかった。
非常階段のドアを押し開けた。冷たい空気が顔を打った。コンクリートの階段を、一段ずつ下りていく。手すりを握る指が、白くなるほど力が入っていた。
本部の入口で、深夜勤務の警備員が目を丸くした。
「瀧本さん!? なぜここに——」
「装備を取りに来た」
「でも、入院中で——」
「知ってる」
瀧本は警備員の横を通り過ぎた。警備員は何か言おうとして、口を閉じた。瀧本の目を見たからだ。右目だけが光っている。左目は包帯で覆われている。その右目に、何を言っても無駄だという光があった。
ロッカールームの蛍光灯が、チカチカと点滅した。
瀧本は自分のロッカーを開けた。中には、白い装備が並んでいる。
白いBDUジャケット。白いBDUパンツ。白いプレートキャリア。
一つずつ、身につけていった。ジャケットの袖を通すだけで、肩が痛んだ。プレートキャリアの重みが、傷だらけの体にのしかかった。
それでも、着た。
黒い眼帯を手に取った。包帯を外し、眼帯をつけた。左目は何も見えない。もう二度と、見えることはない。
ホルスターを腰に巻いた。M93Rを手に取った。局長からもらった銃。何度も命を救ってくれた銃。ホルスターに差し込んだ。
鏡を見た。
右目だけが、鏡の中から自分を見つめ返していた。
頬がこけている。目の下に深い隈がある。唇は乾いてひび割れている。三日間、ほとんど食べず、眠らず、泣き続けた男の顔だった。
「......ひでえ面だ」
呟いて、鏡から目を逸らした。
駐車場に出た。
いつもなら、ここに愛車が停まっている。白いBMW R1250 GS Adventure。十五年間、バイクに乗り続けてきた。神奈川県警の白バイ隊員として。そして、突撃隊の隊員として。
だが、そこには何もなかった。
愛車は、三日前のヘリ墜落で炎上した。灰になった。
瀧本は、空っぽの駐車スペースを見つめた。
「......歩くか」
呟いて、夜の街に歩き出した。
深夜のバンコクは、眠っていなかった。
スクンビット通りを外れた裏道。屋台の明かりがまだ灯っている。鉄板の上で麺が焼ける音。油の匂い。酔っ払いの笑い声。どこかの店からタイポップスが流れている。
瀧本は、その中をゆっくりと歩いていた。
白いBDU。白いプレートキャリア。黒い眼帯。
異様な姿だった。深夜の街を、完全武装の男が歩いている。すれ違う人々が、瀧本を見て目を逸らした。怯えた顔をする者もいた。
瀧本は気にしなかった。
足が重い。一歩ごとに、傷口が痛む。汗が額を伝って流れ落ちる。体が悲鳴を上げている。
それでも、歩いた。
頭の中は、空っぽだった。
いや、空っぽではなかった。スヨンの顔が、何度も浮かんでは消えた。
笑っているスヨン。怒っているスヨン。照れているスヨン。
そして、白いドレスを赤く染めて、崩れ落ちるスヨン。
『守る』
俺は、そう言ってきた。
守るために戦う。守るために撃たれる。守るために走る。
18発撃たれても、子供を守った。
2発撃たれても、国王を守った。
何度撃たれても、誰かを守ってきた。
でも——
スヨンを、守れなかった。
走った。撃たれても走った。倒れても這った。スヨンの手を握った。
でも、守れなかった。
スヨンは、俺の目の前で死んだ。
じゃあ、俺は——
何のために、ここにいるんだ。
路地裏に入った。
街灯が少なく、暗かった。ゴミ箱から腐った匂いがする。野良犬が、瀧本を見て逃げていった。
その時、声が聞こえた。
「金を出せ」
「ない......ないんだ......」
「嘘つくな、このクソジジイ」
路地の奥。
三人の若い男が、一人の老人を囲んでいた。
老人はボロボロの服を着ていた。髪は伸び放題で、顔は垢で汚れている。路上生活者だった。年齢は六十代か、七十代か。痩せこけた体が、コンクリートの壁に押し付けられていた。
「ホームレスのくせに、金持ってるだろ」
「ない......本当に......」
「うるせえ」
男の一人が、老人の腹を蹴った。老人が呻いて、地面に崩れ落ちた。
瀧本の体が、動いていた。
考える前に。
思い出す前に。
何かを決める前に。
体が、勝手に動いていた。
足が路地を駆けていた。傷口が痛んだ。構わなかった。
老人と男たちの間に、立っていた。
「やめろ」
声が出ていた。
男たちが振り向いた。暗がりの中で、白い服が浮かび上がっている。黒い眼帯。傷だらけの顔。
「なんだ、お前」
