第8話 覚醒
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白い世界だった。
どこまでも続く、白い空間。天井もなく、壁もなく、床もない。ただ白だけが広がっている。
瀧本勝幸は、その中に立っていた。
痛みがなかった。体が軽かった。撃たれた傷も、潰れた左目も、何もかもが消えていた。
ここはどこだ、と思った。
死んだのか、と思った。
「勝幸」
声がした。
聞き慣れた声。忘れるはずのない声。
振り返った。
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スヨンが、立っていた。
白いウェディングドレスを着ている。血の染みはなかった。頭の傷もなかった。あの日のまま、美しいままのスヨンが、そこにいた。
「スヨン......」
瀧本は、一歩を踏み出した。
「スヨン......」
また一歩。
「スヨン......!」
走った。スヨンに向かって、全力で走った。
スヨンの前で立ち止まった。手を伸ばした。スヨンの頬に触れようとした。
だが、手が止まった。
「俺は......」
声が震えていた。
「俺は、お前を守れなかった」
「知ってる」
スヨンは、微笑んでいた。
「守るって約束したのに」
「知ってる」
「お前を、死なせた」
「知ってるわ」
スヨンは、瀧本の頬に手を当てた。温かかった。生きている時と同じ、温かさだった。
「でも、私は怒ってない」
「なぜだ」
「あなたは、来てくれたから」
「来た?」
「私が撃たれた後、あなたは走ってきた。何発も撃たれながら。倒れても、這ってきた。私の手を、握ってくれた」
スヨンの目から、涙がこぼれた。
「私は、一人じゃなかった。最後の瞬間、あなたの手を感じた。だから、怖くなかった」
「スヨン......」
「ありがとう、勝幸」
瀧本は、スヨンを抱きしめた。
「ごめん......ごめん......」
「謝らないで」
「守れなかった......」
「あなたは、守ろうとしてくれた。それだけで、十分よ」
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しばらく、二人は抱き合っていた。
白い世界の中で、二人だけの時間が流れていた。
やがて、スヨンが体を離した。
「勝幸」
「何だ」
「あなたは、まだ生きてる」
「......」
「ここは、夢の中よ。あなたの意識が、私に会いに来ただけ」
「俺は......死んでないのか」
「死んでない。でも、危ないわ。今、あなたの心臓は何度も止まりかけてる」
「......」
「選んで、勝幸」
スヨンは、瀧本の目を見つめた。
「このまま、私と一緒にいる? それとも、戻る?」
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瀧本は、黙っていた。
このまま、スヨンと一緒にいる。それは、死ぬということだ。
楽だ、と思った。
もう戦わなくていい。もう誰も失わなくていい。スヨンと一緒に、永遠にいられる。
だが。
「......俺は」
瀧本は、スヨンを見た。
「戻る」
「どうして」
「まだ、やることがある」
「やること?」
「お前を殺した奴らを、野放しにはできない」
スヨンは、少し悲しそうな顔をした。
「復讐?」
「違う」
瀧本は、首を振った。
「復讐じゃない。もう、誰にもこんな目に合わせない。合わせさせない」
「......」
「お前が死んだのは、俺のせいだ。俺が突撃隊にいたから、お前は狙われた。俺が、お前を危険に晒した」
「勝幸......」
「でも、俺が逃げたら、同じことが繰り返される。俺の仲間が狙われる。仲間の家族が狙われる。罪のない人間が、殺される」
瀧本は、拳を握った。
「俺は、それを止める。お前みたいな人間を、もう出さない。そのために、戦う」
スヨンは、瀧本を見つめていた。
その目に、涙が浮かんでいた。
だが、微笑んでいた。
「......それが、あなたね」
「何が」
「柏木さんとは、違う」
「柏木?」
「柏木さんは、認められたかった。戦うことで、自分を確認したかった。だから、壊れた」
スヨンは、瀧本の胸に手を当てた。
「でも、あなたは違う。守りたいから、戦う。誰かを救いたいから、戦う。自分のためじゃない。他人のために」
「......」
「だから、あなたは壊れない。壊れられない」
スヨンは、瀧本の頬にキスをした。
「それが、あなたの強さよ。そして、私が愛した理由」
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瀧本は、スヨンを抱きしめた。
「俺は、お前を忘れない」
「知ってる」
「一生、忘れない」
「知ってるわ」
「お前のために、戦う」
「違うわ」
スヨンは、首を振った。
「私のためじゃなくて、みんなのために戦って。私は、もういないの。でも、あなたの仲間は生きてる。守るべき人は、まだたくさんいる」
「......」
「私のことは、時々思い出してくれればいい。でも、私に縛られないで。前を向いて、生きて」
瀧本は、何も言えなかった。
スヨンが、瀧本から離れた。
「行って、勝幸」
「スヨン......」
「行って。みんなが、待ってる」
スヨンの姿が、薄くなっていく。
「待ってくれ......!」
瀧本は手を伸ばした。
だが、スヨンの姿は消えていく。
「愛してる、勝幸」
その声だけが、残った。
「私は、ずっとあなたの中にいるから」
白い世界が、暗くなっていく。
スヨンの姿が、完全に消えた。
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「スヨン......!」
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瀧本は、目を開けた。
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白い天井が見えた。
病院の天井だ。
機械の音が聞こえる。心電図のビープ音。人工呼吸器の駆動音。
体中が痛い。動くことすら困難だ。
だが、生きている。
左目は、何も見えなかった。包帯が巻かれている。弾丸に貫かれた目は、二度と光を映さない。
右目だけが、世界を映していた。
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「瀧本!」
声がした。
首を動かした。痛みが走ったが、我慢した。
ジョンソンが、ベッドの横に立っていた。
「目が覚めたか......!」
「どのくらい、寝てた」
「三日だ。三日間、意識不明だった」
「三日......」
