第1話 後始末
結婚式襲撃事件から、三日が経った。
バンコク。王室犯罪対策局本部。
局長室。
局長は、机の上に積まれた書類を見つめていた。
報告書。損害リスト。死傷者名簿。メディア対応記録。外交文書。
三日で、これだけ溜まった。
窓の外は、晴れていた。
皮肉なほどに、良い天気だった。
「局長」
ドアがノックされた。
「入れ」
ハーパーが入ってきた。参謀室の筆頭。
その後ろに、ルノーとミュラーが続いた。
三人とも、顔色が悪かった。
この三日間、ほとんど眠っていない。局長も同じだった。
「会議を始めます」
ハーパーが言った。
「まず、被害状況の最終確認から」
会議室。
ホワイトボードには、数字が並んでいた。
『結婚式襲撃事件 被害状況』
『敵戦力:43名』
『無力化:43名(全滅)』
『味方負傷者:7名』
『 軽傷:4名(復帰済み)』
『 中傷:2名(全治1〜2ヶ月)』
『 重傷:1名(瀧本勝幸・ICU)』
『死亡:1名』
『 キム・スヨン(通信担当・アルファチーム)』
『物的損害』
『 式場:全壊』
『 車両:3台損傷』
『 航空機:UH-1H 1機(緊急修理中)』
『 バイク:BMW R1250 GS Adventure 1台(全損・焼失)』
局長は、その数字を見つめた。
「瀧本のバイクは、全損か」
「はい。ヘリの墜落時に巻き込まれて、炎上しました」
ミュラーが答えた。
「修理は不可能です」
局長は、小さく息を吐いた。
あのバイクは、瀧本の象徴だった。白バイ。何度も戦場を駆け抜けた相棒。
それが、灰になった。
「代わりのバイクは」
「手配中です。同型のR1250 GS Adventureを発注しました」
「納期は」
「三週間です」
「遅い」
「申し訳ありません。白塗装の特注なので」
局長は頷いた。
三週間。瀧本がベッドから起き上がれるようになる頃には、届くだろう。
届かなければ、意味がない。
「次に、組織の状況です」
ハーパーがファイルを開いた。
「現在の突撃隊、稼働人員は以下の通りです」
『アルファチーム:6名稼働可能』
『 ジョンソン、マルティネス(軽傷)、アブドゥル、ピーター、陳志明、新隊員5名』
『 瀧本(ICU)、ヨナタン(全治2ヶ月)、スヨン(死亡)は除外』
『ブラボーチーム:5名稼働可能』
『 ニコライ(軽傷)、サラ(軽傷)、アレクセイ(軽傷)、ンゴマ、ジェームズ、新隊員4名』
『参謀室:3名』
『 ハーパー、ルノー、ミュラー』
『支援班:5名』
『 レイチェル、ナターシャ、ラッタナー、ナリン、ファリダ』
「合計、戦闘要員18名。支援要員8名」
ハーパーは言った。
「ただし、精神的なダメージは全員にあります」
局長は腕を組んだ。
「当然だ」
「はい」
「スヨンが死んだ。瀧本が倒れた。結婚式が血の海になった」
「......」
「誰だって、傷つく」
ルノーが口を開いた。
「局長、一つ提案があります」
「何だ」
「全員に、一週間の休暇を与えてはどうでしょうか」
「休暇?」
「はい。スヨンの葬儀の後、一週間。心身を休める時間を」
局長は、しばらく考えた。
「却下だ」
「なぜですか」
「休んでも、傷は癒えない」
「......」
「むしろ、何もしない時間が、傷を深くする」
局長は立ち上がった。窓に向かって歩いた。
「葬儀の後、通常任務に戻す」
「しかし......」
「ただし、大規模作戦は当面なし。日常的なパトロール、書類仕事、訓練。体を動かすことで、心を保つ」
「......」
「何もしないより、動いていた方がいい。それは、俺が一番よく知っている」
ハーパーとルノーは、顔を見合わせた。
ミュラーは、黙ってメモを取っていた。
「了解しました」
ハーパーが言った。
「葬儀後、通常任務を再開します」
「次の議題です」
ハーパーが続けた。
「王宮への報告」
局長は振り向いた。
「陛下には、すでに報告した」
「はい。ただ、正式な書面での報告が必要です」
「分かっている」
「それと......」
ハーパーは、少し言いづらそうにした。
「陛下から、伝言があります」
「伝言?」
「『瀧本勝幸に、見舞いに行きたい』と」
局長は、目を見開いた。
「陛下が、直接?」
「はい」
「病院に?」
「はい」
「......」
局長は、天井を見上げた。
「陛下は、本当に瀧本を気に入っているな」
「そのようです」
「見舞いの日程は」
「明後日。葬儀の後です」
「分かった。手配しろ」
「了解しました」
「最後の議題です」
ハーパーが言った。
「瀧本の今後について」
局長は、椅子に座り直した。
「瀧本は、どうなる」
「医師の見解では、身体的には回復可能です」
「どのくらいで」
「全治三ヶ月。ただし、左目の視力は戻りません」
「分かっている」
「リハビリを経て、戦闘任務に復帰できる可能性はあります」
「可能性、か」
ルノーが口を挟んだ。
「問題は、精神面です」
「......」
「スヨンを失った。目の前で、殺された。その傷は、三ヶ月では癒えません」
「......」
「最悪の場合、瀧本は復帰できないかもしれません」
局長は、黙っていた。
しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「瀧本は、復帰する」
「何を根拠に」
「あいつは、そういう男だ」
「......」
「スヨンを失っても、左目を失っても、立ち上がる。立ち上がらずにいられない」
「......」
「それが、あいつの業だ」
ミュラーがメモを取る手を止めた。
「業、ですか」
「ああ。柏木は、認められたくて壊れた。瀧本は、守りたくて戦う。根っこが違う」
「......」
「瀧本は、守れなかったことを悔いている。だが、それで終わらない」
「......」
「あいつは、次を守ろうとする。同じ悲劇を、繰り返させまいとする」
局長は、窓の外を見た。
「問題は、それまでの時間だ」
「時間?」
「立ち上がるまでの時間。その間、あいつが壊れないようにすること」
「どうすれば」
「......分からん」
局長は、正直に言った。
「俺にも、分からん。ただ、傍にいることしかできん」
「......」
「手を握ることしか、できん」
会議は、終わった。
ハーパー、ルノー、ミュラーが退室した後、局長は一人で残った。
机の上の書類を見つめた。
死傷者名簿。その一番上に、キム・スヨンの名前があった。
「スヨン......」
局長は、呟いた。
「お前は、いい隊員だった。いい女だった。瀧本を、幸せにしてくれた」
窓の外で、鳥が鳴いていた。
「葬儀は、明後日だ。ちゃんと、送ってやる」
同じ頃。
病院。ICU。
瀧本勝幸は、天井を見つめていた。
右目だけが、世界を映していた。
左目は、包帯に覆われている。光を感じることすら、できない。
体は、まだ動かなかった。
動かそうとすると、全身に激痛が走る。
だから、天井を見つめるしかなかった。
「スヨン......」
呟いた。
返事は、なかった。
もう、永遠に返事はない。
右手が、シーツを握り締めた。
指が震えていた。
「俺は......」
言葉が、続かなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
何を考えればいいのか、分からなかった。
ただ、天井を見つめていた。
白い天井。
何も映らない天井。
スヨンの笑顔が、浮かんでは消えた。
スヨンの声が、聞こえては消えた。
「前を向いて、生きて」
夢の中で、スヨンはそう言った。
前を向く。
生きる。
分かっている。
分かっているのに、体が動かない。
心が、動かない。
「俺は......」
また、言葉が止まった。
涙が、右目から流れた。
枕が、濡れていく。
声を出さずに、瀧本は泣いていた。
廊下の向こうで、看護師が医師と話していた。
「瀧本さん、今日も何も食べていません」
「点滴は」
「続けています。でも、このままでは......」
「精神的なケアが必要だ。心療内科に連絡を」
「了解しました」
瀧本は、その会話を聞いていた。
聞こえていた。
だが、どうでもよかった。
食べる気力がなかった。
生きる気力が、分からなかった。
「生きる」と言った。
「前を向く」と言った。
だが、どうやって。
分からなかった。
その時。
ドアが開いた。
「瀧本」
声がした。
局長の声だった。
瀧本は、首を動かそうとした。痛みが走った。だが、少しだけ動かせた。
視界の端に、局長の姿が見えた。
「......局長」
「来たぞ」
「......」
「何もしに来たわけじゃない。ただ、顔を見に来た」
局長は、ベッドの横の椅子に座った。
「食ってないらしいな」
「......食欲がない」
「そうか」
「......」
「無理に食えとは言わん」
局長は、窓の外を見た。
「明後日、スヨンの葬儀だ」
「......ああ」
「出るんだろう」
「出る」
「そうか」
沈黙が流れた。
「局長」
「何だ」
「俺は......」
瀧本の声が、震えた。
「俺は、生きると言った。前を向くと言った」
「......」
「でも、どうすればいいか、分からない」
「......」
「体が動かない。心が動かない。何も、分からない」
局長は、瀧本を見た。
「分からなくていい」
「......」
「今は、分からなくていい」
「......」
「分かるまで、待てばいい」
瀧本は、天井を見つめた。
「待つ、か」
「ああ。焦るな。急ぐな」
「......」
「お前は、もう十分戦った。十分走った。十分傷ついた」
「......」
「今は、休め。それだけでいい」
瀧本の右目から、また涙が流れた。
「俺は......弱いな」
「弱くない」
「弱い。こんなに、弱い」
「弱くない」
局長は、瀧本の手を握った。
「お前は、強い。強すぎる」
「......」
「だから、弱くなることを恐れている」
「......」
「でも、弱くなっていいんだ。泣いていいんだ。動けなくていいんだ」
「......」
「それでも、お前は瀧本勝幸だ。俺の部下だ。タイの騎士だ」
瀧本は、声を殺して泣いた。
局長は、何も言わずに手を握り続けた。
窓の外で、日が傾き始めていた。
オレンジ色の光が、病室に差し込んでいた。




