第11話 新米
ウドンターニー県警に配属されて、二十三日目だった。
ファリダー・チャンチャイは現場に立って、目の前の光景を記録していた。
手帳に書く。写真を撮る。もう一度書く。
警察大学を首席で卒業した。犯罪捜査論、法医学、証拠保全、尋問技術。全科目で上位だった。現場に出れば役に立てると思っていた。
だがこれは、教科書に載っていない現場だった。
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サーン・トーンカムの本拠地だった。
ウドンターニー南部の農場。昨夜、何かがあった。
建物の前に血痕が三箇所。薬莢が六個。コンクリートの壁に弾痕が二つ。農具置き場の陰に擦り傷の跡がある。誰かが遮蔽物として使った痕だった。
倉庫の中に血痕がさらにあった。ナイフが一本、床に落ちていた。
男が三人、まだ現場にいた。全員が負傷していた。一人は右腕を撃たれていた。一人は右脚を撃たれていた。一人は拳銃で撃たれた弾が仲間のナイフの男に当たり、そのまま意識を失っていた。
全員が「何も知らない」と言った。
ファリダーには信じられなかった。
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「薬莢の種類を確認してください」
ファリダーは鑑識の担当者に言った。
「九ミリです」
「九ミリパラベラム弾。拳銃ですね」
「そうです」
「アサルトライフルの薬莢は」
「二個あります。こちらです」
ファリダーは薬莢を見た。AK系統だった。
「倒れている男たちが持っていたものと一致しますか」
「確認中です」
ファリダーは手帳に書いた。
誰かが拳銃で複数の人間を相手にした。相手はアサルトライフルを持っていた。それでも拳銃の側が制圧した。
どういう人間がそれをやるのか。
ファリダーには分からなかった。
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プラチャー警部補が現場に来たのは、ファリダーが記録を始めて一時間後だった。
私服だった。疲れた顔をしていた。昨夜、眠っていないのかもしれなかった。
「状況は」
プラチャーがファリダーに聞いた。
「負傷者三名。全員が口を割りません。薬莢から判断すると、拳銃一丁で複数を相手にした何者かがいます。被害者とされる女性四名と子ども三名は現場にいません。連れ去られたか、保護されたか」
「保護された」
プラチャーは言った。
ファリダーは手を止めた。
「警部補、それはどういう」
「安全な場所にいる。今は心配しなくていい」
「安全な場所とは」
「後で説明する」
ファリダーはプラチャーを見た。
説明になっていない。「後で」というのは、今は言えないという意味だ。なぜ言えないのか。
「サーン・トーンカムはどこにいますか」
「身柄を確保した」
「誰が」
「俺が」
「昨夜、警部補はどこにいましたか」
「それも後で説明する」
ファリダーは手帳を持ったまま、プラチャーを見た。
言えないことが多すぎる。現場に証拠がある。負傷者がいる。被害者は「安全な場所」にいる。容疑者は確保されている。なのに全部「後で」だ。
「警部補」
「なんだ」
「これは適切な手続きで処理されていますか」
プラチャーは少し間を置いた。
「処理されている」
「適切に、ですか」
「ファリダー」
「はい」
「お前は仕事をしろ。証拠を記録しろ。それだけでいい」
ファリダーは何も言わなかった。
言えなかった。プラチャーは上司だ。二十三日前から上司だ。逆らう立場にない。
だが手帳に書いた。
*「警部補は昨夜の詳細を開示しない。理由不明。要確認。」*
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署に戻って、ファリダーはデスクに座った。
記録を整理した。
薬莢六個。拳銃の弾が四発。アサルトライフルの弾が二発。血痕の位置と量。建物の構造。倉庫の鍵の痕跡——外から解錠された痕がある。プロの手口だ。
それから、プラチャーが「後で」と言ったことを並べた。
被害者の所在。昨夜のプラチャー自身の行動。サーン・トーンカムの身柄確保の経緯。
全部「後で」だ。
ファリダーは上司を疑いたくなかった。だが疑わない理由も見つからなかった。
プラチャー警部補はウドンターニー県警で十八年のキャリアがある。地域では知られた人間だ。サーン・トーンカムとは年齢が近い。同じ時代にこの街にいた。接点がなかったとは考えにくい。
手帳に書いた。それだけ書いた。考えを止めた。
証拠が足りない。
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翌日、サーン・トーンカムの身柄確保に関わった人間のリストを求めた。
総務担当が怪訝な顔をした。
「通常の手続きで確保したわけじゃないので、リストはないです」
「通常の手続きではない、とはどういうことですか」
「上に聞いてください」
上に聞いた。チェンマイから来た上位機関の担当者が、言いにくそうに言った。
「情報提供者がいました。その人間が動いた」
「情報提供者の名前は」
「開示できません」
「なぜですか」
「安全上の理由です」
ファリダーは手帳に書いた。
*「情報提供者。名前非開示。安全上の理由。」*
情報提供者が実際に動いた、ということか。情報を提供するだけでなく、現場に踏み込んだ。それは情報提供者ではなく、捜査員だ。捜査員の権限を持たない人間が、捜査員の行動をした。
それは何者か。
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三日後、ファリダーはノックの名前を見つけた。
サーンの本拠地から保護された女性と子どもの受け入れ先として、NGOの名前が書類に出ていた。ウドンターニー人道支援ネットワーク。代表はスッティン・パイブーン。
