第7話 誓い
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結婚式の朝は、よく晴れていた。
雲一つない青空が広がり、太陽がバンコクの街を明るく照らしている。乾季の終わり、三月の穏やかな陽気だった。
瀧本勝幸は、ホテルの一室で鏡の前に立っていた。白いタキシードを身に纏っている。生まれて初めて着る服だった。窮屈で、動きにくくて、戦闘には全く向いていない。襟が首を締め付け、袖が腕の動きを制限する。
だが、今日は戦う日ではない。結婚する日だ。
鏡に映る自分の顔を見つめた。目の下に深い隈がある。ここ数日、ほとんど眠れていなかった。目を閉じると、藤原の顔が浮かぶ。マリーの顔が浮かぶ。柏木の顔が浮かぶ。死者たちが、瀧本を見つめている。
頭を振った。今日は、そんなことを考える日ではない。
ドアがノックされた。
「入れ」
局長が入ってきた。白い軍服に身を包み、胸には勲章が並んでいる。どこか緊張した面持ちだった。
「瀧本、準備はいいか」
「分からん。結婚式なんて初めてだからな」
「そうか」局長は深呼吸をした。「だが、今日は特別な日だ。陛下がいらっしゃる」
瀧本は固まった。
「陛下?」
「タイ国王陛下だ。お前の結婚式に、臨席される。お前は王室騎士に叙任された。銃乱射事件で子供たちを守り、十八発撃たれても死ななかった男だ。陛下は、お前を気に入っておられる」
瀧本は言葉を失った。国王陛下が、自分の結婚式に来る。
「緊張するな」局長は瀧本の肩を叩いた。「いつも通りでいい」
「いつも通りって何だ。結婚式で国王が来るなんて、いつも通りじゃないだろ」
局長は苦笑した。
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式場は、バンコク郊外の王室所有のリゾートだった。広大な庭園の中央に白いテントが張られ、椅子が整然と並べられている。花々が飾られ、甘い香りが漂っていた。
警備は通常の十倍に増強されていた。王宮警察が敷地の外周を固め、要所には私服の警備員が配置されている。突撃隊の隊員たちも出席していたが、結婚式という場にふさわしく、全員が正装だった。武器は持っていない。陛下の御前で銃を携帯することは、王宮警察以外には許されていなかった。
最前列に、玉座が設えられていた。そこに、タイ国王陛下が座っていた。白い軍服に勲章を佩び、穏やかな表情で式場を見渡している。
隊員たちは、その後ろに座っていた。ニコライは杖をついて席に着いていた。第五部の反乱の際、柏木側との戦闘で負った傷がまだ完全には癒えていない。マルティネスも右足を引きずりながら式場に来ていた。ヨナタンは車椅子だった。マリーに撃たれた肩と太ももは、まだ動かない。
新隊員たちも全員が揃っていた。藤原誠一の席だけが空いていて、その椅子には白い花が置かれている。
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ウェディングマーチが流れ始めた。
瀧本は祭壇の前に立っていた。心臓が激しく打っている。
庭園の入口から、スヨンが現れた。白いウェディングドレス。長い黒髪をアップにまとめ、ベールが風に揺れていた。
瀧本は息を呑んだ。綺麗だ、と思った。この女と結婚する。この女を、一生守る。
スヨンがゆっくりと歩いてきた。瀧本の前で立ち止まり、ベール越しに目が合った。涙が浮かんでいた。
「泣くな」瀧本は小さく言った。
「泣いてないわよ。陛下の前よ」
牧師が式を始めた。
「瀧本勝幸、あなたはキム・スヨンを妻とし、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」
「誓う」
迷いはなかった。
「キム・スヨン、あなたは瀧本勝幸を夫とし──」
その時だった。
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轟音が響いた。
式場の入口が吹き飛んだ。白い破片が宙を舞い、花々が散乱した。爆風が瀧本とスヨンを襲い、二人は地面に倒れ込んだ。
煙の中から、黒い影が現れた。武装した男たち。顔を黒いマスクで覆い、全員が自動小銃を構えている。四十人以上が、続々と式場に侵入してきた。
先頭の男が叫んだ。
「動くな! 全員、床に伏せろ!」
瀧本はスヨンを庇いながら、状況を把握しようとした。敵は四十人以上。全員が重武装。対して、突撃隊は全員が非武装。
先頭の男が、局長を見た。
「ウィチャイ局長。ようやく会えたな」
局長は立ち上がった。
「お前たちは、何者だ」
