第1話 堕落
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柏木勇気は、女の肌の上で目を覚ました。
汗ばんだ肌。絡み合ったままの脚。シーツは床に落ち、毛布は足元で丸まっている。窓から差し込む朝日が、二人の裸体を容赦なく照らしていた。
隣で眠っているのは、マリーだった。金色の髪が枕に散らばり、白い肩が規則正しく上下している。昨夜、何度抱いたか覚えていない。三度か、四度か。彼女が泣いて許しを乞うまで、柏木は止まらなかった。
柏木は身を起こし、ベッドの縁に腰を下ろした。煙草を探す。パッケージは空だった。舌打ちをして、床に転がっていた別の箱を拾い上げる。マリーのメンソールだ。火をつけ、深く吸い込んだ。肺を焼くような感覚が、わずかに意識を覚醒させる。
鏡に映る自分の顔を見た。
目の下には深い隈が刻まれていた。無精髭が頬を覆い、左目は相変わらず光を失っている。かつては鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていた眼差しは、今や濁った泥水のようだった。
「......俺は、何をやっているんだ」
声に出してみても、答えは返ってこない。
分かっている。逃げているのだ。何から逃げているのかも、分かっている。
自分自身から。
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全ては、あの日から始まった。
瀧本勝幸が、王室騎士団に叙された日。
柏木は、ウドンターニーの拠点でその映像を見ていた。一人で。古いテレビの画面には、砂嵐のようなノイズが混じっていたが、内容は十分に理解できた。
国王陛下が、剣を手に取っていた。瀧本が跪いていた。剣が、瀧本の肩に触れた。右肩。左肩。
『立て、騎士よ』
瀧本が立ち上がった。
騎士として。
タイ王国の歴史に、その名を刻んだ。
柏木はテレビの電源を切った。画面が暗くなり、そこに自分の顔が映った。歪んだ表情。握りしめた拳。
俺じゃない。
俺じゃなかった。
俺は、何のためにタイに来たのか。
柏木は立ち上がり、窓に歩み寄った。ウドンターニーの街並みが眼下に広がっている。埃っぽい道路。錆びたトタン屋根。野良犬が路地裏を走り抜けていく。
正義のためだ。日本では報われなかった正義を、タイで実現するためだ。俺は全てを捨てた。日本国籍を。母親を。過去を。登録支援機関での日々を。あの狭いアパートを。もやしばかりの食事を。
俺は、タイに身を捧げた。
三年間、戦い続けた。何人の犯罪者を倒したか、数え切れない。何度、死線をくぐり抜けたか、覚えていない。俺は誰よりも強かった。誰にも負けなかった。一発も弾を食らわなかった。
だが、騎士として認められたのは、瀧本だった。
18発撃たれて、生き残った男。考える前に動く男。泥臭く、不格好で、毎回ボロボロになりながら戦う男。
俺じゃない。
瀧本だ。
柏木は拳で窓枠を殴った。古い木材が軋み、塗料が剥がれ落ちた。
俺は、何なんだ。俺は、何のために戦っている。俺は、何のために生きている。
答えは、見つからなかった。
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それから、柏木は変わった。
最初は、戦闘に没頭した。
ウドンターニーの犯罪組織を、片っ端から潰していった。麻薬の売人。人身売買のブローカー。違法カジノの元締め。武器の密売人。誰であろうと関係なかった。
情報が入れば、柏木は一人で出撃した。チャーリーチームの他のメンバーには、事後報告だけだった。川島が何度か「隊長、作戦会議を」と言いかけたが、柏木は聞く耳を持たなかった。
「俺がやる。お前らは待ってろ」
それだけ言って、出ていく。そして、数時間後に血まみれで戻ってくる。自分の血ではない。敵の血だ。
柏木の戦い方は、以前とは違っていた。
かつての柏木は、優雅だった。CARシステムとCQCを融合させた独自のスタイル。敵の攻撃を最小限の動きでかわし、的確な反撃で仕留める。一発も被弾しない。それが柏木勇気だった。