スッティンの名前はファリダーも知っていた。県内で活動しているNGOだ。問題を起こしたことはない。プラチャーとの接点があるという話は聞いたことがある。
ファリダーはNGOのシェルターに行くことにした。
プラチャーには言わなかった。
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シェルターの前でノックに会った。
ノックは警戒した。ファリダーが警察の身分証を見せると、さらに警戒した。
「被害者の方々の状態を確認したい」
「問題ありません。安全です」
「あなたがたのNGOが受け入れた経緯を聞かせてください」
「スッティンさんに聞いてください」
「スッティンさんはいますか」
「今は不在です」
「いつ戻りますか」
「分かりません」
壁だった。
ファリダーは手帳を持ったまま、シェルターの建物を見た。
普通の家に見えた。洗濯物が干してある。庭に木がある。
その時、庭の奥で人が動いた。
椅子に座っていた。煙草を吸っていた。
外国人だった。男だった。
白人ではない。アジア系だった。
オールバックの黒髪。紅色のベストとシャツ。右目だけが動く顔。サングラスをかけていた。
左脇腹に包帯の痕が見えた。ベストの裾から少し白いものが出ていた。
ショルダーホルスターをかけていた。
銃は入っていなかった。だがホルスターは剥き出しだった。
ファリダーはその男を見た。
男もファリダーを見た。
右目だけが動いた。
ファリダーは手帳を持ったまま、動けなかった。
全身の感覚が、この男が危険だと言っていた。外見のせいだけではなかった。座り方だった。椅子に座って煙草を吸っているだけなのに、いつでも動ける体の使い方をしていた。
「あの人は誰ですか」
ノックに聞いた。
「ボランティアです」
「国籍は」
「日本人だと思います」
日本人。
ファリダーは手帳に書いた。
*「日本人男性。NGOシェルターに滞在。脇腹に包帯。ショルダーホルスター着用。銃は不在。要確認。」*
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署に戻った。
外国人登録のデータベースを確認した。
ウドンターニー在住または滞在中の日本人男性。
数は多くない。
その中に一人、ビザの種類が特殊な人間がいた。
ノンイミグラントBビザ。取得経緯に軍関係者の名前が書類上に入っていた。チャイロン少佐。
名前を確認した。
**柏木勇気。三十八歳。職業:NGOコンサルタント。**
ファリダーはその名前を見た。
コンサルタント。
あの男がコンサルタント。
ファリダーには、その言葉が何かの冗談に聞こえた。
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さらに調べた。
日本の公開情報を検索した。タイ語と英語で。
柏木勇気。グローバルキャリア株式会社元職員。登録支援機関。退職理由は不明。退職前には業務上の問題を複数報告していた記録が入管データに残っていた。
その先が見つからなかった。
自衛隊歴があることは分かった。除隊理由は「訓練事故による負傷」。詳細は非公開。
どの部隊にいたかは、公開されていなかった。
ファリダーは画面を見た。
情報が少なすぎた。だが分かることがある。
この男は軍にいた。訓練で怪我をした。支援機関で働いた。タイに来た。NGOにいる。脇腹に包帯をしている。ショルダーホルスターをかけている。
サーンの本拠地で使われた拳銃は九ミリだった。
ベレッタM92FSは九ミリパラベラム弾を使う。
ファリダーは手帳に書いた。
*「状況証拠のみ。確証なし。だが可能性は高い。」*
それから一行だけ追加した。
*「なぜプラチャー警部補はこの男を放置しているのか。」*
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翌朝、ファリダーはプラチャーの席に行った。
「柏木勇気という人間を知っていますか」
プラチャーは書類から目を上げた。
一秒だけ間があった。
その一秒で、ファリダーには分かった。知っている。
「なぜそれを聞く」
「NGOのシェルターで見ました。ビザ取得にチャイロン少佐の名前が入っています。サーンの本拠地で使われた銃と同じ口径の銃のホルスターを持っています」
「それだけか」
「今のところは」
プラチャーはファリダーを見た。
「座れ」
ファリダーは座った。
「全部話す。ただし、これは公式の記録には残せない話だ。いいか」
「……はい」
プラチャーは話し始めた。
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十五分後、ファリダーは席を立った。
スッティンの妹のこと。プラチャーとチャイロンがなぜ支援しているか。政治家からの圧力がなぜかかったか。あの夜、警察が動けなかった理由。子どもたちがどうなる予定だったか。
全部聞いた。
「だからあの男を放置しているのか」
「放置ではない。支援している」
「銃の無許可所持は」
「把握していない」
「把握していない、とは」
「俺は把握していない」
ファリダーはプラチャーを見た。
知らないことにしている。それがプラチャーにできる最大限だと、今なら分かる。
だがファリダーは警察官だ。二十三日目でも、警察官は警察官だ。
「柏木という男に会う必要があります」
「なぜ」
「確認したいことがあります」
「逮捕するつもりか」
ファリダーは少し間を置いた。
「分かりません。まず会います」
プラチャーはファリダーを見た。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「あの男は手柄を全部こちらに渡した。名前も出さなくていいと言った。子どもたちが生きているのは、あの男が動いたからだ」
ファリダーは何も言わなかった。
「それを知った上で会え」
「知った上で会います」
ファリダーは立ち上がった。
手帳を持った。
シェルターに向かった。




