最終話
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バンコク。王立病院。
集中治療室の前の廊下は、静まり返っていた。
隊員たちが、そこにいた。椅子に座っている者。壁にもたれている者。床に座り込んでいる者。誰も言葉を発しない。発する言葉がなかった。
蛍光灯の白い光が、彼らの顔を照らしていた。疲弊した顔。憔悴した顔。何かが壊れかけている顔。
結婚式の襲撃から、十二時間が経っていた。
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ガラス越しに、瀧本の姿が見えた。
ベッドに横たわり、全身に管が繋がれている。人工呼吸器が胸を上下させ、心電図が波形を描き続けている。点滴のチューブが何本も垂れ下がり、モニターの数字が明滅している。
三日前、十二発の銃弾を受けて昏睡状態に陥った体。その体で病院を抜け出し、戦場に向かい、さらに八発の銃弾を受けた。ヘリから飛び降り、肋骨を三本折った。左目は弾丸に貫かれ、二度と光を映さない。
医師は首を振りながら言った。
「医学的には、死んでいるはずです」
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ジョンソンは、窓の外を見つめていた。
バンコクの夜が、ゆっくりと明けようとしている。東の空が、かすかに白んできた。
あの男が病院を抜け出した時、自分は何をしていたのか。
装備を整えている姿を見た。白いBDUを着る姿を見た。眼帯をつけ、ホルスターにM93Rを差し込む姿を見た。白いマフラーを首に巻く姿を見た。
止めなかった。
止められなかった、のではない。止めなかった。
あの目を見たからだ。スヨンを殺された男の目。底が抜けたような、それでいて燃えているような、矛盾した光を宿した目。何を言っても、誰が立ちはだかっても、止まらない目。
止める権利が、自分にあるとは思えなかった。
だが、それは言い訳だ。
「俺は......」
ジョンソンは呟いた。声が掠れていた。
「俺は、総隊長代理だ。あいつを止める義務があった」
誰も、答えなかった。
答えられる者は、いなかった。
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ニコライは、椅子に座ったまま、微動だにしなかった。
両手で杖を握り締め、その先端を床に押し付けている。指の関節が、白くなるほど強く。
結婚式の時、自分は陛下を守っていた。
それは正しい判断だった。王室騎士として、陛下を守ることは最優先だ。瀧本もそう判断したはずだ。だから、自分たちに陛下を任せて、スヨンを追った。
だが。
瀧本がスヨンを追って走り出した時、自分は動けなかった。陛下の護衛を離れることができなかった。仲間が走り去るのを、見送ることしかできなかった。
正しかったのか。
陛下は無事だった。だが、スヨンは死んだ。
正しさとは、何なのか。
任務を果たすこととは、何なのか。
ニコライには、分からなくなっていた。分からないまま、ここに座っている。杖を握り締めて。答えの出ない問いを、頭の中で繰り返しながら。
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マルティネスは、壁に背を預けていた。
右足の傷が痛む。聖域作戦での傷。まだ完治していない。だが、そんなものは些細なことだった。今、感じている痛みに比べれば。
瀧本とは、何度も一緒に死線をくぐってきた。
撃たれて倒れた時、瀧本が駆けつけてくれた。意識が遠のく中、瀧本の声が聞こえた。「死ぬな」と。「まだ死ぬな」と。
今度は自分が助ける番だった。
なのに、何もできなかった。
瀧本がヘリに飛び乗った時、自分は地上にいた。見上げることしかできなかった。瀧本がヘリから落ちた時、走ることすらできなかった。足が、動かなかった。
「俺たちは、いつも一歩遅い」
マルティネスは呟いた。
「柏木が壊れた時も。藤原が撃たれた時も。スヨンが殺された時も」
一歩。たった一歩。
その一歩が、いつも届かない。
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陳志明は、廊下の端に立っていた。
壁にもたれることもなく、椅子に座ることもなく、ただ立っていた。腕を組み、ガラス越しに瀧本を見つめている。
その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
泣いていない。怒っていない。震えてもいない。ただ、静かに、瀧本を見つめている。
「陳」
アブドゥルが声をかけた。
「大丈夫か」
「大丈夫だ」
陳の声は、平坦だった。
「負傷者は瀧本を含めて七名。うち重体は瀧本のみ。敵は四十三名中四十三名を無力化。作戦としては成功だ」
「......」
「陛下も無事だった。護衛任務は達成された」
「陳......」
「スヨンの死亡は、想定外の損害だ。だが、作戦全体の評価には影響しない」
アブドゥルは、何も言えなかった。
陳は、まだガラスを見つめていた。
その目は、乾いていた。何も映していないように見えた。
だが、腕を組んだその手が、わずかに白くなっていた。
爪が、自分の腕に食い込んでいた。
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サラは、壁にもたれて、天井を見つめていた。
目が赤かった。何度も泣いた。もう涙は出ない。涙を流す力すら、残っていなかった。
スヨンとは、よく話をした。女性隊員は少ない。自然と、二人で過ごす時間が増えた。
結婚式の準備を手伝った。ドレスを選ぶのを手伝った。髪型を一緒に考えた。ブーケの花を選んだ。席順を決めた。
「瀧本さんと結婚したら、子供は何人ほしい?」
そう聞いたことがある。
スヨンは、少し照れたように笑った。
「二人。男の子と、女の子」
「名前は決めてるの?」
「まだ。でも、瀧本さんと一緒に考えたい」
「きっといいお父さんになるわ」
