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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第7章 再起
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第2話 夜行

 深夜二時。

 病室の天井は、薄暗い非常灯に照らされて、ぼんやりと白く浮かんでいた。

 瀧本勝幸は、その天井を見つめていた。

 眠れない。三日間、ほとんど眠れていない。目を閉じると、スヨンの顔が浮かぶ。白いドレス。赤い血。崩れ落ちる体。何度も、何度も。

 起き上がろうとした。全身が悲鳴を上げた。肋骨が軋み、腹部の傷が引き攣り、左目の奥が鈍く痛んだ。

 構わなかった。

 点滴の針を抜いた。腕から血が滲んだ。それも構わなかった。

 ベッドの縁に足を下ろす。冷たいリノリウムの床が、素足に触れた。立ち上がろうとして、膝が震えた。壁に手をついて、やっと体を支えた。

 三日間、ほとんど食べていない。体重が落ちている。筋力も落ちている。

 それでも、立った。

 廊下は静まり返っていた。非常灯の緑色の光が、長い廊下を照らしている。看護師の姿はない。巡回の隙間だった。

 瀧本は壁伝いに歩いた。一歩ごとに、傷口が痛んだ。それでも足を止めなかった。

 非常階段のドアを押し開けた。冷たい空気が顔を打った。コンクリートの階段を、一段ずつ下りていく。手すりを握る指が、白くなるほど力が入っていた。

 本部の入口で、深夜勤務の警備員が目を丸くした。

 「瀧本さん!? なぜここに——」

 「装備を取りに来た」

 「でも、入院中で——」

 「知ってる」

 瀧本は警備員の横を通り過ぎた。警備員は何か言おうとして、口を閉じた。瀧本の目を見たからだ。右目だけが光っている。左目は包帯で覆われている。その右目に、何を言っても無駄だという光があった。

 ロッカールームの蛍光灯が、チカチカと点滅した。

 瀧本は自分のロッカーを開けた。中には、白い装備が並んでいる。

 白いBDUジャケット。白いBDUパンツ。白いプレートキャリア。

 一つずつ、身につけていった。ジャケットの袖を通すだけで、肩が痛んだ。プレートキャリアの重みが、傷だらけの体にのしかかった。

 それでも、着た。

 黒い眼帯を手に取った。包帯を外し、眼帯をつけた。左目は何も見えない。もう二度と、見えることはない。

 ホルスターを腰に巻いた。M93Rを手に取った。局長からもらった銃。何度も命を救ってくれた銃。ホルスターに差し込んだ。

 鏡を見た。

 右目だけが、鏡の中から自分を見つめ返していた。

 頬がこけている。目の下に深い隈がある。唇は乾いてひび割れている。三日間、ほとんど食べず、眠らず、泣き続けた男の顔だった。

 「......ひでえ面だ」

 呟いて、鏡から目を逸らした。

 駐車場に出た。

 いつもなら、ここに愛車が停まっている。白いBMW R1250 GS Adventure。十五年間、バイクに乗り続けてきた。神奈川県警の白バイ隊員として。そして、突撃隊の隊員として。