「突撃隊だ」
「......は?」
男たちは顔を見合わせた。酔っているようだった。二十代か。Tシャツにジーンズ。どこにでもいる若者だ。
「突撃隊? あの、テレビの——」
「ああ。あの、だ」
瀧本は一歩前に出た。
「この爺さんから離れろ」
男たちは、瀧本を見た。
片目。傷だらけの顔。だが、その目が違った。
底が抜けたような目。それでいて、燃えているような目。何を言っても、誰が立ちはだかっても、止まらない目。
「選べ」
瀧本は言った。
「今すぐ消えるか、俺に殴られるか」
沈黙。
数秒。
「......行くぞ」
男の一人が、仲間の腕を引っ張った。
「おい、待て——」
「行くって言ってんだろ。あの目、見たか。マジでやべえよ」
三人は、路地の奥に逃げていった。
老人が、地面に座り込んでいた。
腹を押さえている。顔を歪めている。
瀧本はしゃがみ込んだ。
「大丈夫か」
「あ、ありがとう......」
声が震えていた。目に涙が浮かんでいた。
「怪我は。腹、蹴られてたな」
「大丈夫......大丈夫です......」
「本当か」
「本当......こんなの、慣れてる......」
瀧本は、老人の顔を見た。
深い皺。欠けた歯。だが、目は澄んでいた。苦しみを知っている目。それでも、生きている目。
「......あんた、本当に突撃隊か」
「ああ」
「なんで、こんな路地裏に......」
「歩いてた」
「歩いてた?」
「ああ。歩いてたら、声が聞こえた。だから来た」
老人は、瀧本を見上げた。
「......変わった人だな」
「よく言われる」
瀧本は立ち上がった。
何かが、胸の奥で動いていた。
これだ。
俺は、これをやってきた。
考える前に動く。
理由なんかない。
ただ、目の前の誰かを守る。
それが、俺だ。
深夜四時。
歓楽街の外れ。ネオンの光が薄くなり、街灯も少なくなった。
瀧本は歩き続けていた。体は限界に近かった。足が重い。視界がぼやける。傷口から、じわりと血が滲んでいる。
その時、悲鳴が聞こえた。
女の声だった。
瀧本は走っていた。
体が悲鳴を上げた。傷口が開いた。血が白いBDUを染めた。
構わなかった。
路地の奥。
若い女が、男に壁に押し付けられていた。
女は派手な服を着ていた。化粧が崩れている。泣いている。男はスーツを着ていた。酔っている。
「やめて......やめてよ......!」
「うるせえ。金払ったんだよ」
瀧本は、男の腕を掴んだ。
捻り上げた。
壁に叩きつけた。
「消えろ」
低い声だった。
男は、瀧本の顔を見た。片目。黒い眼帯。傷だらけの顔。そして、血が滲んだ白い服。
男の顔が、青ざめた。
「な、なんだよ、お前——」
「消えろって言ってる」
瀧本は男の襟を掴んで、路地の外に放り出した。男は転がって、そのまま逃げ出した。
女は、壁にもたれて座り込んでいた。
化粧が涙で崩れている。肩が震えている。
「大丈夫か」
「......」
「怪我は」
「......ない」
女は、瀧本を見上げた。二十代半ばか。目の下に隈がある。疲れ切った顔だった。
「あんた、誰」
「通りすがりだ」
「通りすがり......?」
「ああ。たまたま通りかかった」
瀧本は、また歩き始めた。
「待って」
女が呼び止めた。
「なんで助けたの」
瀧本は振り向いた。
女の目を見た。怯えと、戸惑いと、わずかな希望が混じった目。
「......さあな」
少し考えた。
「体が勝手に動いた。それだけだ」
夜明け前。
建設現場の近く。高架道路の下。
瀧本は足を引きずりながら歩いていた。体は限界だった。視界が霞む。足がもつれる。
その時、声が聞こえた。外国語だった。ミャンマー語か、ベトナム語か。
高架下の空き地。
作業服を着た男たちが、スーツの男と言い争っていた。
「約束が違う! 給料が半分しかない!」
「契約書に書いてある」
「タイ語が読めないのを分かっていて、サインさせたんだろう!」
「それはお前らの問題だ。文句があるなら国に帰れ」
「帰る金もないんだ! あんたたちが全部取ったから!」
瀧本は、近づいた。
「何があった」
全員が振り向いた。
スーツの男が眉をひそめた。
「関係ないだろう。労働問題だ。警察の管轄じゃない」
「俺は警察じゃない」
「じゃあ、なんだ」
「突撃隊だ」
スーツの男の顔色が変わった。
「俺に関係あるかどうかは」
瀧本は一歩近づいた。