今は違う。
柏木は、敵を痛めつけることに快感を覚えるようになっていた。
ある夜、麻薬の売人のアジトに乗り込んだ。四人の男がいた。全員、武装していた。柏木は三分で全員を制圧した。だが、それで終わりにしなかった。
リーダー格の男を、壁に叩きつけた。男の鼻が折れ、血が噴き出した。
「どこから仕入れている」
「知らない......本当に知らない......」
柏木は男の指を掴み、ゆっくりと逆方向に曲げた。骨が折れる音がした。男が絶叫した。
「どこだ」
「ラオスだ! ラオスの......ヴィエンチャンから......!」
「ルートは」
「メコン川を......船で......」
「名前は」
「知らない......本当に......」
柏木は、別の指を折った。
男は泣き叫んだ。涙と鼻血と涎が混じり合い、顔を濡らしていた。柏木はそれを見下ろしながら、奇妙な満足感を覚えていた。
これが、俺の存在意義だ。
俺は、こうやって悪を裁く。
誰よりも強く。誰よりも残酷に。
結局、男は三本目の指が折れる前に、知っていることを全て吐いた。柏木はその情報をメモし、男を放置して立ち去った。男は床に崩れ落ち、泣きながら震えていた。
翌日、柏木はそのルートを潰した。メコン川の渡し場で待ち伏せし、密輸船を襲撃した。六人の密売人を射殺した。一人も生かさなかった。
報告書には、『抵抗したため射殺』とだけ書いた。
詳細は書かなかった。書く必要がないと思った。結果だけが重要だ。過程は誰も気にしない。
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暴力だけでは、柏木は満たされなかった。
夜になると、虚しさが襲ってきた。ベッドに横たわっても眠れない。天井を見つめていると、瀧本の顔が浮かんでくる。騎士として立ち上がる瀧本。国王に跪く瀧本。
俺じゃない。
俺じゃなかった。
柏木は酒を飲んだ。だが、酔っても虚しさは消えなかった。むしろ、増幅された。
ある夜、マリーが部屋を訪ねてきた。
「柏木、最近おかしいわ」
彼女は心配そうな顔をしていた。青い目が、柏木を見つめている。金色の髪が、肩にかかっている。白いブラウスの下に、豊かな胸の輪郭が見えた。
「おかしくない」
「おかしい。目が死んでる」
「......」
「何があったの。話して」
マリーが近づいてきた。香水の匂いがした。甘い、花のような香り。彼女の手が、柏木の頬に触れた。温かかった。
「私は、あなたの味方よ」
その瞬間、柏木の中で何かが切れた。
理性のタガが外れた。
柏木はマリーの腕を掴み、引き寄せた。彼女が驚いた顔をする間もなく、唇を奪った。舌を絡ませ、貪るように吸った。
「柏木......?」
「黙ってくれ」
柏木はマリーをベッドに押し倒した。彼女のブラウスのボタンを引きちぎった。ボタンが床に散らばった。白いブラジャーが露わになる。柏木はそれも剥ぎ取った。
マリーは抵抗しなかった。驚きの表情が、やがて受容の表情に変わった。彼女は柏木を愛していた。ずっと。サラよりも先に、柏木を愛していた。だから、拒めなかった。
柏木はマリーの体を貪った。激しく、荒々しく、まるで何かに取り憑かれたように。マリーは最初は声を上げていたが、やがて嗚咽に変わった。快楽と痛みが混じり合った、複雑な涙だった。
一度では終わらなかった。二度、三度と柏木はマリーを求めた。彼女が「もう無理......」と泣いても、止まらなかった。
ようやく終わったのは、夜明け前だった。
マリーはシーツに包まって、静かに泣いていた。柏木は天井を見つめていた。
虚しさは、消えていなかった。
だが、ほんの一瞬、忘れることができた。
それだけで十分だった。
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それから、柏木は毎晩のようにマリーを求めた。
彼女は拒まなかった。柏木を愛しているから。柏木が壊れていくのを、止めたいから。自分の体で、少しでも彼を救えるなら。
だが、マリーだけでは足りなくなった。