 だが、そこには何もなかった。

 愛車は、三日前のヘリ墜落で炎上した。灰になった。

 瀧本は、空っぽの駐車スペースを見つめた。

 「......歩くか」

 呟いて、夜の街に歩き出した。

 深夜のバンコクは、眠っていなかった。

 スクンビット通りを外れた裏道。屋台の明かりがまだ灯っている。鉄板の上で麺が焼ける音。油の匂い。酔っ払いの笑い声。どこかの店からタイポップスが流れている。

 瀧本は、その中をゆっくりと歩いていた。

 白いBDU。白いプレートキャリア。黒い眼帯。

 異様な姿だった。深夜の街を、完全武装の男が歩いている。すれ違う人々が、瀧本を見て目を逸らした。怯えた顔をする者もいた。

 瀧本は気にしなかった。

 足が重い。一歩ごとに、傷口が痛む。汗が額を伝って流れ落ちる。体が悲鳴を上げている。

 それでも、歩いた。

 頭の中は、空っぽだった。

 いや、空っぽではなかった。スヨンの顔が、何度も浮かんでは消えた。

 笑っているスヨン。怒っているスヨン。照れているスヨン。

 そして、白いドレスを赤く染めて、崩れ落ちるスヨン。

 『守る』

 俺は、そう言ってきた。

 守るために戦う。守るために撃たれる。守るために走る。

 18発撃たれても、子供を守った。

 2発撃たれても、国王を守った。

 何度撃たれても、誰かを守ってきた。

 でも——

 スヨンを、守れなかった。

 走った。撃たれても走った。倒れても這った。スヨンの手を握った。

 でも、守れなかった。

 スヨンは、俺の目の前で死んだ。

 じゃあ、俺は——

 何のために、ここにいるんだ。

 路地裏に入った。

 街灯が少なく、暗かった。ゴミ箱から腐った匂いがする。野良犬が、瀧本を見て逃げていった。

 その時、声が聞こえた。

 「金を出せ」

 「ない......ないんだ......」

 「嘘つくな、このクソジジイ」

 路地の奥。

 三人の若い男が、一人の老人を囲んでいた。

 老人はボロボロの服を着ていた。髪は伸び放題で、顔は垢で汚れている。路上生活者だった。年齢は六十代か、七十代か。痩せこけた体が、コンクリートの壁に押し付けられていた。