「うん。不器用だけど、優しいから」
その夢は、もう叶わない。
スヨンは死んだ。白いドレスを赤く染めて。
もう、名前を一緒に考えることもない。
「私は......」
サラは呟いた。
「私は、あの子に『幸せになれる』と言った」
声が震えた。喉の奥が詰まった。
「嘘だった」
誰も、何も言わなかった。
嘘ではなかった、とは言えなかった。
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ヨナタンは、車椅子のまま、ガラス越しに瀧本を見つめていた。
マリーに撃たれた傷は、まだ癒えていない。右腕は動かない。歩くこともできない。車椅子がなければ、移動すらできない。
だが、瀧本は、そんな自分を百キロ担いで帰ってきた。
ラオスの山中を、四日間。自分を背負い、マリーを連れ、藤原を埋葬して。
あの時、瀧本は何も言わなかった。「重い」とも「辛い」とも言わなかった。ただ黙々と歩き続けた。汗を流し、血を流し、それでも歩き続けた。
三日目に瀧本が倒れた時、自分は何もできなかった。車椅子に座って、それを見ていただけだった。マリーが「立ちなさいよ」と言った。自分は、声を出すこともできなかった。
今も同じだ。
瀧本が戦っている時、自分は車椅子に座っていた。スヨンが撃たれた時、自分は何もできなかった。瀧本がヘリから落ちた時、自分は祈ることしかできなかった。
「俺は......」
ヨナタンは呟いた。
「俺は、いつも助けられる側だ」
その言葉は、自分自身を切り裂いた。
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新隊員たちは、廊下の端に固まっていた。
入隊してまだ一ヶ月も経っていない。訓練を終えて、実戦を経験して、そして今、ここにいる。
藤原を失った。マリーを処刑した。スヨンが殺された。瀧本が倒れた。
一ヶ月で、これだけの死と重傷を見た。
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黒田美咲は、床に座り込んでいた。
膝を抱えて、顔を埋めている。体が小刻みに震えていた。
藤原は、同じ日本人だった。言葉が通じる、唯一の先輩だった。
訓練中、何度も助けてもらった。射撃がうまくいかない時、「焦るな、一つずつやれ」と言ってくれた。タイ語が分からなくて困っている時、通訳してくれた。
「お前は、ここでやっていける」
そう言ってくれた。
その藤原が死んだ。ラオスで、マリーに撃たれて。
そして今、瀧本が倒れている。スヨンは死んだ。
「私は......」
黒田は呟いた。声が震えていた。
「私は、何のためにここに来たんだろう」
トンプソンが、黒田の隣にしゃがんだ。
「俺も分からない」
「トンプソンさん......」
「分からない。正直、今も分からない」
黒田は顔を上げた。涙で濡れた顔。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「分からない」
「分からないって......」
「分からないんだ。俺にも」
トンプソンは、床に座り込んだ。
「でも、逃げない。それだけは決めてる」
「それだけ?」
「それだけだ」
黒田は、また顔を膝に埋めた。
「私には......私には、それすら分からない......」
トンプソンは、何も言えなかった。
黒田の肩に手を置くことも、できなかった。
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廊下の隅。
ナリンは、一人で座っていた。
他の隊員たちから、少し離れた場所。壁に背をつけ、膝を抱えて、床を見つめている。
自分には、彼らの輪に入る資格がない。
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ナリンは、瀧本の元恋人だった。
だが、それだけではない。
柏木の反乱に参加した。瀧本を裏切った。仲間を裏切った。銃を向けた。
恩赦で復帰できたのは、瀧本が口添えしてくれたからだ。
「ナリンは、騙されていただけだ」
瀧本は、そう言ってくれた。
騙されていた。確かにそうかもしれない。柏木の言葉を信じた。柏木についていけば、正しい道に行けると思った。
だが、それは言い訳だ。
自分は、自分の意思で銃を取った。自分の意思で、瀧本に銃口を向けた。引き金を引く寸前まで、いった。
それは、消えない。一生、消えない。
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「ナリン」
ファリダが、隣に座った。
ファリダも、恩赦で復帰した一人だ。同じ罪を背負っている。
「何か、言いたいことがあるなら」
「ない」
ナリンの声は、平坦だった。感情が、どこかに消えていた。
「私に、言う資格はない」
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沈黙が流れた。
長い沈黙だった。
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「私は、瀧本さんを裏切った」
ナリンは、呟いた。
「瀧本さんは、それでも私を許してくれた。復帰させてくれた。『お前は騙されていただけだ』と言ってくれた」
「......」
「私が壊したものを、スヨンさんが直してくれた。瀧本さんを支えてくれた。笑わせてくれた。私には、できなかったことを」
「......」
「私は、スヨンさんに感謝していた。嫉妬もあった。でも、それ以上に、感謝していた。瀧本さんを、幸せにしてくれて」
声が震えた。
「私が裏切らなければ」
「ナリン......」
「私が柏木さんについていかなければ、瀧本さんはあんなに傷つかなかった。あんなに追い詰められなかった。もっと早く、スヨンさんと結婚できた。幸せになれた」
「それは......」
「私のせいだ」
ナリンの声は、震えながらも、はっきりしていた。
「全部、私のせいだ」
涙が、頬を伝った。