ナリンにも手を出した。
ナリンは、柏木との恋愛を諦めたはずだった。瀧本と別れた後、身を引くと言った。サラとマリーに任せると言った。
だが、柏木が夜中に彼女の部屋のドアを叩いた時、ナリンは拒まなかった。
「柏木さん......」
「今夜だけでいい」
「でも、私は......」
「頼む」
柏木の目は、虚ろだった。かつての鋭さはなく、ただ空洞のような暗さがあった。ナリンはその目を見て、胸が締め付けられた。
この人は、壊れている。
「......入って」
ナリンは柏木を部屋に招き入れた。そして、彼に体を許した。
柏木はナリンを抱きながら、マリーの時と同じことを感じていた。虚しさが、ほんの一瞬だけ薄れる。だが、終われば戻ってくる。
もっと。
もっと欲しい。
もっと忘れたい。
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ファリダ・チャンチャイにも手を出した。
22歳の新人刑事。ウドンターニー出身。最初は柏木に反発していた。「あなたのやり方は間違っている」と面と向かって言った女だ。
だが、柏木が変わっていくのを見て、彼女の態度も変わった。反発から、恐怖へ。恐怖から、困惑へ。そして、奇妙な魅了へ。
柏木の暴力は、美しかった。残酷だが、洗練されていた。彼が敵を制圧する姿は、まるで舞踏のようだった。ファリダは、それに惹かれていた。自分でも認めたくなかったが、惹かれていた。
ある夜、柏木がファリダの部屋に来た。
「何の用ですか」
「お前も、俺を止めたいのか」
「止める?」
「マリーとナリンは、俺を止めようとしている。お前も同じか」
「私は......」
柏木が近づいてきた。ファリダは後ずさった。背中が壁に当たった。
「怖いか」
「怖くないです」
「嘘だ。震えている」
柏木の手が、ファリダの頬に触れた。彼女は息を呑んだ。
「お前は、俺に惹かれている」
「そんなこと......」
「分かる。お前の目を見れば分かる」
柏木の顔が、近づいてきた。ファリダは目を閉じた。
その夜、彼女もまた、柏木に体を許した。
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セックスと暴力。
柏木の日常は、その二つだけになった。
昼は犯罪組織を壊滅させる。容赦なく。残酷に。必要以上の暴力で。
夜は女を抱く。激しく。貪欲に。三人を代わる代わる。時には同じ夜に二人を。
それだけが、柏木を満たした。それだけが、柏木を生かした。
だが、満たされることはなかった。
常に虚しさがあった。常に空洞があった。
瀧本のことを考えると、その空洞が広がった。
あいつは、何のために戦っている。
18発撃たれても、なぜ立ち上がる。
国王を守って、また撃たれて、それでも戦い続ける。
なぜだ。
柏木には、理解できなかった。
瀧本は「死ぬ気がない」と言った。「結婚していない、子供もいない。そんな状態で死んでたまるか」と言った。
だが、それだけか。
それだけで、18発の銃弾を受け止められるのか。
柏木には、分からなかった。
自分は、何のために戦っているのか。
かつては、正義のためだと思っていた。日本では報われなかった正義を、タイで実現するためだと。
だが、今は違う。
戦うこと自体が、目的になっていた。
暴力を振るうこと自体が、快感になっていた。
敵を倒すことでしか、自分の存在を証明できなくなっていた。
それが、柏木勇気の堕落だった。
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チャーリーチームの男性隊員たちは、異変に気づいていた。
川島明は、柏木の副官として、最も近くでその変化を見ていた。
「隊長、報告書を確認していただけますか」
「後でいい」
「でも、期限が......」
「後でいいと言った」
柏木は川島を見もせずに、部屋を出ていった。また、一人で出撃するのだ。
川島は溜息をついた。
机の上には、未処理の書類が山積みになっていた。バンコクからの連絡。経費の報告。作戦の承認。全て、放置されている。