 「ホームレスのくせに、金持ってるだろ」

 「ない......本当に......」

 「うるせえ」

 男の一人が、老人の腹を蹴った。老人が呻いて、地面に崩れ落ちた。

 瀧本の体が、動いていた。

 考える前に。

 思い出す前に。

 何かを決める前に。

 体が、勝手に動いていた。

 足が路地を駆けていた。傷口が痛んだ。構わなかった。

 老人と男たちの間に、立っていた。

 「やめろ」

 声が出ていた。

 男たちが振り向いた。暗がりの中で、白い服が浮かび上がっている。黒い眼帯。傷だらけの顔。

 「なんだ、お前」

 「突撃隊だ」

 「......は?」

 男たちは顔を見合わせた。酔っているようだった。二十代か。Tシャツにジーンズ。どこにでもいる若者だ。

 「突撃隊? あの、テレビの——」

 「ああ。あの、だ」

 瀧本は一歩前に出た。

 「この爺さんから離れろ」

 男たちは、瀧本を見た。

 片目。傷だらけの顔。だが、その目が違った。

 底が抜けたような目。それでいて、燃えているような目。何を言っても、誰が立ちはだかっても、止まらない目。

 「選べ」

 瀧本は言った。

 「今すぐ消えるか、俺に殴られるか」

 沈黙。

 数秒。

 「......行くぞ」

 男の一人が、仲間の腕を引っ張った。

 「おい、待て——」

 「行くって言ってんだろ。あの目、見たか。マジでやべえよ」

 三人は、路地の奥に逃げていった。

 老人が、地面に座り込んでいた。

 腹を押さえている。顔を歪めている。

 瀧本はしゃがみ込んだ。

 「大丈夫か」

 「あ、ありがとう......」

 声が震えていた。目に涙が浮かんでいた。

 「怪我は。腹、蹴られてたな」

 「大丈夫......大丈夫です......」

 「本当か」

 「本当......こんなの、慣れてる......」

 瀧本は、老人の顔を見た。

 深い皺。欠けた歯。だが、目は澄んでいた。苦しみを知っている目。それでも、生きている目。

 「......あんた、本当に突撃隊か」

 「ああ」

 「なんで、こんな路地裏に......」

 「歩いてた」

 「歩いてた?」

 「ああ。歩いてたら、声が聞こえた。だから来た」

 老人は、瀧本を見上げた。

 「......変わった人だな」

 「よく言われる」

 瀧本は立ち上がった。

 何かが、胸の奥で動いていた。

 これだ。

 俺は、これをやってきた。

 考える前に動く。

 理由なんかない。

 ただ、目の前の誰かを守る。

 それが、俺だ。

 深夜四時。

 歓楽街の外れ。ネオンの光が薄くなり、街灯も少なくなった。

 瀧本は歩き続けていた。体は限界に近かった。足が重い。視界がぼやける。傷口から、じわりと血が滲んでいる。

 その時、悲鳴が聞こえた。

 女の声だった。

 瀧本は走っていた。

 体が悲鳴を上げた。傷口が開いた。血が白いBDUを染めた。

 構わなかった。

 路地の奥。

 若い女が、男に壁に押し付けられていた。

 女は派手な服を着ていた。化粧が崩れている。泣いている。男はスーツを着ていた。酔っている。

 「やめて......やめてよ......!」

 「うるせえ。金払ったんだよ」

 瀧本は、男の腕を掴んだ。

 捻り上げた。

 壁に叩きつけた。

 「消えろ」

 低い声だった。

 男は、瀧本の顔を見た。片目。黒い眼帯。傷だらけの顔。そして、血が滲んだ白い服。

 男の顔が、青ざめた。

 「な、なんだよ、お前——」

 「消えろって言ってる」

 瀧本は男の襟を掴んで、路地の外に放り出した。男は転がって、そのまま逃げ出した。

 女は、壁にもたれて座り込んでいた。

 化粧が涙で崩れている。肩が震えている。

 「大丈夫か」

 「......」

 「怪我は」

 「......ない」

 女は、瀧本を見上げた。二十代半ばか。目の下に隈がある。疲れ切った顔だった。

 「あんた、誰」

 「通りすがりだ」

 「通りすがり......?」

 「ああ。たまたま通りかかった」

 瀧本は、また歩き始めた。

 「待って」

 女が呼び止めた。

 「なんで助けたの」

 瀧本は振り向いた。

 女の目を見た。怯えと、戸惑いと、わずかな希望が混じった目。

 「......さあな」

 少し考えた。

 「体が勝手に動いた。それだけだ」

 夜明け前。

 建設現場の近く。高架道路の下。

 瀧本は足を引きずりながら歩いていた。体は限界だった。視界が霞む。足がもつれる。

 その時、声が聞こえた。外国語だった。ミャンマー語か、ベトナム語か。

 高架下の空き地。

 作業服を着た男たちが、スーツの男と言い争っていた。

 「約束が違う! 給料が半分しかない!」

 「契約書に書いてある」

 「タイ語が読めないのを分かっていて、サインさせたんだろう!」

 「それはお前らの問題だ。文句があるなら国に帰れ」

 「帰る金もないんだ! あんたたちが全部取ったから!」

 瀧本は、近づいた。

 「何があった」

 全員が振り向いた。

 スーツの男が眉をひそめた。