「お前に潰された組織の残党だ」男の声は、怒りに満ちていた。「聖域。ボドイ。ラオスの詐欺コンパウンド。お前たちのせいで、俺たちは全てを失った」
「復讐か」
「そうだ」男は自動小銃を局長に向けた。「お前たちは、俺たちを『悪』と呼んだ。だが、俺たちは生きるためにそうしていただけだ。他に選択肢がなかった」
男の目が、瀧本を捉えた。
「そこにいるのは、瀧本勝幸か」
瀧本は立ち上がった。
「そうだ」
「柏木を殺した男。『正義の英雄』を殺した男」男は笑った。「お前たちにとって、柏木は英雄だったかもしれない。だが、俺たちにとっては違う」
「どういう意味だ」
「柏木は、俺たちの仲間を殺した。何十人も。何百人も。『正義』の名の下に」
男の声が震えていた。
「俺の弟は、聖域で働いていた。末端の運び屋だ。借金を返すために、仕方なくやっていた。だが、柏木に殺された。『人身売買組織の構成員』として」
瀧本は、何も言えなかった。
「お前たちは、俺たちを人間として見なかった。『悪』のレッテルを貼って、殺した。俺の弟も、友人も、仲間も、全員殺された」
男は銃を握り締めた。
「だから、俺たちは復讐する。お前たちの象徴を殺す。局長を。瀧本を。そして──」
男の視線が、最前列の玉座に向いた。
「国王陛下も、いらっしゃるとはな」
周囲の敵たちがざわめいた。
「聞いてないぞ、こんなの」
「どうする」
先頭の男は、数秒間、固まっていた。だが、すぐに笑い始めた。
「いいじゃないか。局長だけじゃない。国王も殺せる。タイの象徴を全て殺す」
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瀧本は動いた。
最も近くにいた敵に飛びかかり、銃を奪い取った。そのまま振り返りざまに三点バースト。二人の敵が倒れた。
「やれ!」
先頭の男が叫んだ。
敵たちが一斉に銃を向けた。だが、その時には、突撃隊も動いていた。
ジョンソンが敵に飛びかかり、素手で銃を奪った。アブドゥルが椅子を振り回して敵を殴り倒した。ンゴマがテーブルを盾にしながら前進した。
局長も戦っていた。白い軍服が血で汚れていく。だが、局長は倒れなかった。ムエタイの膝蹴りで敵の腹を打ち、肘打ちで顔面を砕く。かつて陸軍で格闘教官をしていた男の技は、衰えていなかった。
陛下の周囲では、王宮警察の護衛たちと隊員たちが人間の壁を作っていた。ニコライが杖で敵を殴り倒し、マルティネスが足を引きずりながらも敵に組み付いた。ヨナタンは車椅子から奪った拳銃で援護射撃を続けていた。
だが、敵の数が多すぎた。
隊員たちが次々と撃たれていく。致命傷ではないが、腕を、足を、肩を撃たれて倒れていく。
瀧本は敵の中を突き進んでいた。撃ち、殴り、蹴り、倒していく。だが、敵の弾丸が瀧本の体を掠めていく。左腕を撃ち抜かれた。右の脇腹を掠めた。額が裂けて、血が目に入った。
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その時、瀧本は見た。
スヨンが、敵に引きずられていた。
「スヨン!」
叫んだ。
スヨンが暴れている。だが、敵は離さない。式場の外へ、連れ出されていく。
瀧本は走った。敵を殴り倒し、撃ち倒し、スヨンを追った。
式場の外に出た。広い駐車場。黒いバンが数台、停まっている。
その前に、スヨンがいた。敵に押さえつけられ、跪かされていた。
先頭の男が、スヨンの後ろに立っていた。拳銃を、スヨンの頭に押し当てていた。
「止まれ、瀧本」
瀧本は足を止めた。
「銃を捨てろ」
瀧本は、銃を地面に置いた。
「お前は、俺たちから全てを奪った」男は言った。「柏木の後を継いで、俺たちを狩り続けた。俺たちの仲間を殺し続けた」
「お前たちは、人身売買をしていた。詐欺をしていた。人を──」
「生きるためだ!」
男が叫んだ。
「俺たちには、他に選択肢がなかった! お前たちのような『正しい人間』には分からないだろう! 生きるために、そうするしかなかった!」
男の目から、涙が流れていた。
「俺の弟は、十九歳だった。借金を返すために、聖域で働いていた。悪いことだと分かっていた。でも、他に方法がなかった」
「......」
「柏木は、弟を撃ち殺した。『正義』の名の下に。弟は、銃を持ってすらいなかった。ただの運び屋だった。それでも、殺された」
男の声が震えていた。
「お前たちは、俺たちを人間として見なかった。『悪』として、『敵』として、処理した。俺たちにも家族がいた。愛する人がいた。それでも、殺された」
瀧本は、何も言えなかった。
「だから、俺はお前から奪う」