「私は、一生かけて償う。それしか、できない。それしか、ない」
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タイ全土が、悲しみに沈んでいた。
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王室結婚式襲撃事件。
国王陛下が臨席された結婚式が、テロリストに襲われた。陛下は無事だったが、新婦が死亡し、新郎が重体。
その報せは、瞬く間にタイ全土に広がった。
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バンコクの街角。
屋台の店主が、小さなテレビに見入っていた。客も、料理を忘れて画面を見つめている。
「かわいそうに......」
年配の女性が呟いた。
「結婚式だったんだろう。一番幸せな日だったはずなのに」
「瀧本さんは、助かるのかい」
「分からない。でも、あの人は強い。何度撃たれても、死ななかった」
「神様、どうか......」
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王宮前。
花束を持った人々が、集まっていた。
門の前に、花が積み上げられていく。白い花。黄色い花。ピンクの花。色とりどりの花が、王宮の門を埋め尽くしていく。
「瀧本さん、頑張って」
若い女性が、花束を置きながら呟いた。
「私たちは、あなたを忘れない」
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SNSは、炎上していた。
ハッシュタグがトレンドを席巻している。
『#PrayForTakimoto』
『#RIPSuyeon』
『#TakimotoIsOurHero』
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結婚式の映像が、流出していた。
誰かのスマートフォンで撮影されたものだ。画質は粗い。手ブレがひどい。だが、何が起きているかは分かる。
白いタキシードの男が、撃たれながらも、倒れた女に向かって走っている。
何度も撃たれる。倒れる。それでも、這いずって進む。
女の手を握る。
そして、動かなくなる。
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コメント欄は、溢れ返っていた。
『瀧本さん、お願い、死なないで』
『スヨンさん、安らかに』
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だが、全てが祈りではなかった。
『これが突撃隊の限界だ。身内すら守れない』
『英雄? 笑わせるな。ただの暴力集団だろ』
『自業自得。危険な仕事をしてるんだから、こうなるのは当然』
『瀧本は日本の犯罪者。タイで死んでも、日本は関係ない』
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炎上は、止まらなかった。
擁護する者。批判する者。祈る者。嘲笑う者。
人間の善と悪が、コメント欄で渦巻いていた。
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王宮からは、声明が発表された。
厳かな文面。一字一句、吟味された言葉。
『国王陛下は、瀧本勝幸氏の回復を心より祈念しておられます。また、キム・スヨン氏のご冥福をお祈り申し上げます。瀧本氏は、王室騎士として、陛下と国民を守るために戦いました。その勇気と献身を、陛下は決してお忘れになりません』
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タイ政府も声明を発表した。
『今回のテロ行為を、政府は強く非難します。犯人グループは、突撃隊によって全滅させられました。瀧本勝幸氏の治療費は、政府が全額負担します。また、キム・スヨン氏には、国家功労者の称号を追贈します』
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翌朝。
瀧本は、意識を取り戻した。
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最初に見えたのは、白い天井だった。
右目だけが、世界を映していた。左目は、何も見えない。永遠に、見えない。
体が痛い。どこが痛いのか分からないほど、全身が痛い。呼吸をするたびに、肋骨が軋む。
だが、生きている。
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「目が覚めたか」
声がした。
首を動かそうとした。激痛が走った。動かすのを諦めた。
視界の端に、局長の姿が見えた。椅子に座っている。
「どのくらい」
「一晩だ。昨夜、お前はトラックの荷台に落ちた。覚えているか」
「......覚えてる」
局長は、少し黙った。
「医者が言っていた。『医学的には、死んでいるはずだ』と」
「......」
「お前は、死んでいるはずなんだ。なのに、生きている」
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瀧本は、天井を見つめた。
白い天井。蛍光灯の光。病院の匂い。
三日前にも、同じ天井を見た。同じ匂いを嗅いだ。
違うのは、左目が見えないこと。
そして、スヨンがいないこと。
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「陛下は」
「無事だ。お前たちのおかげで」
「そうか」
「王宮から、お前宛てに言葉が届いている」
「陛下から」
「ああ」
局長は、封書を取り出した。
「読めるか」
「......読んでくれ」
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局長は、封書を開いた。
紙が擦れる音がした。