 「関係ないだろう。労働問題だ。警察の管轄じゃない」

 「俺は警察じゃない」

 「じゃあ、なんだ」

 「突撃隊だ」

 スーツの男の顔色が変わった。

 「俺に関係あるかどうかは」

 瀧本は一歩近づいた。

 「俺が決める」

 労働者たちは、瀧本に訴えた。

 ミャンマーから来た。仲介業者に、「タイで働けば月五万バーツ稼げる」と言われた。

 実際は、一万五千バーツしかもらえない。宿泊費、食費、仲介手数料を引かれて、手元に残るのは五千バーツ以下。

 渡航費用として十万バーツ借りている。返すまで帰れないと言われている。

 瀧本は、スーツの男を見た。

 「事実か」

 「......」

 「答えろ」

 「......事実だ。だが、違法じゃない。契約書にサインしている」

 「読めない契約書に、サインさせた」

 「それは——」

 瀧本は、一歩近づいた。

 スーツの男が後ずさった。

 「俺は、この現場を覚えた」

 「......」

 「お前の顔も覚えた」

 「......」

 「定期的に見に来る。改善されてなかったら——」

 瀧本は、首を傾げた。

 「まあ、その時はその時だ」

 スーツの男の顔が、青ざめた。

 労働者たちが、瀧本を見つめていた。

 「あんた、なんでこんなことを」

 瀧本は、少し考えた。

 東の空が、白み始めていた。夜が明けようとしている。

 「......さあな」

 瀧本は、空を見上げた。

 薄紫色の空。星が消えかけている。

 「体が勝手に動いた。それだけだ」

 夜明け。

 チャオプラヤー川。ピンクラオ橋の上。

 瀧本は、欄干にもたれていた。

 体は限界だった。足が震えている。傷口から血が滲んでいる。視界がぼやける。

 だが、立っていた。

 川面が、オレンジ色に染まっていく。朝日が、水平線から顔を出し始めていた。

 船が一艘、川を下っていく。エンジンの音が、静かな朝の空気に響いていた。

 『守る』ってなんだ。

 分からなくなっていた。

 スヨンを守れなかったから。

 でも、今夜、思い出した。

 老人と暴漢の間に立った時。

 女を襲う男を引き剥がした時。

 搾取される労働者の前に立った時。

 体が、勝手に動いていた。考える前に。理由を探す前に。

 これだ。

 俺は、これをやってきた。

 子供の前に飛び出して、18発撃たれた。

 国王の前に立ちはだかって、2発撃たれた。

 何度撃たれても、誰かの前に立ち続けた。

 自分の体を盾にして、誰かを守る。

 それが、俺だ。

 それが、俺のやり方だ。

 スヨンを守れなかった。

 それは、消えない。一生、消えない。

 でも——

 瀧本は、右手を見た。

 まだ、少し震えていた。

 「......止まらねえな」

 呟いた。

 「止まらねえけど、動ける」

 川を見た。

 朝日が、水面を金色に染めていた。どこかで鳥が鳴いている。新しい一日が、始まろうとしていた。

 「スヨン」

 呟いた。

 「俺は、やっぱり止まれねえみたいだ」

 スヨンなら、笑うだろう。

 呆れた顔で、笑うだろう。

 『知ってる』と言うだろう。

 『あなた、ずっとそうだったじゃない』と。

 瀧本は、橋を渡り始めた。

 足を引きずりながら。

 血を滲ませながら。

 でも、止まらずに。

 本部に戻ろう。

 そして、葬儀に出よう。

 スヨンを、ちゃんと送ろう。

 本部の入口で、局長が待っていた。

 腕を組んで、壁にもたれている。夜通し待っていたような顔だった。

 「瀧本」

 「局長」

 「病院から連絡があった。お前が消えた、と」

 「すみません」

 「何をしていた」

 瀧本は、少し考えた。

 「......散歩です」

 「散歩」

 「ええ。夜のバンコクを」

 「怪我人が、夜通し散歩か」

 「怪我人でも、歩けます」

 局長は、瀧本を見た。

 血が滲んだ白いBDU。疲労で蒼白な顔。足を引きずっている。

 だが、目が違っていた。三日前の、底が抜けたような目ではなかった。

 「何かあったか」

 瀧本は、少し笑った。

 三日ぶりに、笑った。

 「思い出しました」

 「何を」

 「俺が、何をやってきたか」

 局長は、黙っていた。

 「俺は、守ります。これからも」

 「......」

 「体が勝手に動くんです。考える前に。理由なんかない」

 「......」

 「それが俺だって、思い出しました」

 局長は、瀧本の肩に手を置いた。

 「......馬鹿野郎」

 「知ってます」

 「怪我人が夜通し歩くな」

 「すみません」

 「すみませんじゃない」

 「......でも、止まれないんです」

 局長は、溜息をついた。

 だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。

 「知ってる」

 瀧本は、本部の中に入っていった。

 足を引きずりながら。

 血を滲ませながら。

 だが、倒れずに。

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