男は、スヨンの頭に銃を押し当てた。
「お前の愛する人を、奪う」
「やめろ!」
瀧本が叫んだ。
「俺を殺せ! スヨンは関係ない!」
「関係ある」男は笑った。「お前が愛している。それだけで、十分な理由だ」
「頼む! スヨンを──」
「さようなら、瀧本」
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銃声が響いた。
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スヨンの体が、崩れ落ちた。
頭から、赤いものが飛び散った。
白いウェディングドレスが、赤く染まっていく。
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瀧本は、叫んだ。
言葉にならない叫びだった。喉が裂けるような、魂が砕けるような、絶叫だった。
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「スヨオオオオオオン!!!」
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瀧本は走った。
敵が銃を向けた。引き金を引いた。
弾丸が瀧本の体を貫いた。右肩。左の胸。腹部。太もも。
それでも、瀧本は止まらなかった。
また弾丸が飛んできた。右腕。左の脇腹。背中。
それでも、止まらなかった。
スヨンに向かって、走り続けた。
足がもつれた。倒れた。
地面に這いつくばった。
それでも、止まらなかった。
腕で体を引きずりながら、スヨンに向かって進んだ。
「スヨン......スヨン......」
呟きながら、進んだ。
血が、地面に広がっていく。自分の血か、スヨンの血か、もう分からなかった。
また弾丸が飛んできた。
左目に、激痛が走った。
視界の半分が、真っ暗になった。
それでも、止まらなかった。
「スヨン......」
あと少し。あと少しで、届く。
手を伸ばした。
スヨンの手に、触れた。
冷たかった。
「スヨン......」
瀧本は、スヨンの手を握った。
「約束、したのに......」
声が、掠れていた。
「守るって......約束、したのに......」
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その時、轟音が響いた。
駐車場の入口から、白いハンヴィーが突入してきた。
屋根に搭載されたバルカン砲が、火を噴いた。
毎分数千発の弾丸が、敵を薙ぎ払っていく。
敵たちが、次々と倒れていく。
「撤退だ! 撤退!」
先頭の男が叫んだ。
生き残った敵たちが、黒いバンに乗り込んで逃げていく。
ハンヴィーから、ジョンソンが飛び降りた。
「瀧本!」
走ってきた。
瀧本のそばに跪いた。
「瀧本! しっかりしろ!」
瀧本は、スヨンの手を握ったまま、動かなかった。
「スヨン......」
「瀧本! 瀧本!」
ジョンソンが、瀧本の体を確認した。全身から血が流れている。数え切れないほどの銃創。そして、左目。弾丸が貫通していた。
「衛生兵! 衛生兵を呼べ!」
ジョンソンが叫んだ。
マルティネスが走ってきた。スヨンの体を確認した。
首を横に振った。
「......駄目だ。即死だ」
「くそ!」
ジョンソンは拳を地面に叩きつけた。
瀧本は、スヨンの手を握り続けていた。
「スヨン......」
その声は、もう聞こえないほど小さかった。
「ごめん......守れなかった......」
瀧本の意識が、遠のいていった。
「スヨン......」
それが、最後の言葉だった。
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救急車が到着した時、瀧本はまだ息をしていた。
奇跡だった。
全身に十二発の銃弾を受けていた。左目は弾丸に貫かれ、二度と光を映すことはない。内臓が損傷し、出血多量で、心臓が何度も止まりかけた。
だが、死ななかった。
死ねなかった。
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スヨンは、死んでいた。
白いウェディングドレスが、赤く染まっていた。
結婚式の日に、花嫁は死んだ。
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病院に運ばれる瀧本の手には、まだスヨンの指輪が握られていた。
式の途中で、交換するはずだった指輪。
それが、二人を繋ぐ最後のものになった。