「心臓が四回止まった。医者は、もう駄目だと言った。でも、お前は生き返った」
ジョンソンは、瀧本の手を握った。
「よく、戻ってきた」
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瀧本は、天井を見つめた。
「スヨンは」
ジョンソンは、黙った。
「スヨンは、どうなった」
「......」
「答えろ」
「......亡くなった。即死だった」
瀧本は、目を閉じた。
分かっていた。夢の中で、会った。もう、いないことは分かっていた。
それでも、聞かなければならなかった。
「葬儀は」
「まだだ。お前が目を覚ますのを、待っていた」
「......そうか」
瀧本は、目を開けた。
「敵は」
「逃げた。バルカンで十数人を倒したが、残りは逃走した。今、追跡中だ」
「どこに」
「バンコク郊外の工業地帯に潜伏しているらしい。だが、正確な場所は分かっていない」
「分かった」
瀧本は、体を起こそうとした。
「おい、何をする」
「行く」
「馬鹿を言うな。お前は三日間昏睡していたんだ。体中に弾丸を受けて、左目を失って──」
「行く」
瀧本は、ジョンソンを見た。
右目だけで。
「俺は、行く」
ジョンソンは、瀧本の目を見つめた。
そこには、狂気はなかった。
怒りもなかった。
ただ、静かな決意があった。
「......止めても、無駄だな」
「無駄だ」
ジョンソンは、溜息をついた。
「装備は、本部に用意してある」
「ありがとう」
「礼を言うな。俺は、お前を止められなかった。責任を感じている」
「責任はない。俺が、行くと決めた」
瀧本は、ベッドから足を下ろした。
全身が痛んだ。だが、立ち上がった。
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本部。
瀧本は、ロッカールームに入った。
誰もいなかった。
ロッカーを開けた。
中に、装備が並んでいた。
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白いBDU。
突撃隊の戦闘服。胸には、王室犯罪対策局の紋章が刺繍されている。
袖を通した。
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白いプレートキャリア。
防弾プレートが内蔵されている。何発かは、止められる。
装着した。
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白バイ隊用のロングブーツ。
かつて、神奈川県警で履いていたものと同じ型。タイで特注した。
足を入れた。
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白バイ隊員仕様のヘルメット。
白い塗装。バイザーは透明。
手に取った。
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そして、白いマフラー。
スヨンが、誕生日にくれたものだった。
「バイクに乗る時、寒いでしょ」
そう言って、笑顔で渡してくれた。
瀧本は、マフラーを首に巻いた。
スヨンの匂いが、かすかに残っていた。
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鏡を見た。
左目には、黒い眼帯をつけていた。
右目だけが、鏡を見つめ返していた。
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ホルスターを腰に巻いた。
ベレッタM93Rを手に取った。局長からもらった銃。何度も、命を救ってくれた銃。
ホルスターに差し込んだ。
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駐車場。
白いBMW R1250 GS Adventure。
瀧本の愛車。白い塗装。パトライトとサイレンが装着されている。
跨った。
エンジンをかけた。
低い咆哮が、夜の空気を震わせた。
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ヘルメットを被った。
バイザーを下ろした。
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体中が痛んだ。
左目は、何も見えない。
右目だけで、前を見た。
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パトライトが回り始めた。
赤と青の光が、闘を照らした。
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サイレンが鳴り始めた。
甲高い音が、夜空に響いた。
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瀧本は、アクセルを開けた。
白いバイクが、闇の中へ飛び出した。
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バンコクの夜。
ネオンが瞬き、車が行き交う街。
その中を、白いバイクが駆け抜けていく。
パトライトが回り、サイレンが鳴り響く。
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瀧本勝幸は、狂わなかった。
狂えなかった。
愛する女を殺された。左目を失った。体中に弾丸を受けた。
それでも、狂わなかった。
復讐に燃えているわけではない。怒りに我を忘れているわけでもない。
ただ、静かに、決意していた。
もう誰にも、こんな目に合わせない。
もう誰にも、こんな目に合わせさせない。
それが、スヨンとの約束だった。
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柏木は、壊れた。
認められたいという欲求に呑まれ、戦うことが目的になり、正義が歪んでいった。
だが、瀧本は違う。
守りたいから、戦う。
誰かを救いたいから、戦う。
自分のためではない。他人のために。
それが、瀧本勝幸という男だった。
それが、スヨンが愛した男だった。
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白いマフラーが、風になびいていた。
スヨンの匂いが、かすかに漂っていた。
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瀧本は、夜の闇の中を走り続けた。
守るために。
もう誰も失わないために。