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『瀧本勝幸へ。
お前は、私を守った。妻を失いながらも、私を守った。
それは、私が命じたことではない。お前が、自らの意思で選んだことだ。
お前は、王室騎士だ。私はお前を、その称号に相応しい男だと認めた。その判断は、間違っていなかった。
お前の妻の死を、私は深く悼む。彼女の魂が、安らかであることを祈る。
お前は、多くを失った。だが、まだ失っていないものがある。
仲間がいる。使命がある。そして、私がいる。
お前が立ち上がる時、私はお前の傍にいる。王として。そして、お前を信じる者として。
生きよ。戦え。守り続けよ。
それが、私の願いだ。』
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局長は、読み終えた。
瀧本は、黙っていた。
しばらく、何も言わなかった。
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「スヨンの葬儀は」
「明後日だ」
「出る」
「お前は絶対安静だ。医者が──」
「出る」
瀧本は、首を動かした。激痛が走った。だが、局長を見た。右目だけで。
「俺の嫁の葬式だ」
局長は、しばらく瀧本を見つめていた。
そして、頷いた。
「車椅子を用意する」
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瀧本は、また天井を見つめた。
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「俺は、スヨンを守れなかった」
声が、掠れていた。
「......ああ」
「走った。撃たれても走った。倒れても這った。スヨンの手を握った」
「......」
「でも、守れなかった」
「......」
「スヨンは、俺の目の前で死んだ」
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瀧本の右手が、シーツを握り締めた。
指が震えていた。
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「スヨンは、夢の中で俺に言った」
「夢?」
「『私のために戦うな。みんなのために戦え』と」
「......」
「『私に縛られるな。前を向いて生きろ』と」
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瀧本は、目を閉じた。
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「陛下も言ってくれた。『生きよ。戦え。守り続けよ』と」
「......」
「スヨンとの約束がある。陛下との約束がある」
「......」
「だから、俺は......」
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瀧本の声が、途切れた。
喉が詰まった。言葉が、出てこなかった。
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「だから、俺は......」
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また、途切れた。
右手が、震えている。シーツを握り締める指が、白くなるほど強く。
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「生きる」
やっと、その言葉が出た。
「生きる。前を向いて、生きる」
声が震えていた。
「スヨンがいなくても。左目がなくても。体がボロボロでも」
「......」
「生きる」
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瀧本は、目を開けた。
天井を見つめた。
右目から、涙が流れた。
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「本当に、できるのか」
呟いた。
「本当に、俺は......」
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その問いに、答えはなかった。
局長も、何も言わなかった。
言えることは、なかった。言葉を持っていなかった。自分もまた、何が正しかったのか分からないまま、ここにいた。
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ただ、局長は、瀧本の震える手を握った。
それしか、できなかった。
何も言えない。何も約束できない。ただ、握ることしか。
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窓の外で、陽が昇り始めていた。
バンコクの街が、朝の光に照らされていく。新しい一日が、始まろうとしていた。
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瀧本勝幸は、生きていた。
愛する女を失い、左目を失い、体中に傷を負いながらも。
生きていた。
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スヨンとの約束がある。
陛下との約束がある。
守るべき仲間がいる。
果たすべき使命がある。
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だから、生きる。
......生きるしかない。
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そう、決めた。
......はずだった。
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だが、手は、まだ震えていた。