「俺が決める」
労働者たちは、瀧本に訴えた。
ミャンマーから来た。仲介業者に、「タイで働けば月五万バーツ稼げる」と言われた。
実際は、一万五千バーツしかもらえない。宿泊費、食費、仲介手数料を引かれて、手元に残るのは五千バーツ以下。
渡航費用として十万バーツ借りている。返すまで帰れないと言われている。
瀧本は、スーツの男を見た。
「事実か」
「......」
「答えろ」
「......事実だ。だが、違法じゃない。契約書にサインしている」
「読めない契約書に、サインさせた」
「それは——」
瀧本は、一歩近づいた。
スーツの男が後ずさった。
「俺は、この現場を覚えた」
「......」
「お前の顔も覚えた」
「......」
「定期的に見に来る。改善されてなかったら——」
瀧本は、首を傾げた。
「まあ、その時はその時だ」
スーツの男の顔が、青ざめた。
労働者たちが、瀧本を見つめていた。
「あんた、なんでこんなことを」
瀧本は、少し考えた。
東の空が、白み始めていた。夜が明けようとしている。
「......さあな」
瀧本は、空を見上げた。
薄紫色の空。星が消えかけている。
「体が勝手に動いた。それだけだ」
夜明け。
チャオプラヤー川。ピンクラオ橋の上。
瀧本は、欄干にもたれていた。
体は限界だった。足が震えている。傷口から血が滲んでいる。視界がぼやける。
だが、立っていた。
川面が、オレンジ色に染まっていく。朝日が、水平線から顔を出し始めていた。
船が一艘、川を下っていく。エンジンの音が、静かな朝の空気に響いていた。
『守る』ってなんだ。
分からなくなっていた。
スヨンを守れなかったから。
でも、今夜、思い出した。
老人と暴漢の間に立った時。
女を襲う男を引き剥がした時。
搾取される労働者の前に立った時。
体が、勝手に動いていた。考える前に。理由を探す前に。
これだ。
俺は、これをやってきた。
子供の前に飛び出して、18発撃たれた。
国王の前に立ちはだかって、2発撃たれた。
何度撃たれても、誰かの前に立ち続けた。
自分の体を盾にして、誰かを守る。
それが、俺だ。
それが、俺のやり方だ。
スヨンを守れなかった。
それは、消えない。一生、消えない。
でも——
瀧本は、右手を見た。
まだ、少し震えていた。
「......止まらねえな」
呟いた。
「止まらねえけど、動ける」
川を見た。
朝日が、水面を金色に染めていた。どこかで鳥が鳴いている。新しい一日が、始まろうとしていた。
「スヨン」
呟いた。
「俺は、やっぱり止まれねえみたいだ」
スヨンなら、笑うだろう。
呆れた顔で、笑うだろう。
『知ってる』と言うだろう。
『あなた、ずっとそうだったじゃない』と。
瀧本は、橋を渡り始めた。
足を引きずりながら。
血を滲ませながら。
でも、止まらずに。
本部に戻ろう。
そして、葬儀に出よう。
スヨンを、ちゃんと送ろう。
本部の入口で、局長が待っていた。
腕を組んで、壁にもたれている。夜通し待っていたような顔だった。
「瀧本」
「局長」
「病院から連絡があった。お前が消えた、と」
「すみません」
「何をしていた」
瀧本は、少し考えた。
「......散歩です」
「散歩」
「ええ。夜のバンコクを」
「怪我人が、夜通し散歩か」
「怪我人でも、歩けます」
局長は、瀧本を見た。
血が滲んだ白いBDU。疲労で蒼白な顔。足を引きずっている。
だが、目が違っていた。三日前の、底が抜けたような目ではなかった。
「何かあったか」
瀧本は、少し笑った。
三日ぶりに、笑った。
「思い出しました」
「何を」
「俺が、何をやってきたか」
局長は、黙っていた。
「俺は、守ります。これからも」
「......」
「体が勝手に動くんです。考える前に。理由なんかない」
「......」
「それが俺だって、思い出しました」
局長は、瀧本の肩に手を置いた。
「......馬鹿野郎」
「知ってます」
「怪我人が夜通し歩くな」
「すみません」
「すみませんじゃない」
「......でも、止まれないんです」
局長は、溜息をついた。
だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「知ってる」
瀧本は、本部の中に入っていった。
足を引きずりながら。
血を滲ませながら。
だが、倒れずに。