かつての柏木は、こんなことはなかった。戦闘だけでなく、組織の運営もきちんとこなしていた。少なくとも、最低限のことは。
いや、違う。
川島は思い出した。柏木は元々、組織運営が苦手だった。バンコクでも、12億バーツの請求書を放置していた。戦闘だけに集中したがる人間だった。
だが、今はそれが極端になっている。
戦闘以外の全てを、完全に放棄していた。
「川島さん、どうしますか」
若い隊員が聞いてきた。
「俺が代わりにやるしかないだろう」
川島は書類を手に取った。柏木のサインが必要なものは、後回しにするしかない。
「隊長は、最近おかしいですよね」
「......ああ」
「何があったんでしょう」
川島は答えなかった。何があったのか、薄々分かっていた。瀧本が騎士になった日から、柏木は変わった。
そして、女性隊員たちとの関係も、川島は気づいていた。
夜中に聞こえる物音。朝、マリーの部屋から出てくる柏木。ナリンの目の下の隈。ファリダの首筋に残る痕。
見て見ぬふりをするしかなかった。
柏木に逆らえば、どうなるか分からない。あの目を見れば分かる。今の柏木は、正気ではない。
「俺たちにできることは、隊長を支えることだけだ」
「支えるって、どうやって」
「分からない。でも、やるしかない」
川島は窓の外を見た。ウドンターニーの街並みが広がっている。
どこかで、銃声が聞こえた。
また、柏木が暴れているのだろう。
川島は、バンコクに連絡すべきか迷っていた。だが、柏木を裏切ることになる。それは、できなかった。
まだ、できなかった。
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バンコク。
突撃隊本部。
局長室。
局長ウィチャイは、報告書を見ていた。ウドンターニーからの報告。チャーリーチームの活動記録。
「......おかしいな」
ハーパーが聞いた。
「何がですか」
「報告が少ない」
「少ない?」
「ああ。以前は毎日のように連絡があった。作戦の詳細、敵の情報、隊員の状況。全てが細かく報告されていた」
局長は報告書をめくった。
「今は、週に一度あるかないかだ。しかも、内容が薄い」
報告書には、簡潔な文章が並んでいた。
『犯罪組織A、壊滅』
『犯罪組織B、壊滅』
『犯罪組織C、壊滅』
「成果は上がっています」
「上がっている。だが、詳細がない」
局長は報告書を机に置いた。
「どうやって壊滅させたのか。被害はどうだったのか。敵は何人いて、何人を逮捕し、何人を射殺したのか。何も書いていない」
「確かに、不自然ですね」
「不自然どころじゃない。何かを隠している」
局長は椅子から立ち上がった。
「連絡を取れ。柏木に直接」
「了解」
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通信室。
カルロスが、ウドンターニーに連絡を取ろうとしていた。
「チャーリーチーム、応答願います」
雑音。
「チャーリーチーム、こちらバンコク本部」
雑音。
「応答願います」
沈黙。
「局長、応答がありません」
「周波数を変えて、再度試せ」
「了解」
カルロスは別の周波数に切り替えた。
「チャーリーチーム、応答願います」
沈黙。
「チャーリーチーム、こちらバンコク本部、応答願います」
沈黙。
一時間。
二時間。
三時間。
返事は、来なかった。
局長の顔が、険しくなった。
「帰還命令を出せ」
「帰還命令?」
「ああ。チャーリーチームに、バンコクへの帰還を命じる。全員、即時帰還だ」
「了解」
帰還命令が送信された。
テキストメッセージ。無線。衛星通信。あらゆる手段で。
返答は、なかった。
局長は、窓の外を見た。バンコクの夜景が広がっている。
「......ブラボーチームを呼べ」
「ブラボーチームを?」
「ああ。緊急展開だ。ウドンターニーへ」
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ブラボーチームの待機室。
ニコライ・ペトロフが呼び出された。
元FSBアルファ部隊。ロシアの対テロ特殊部隊の精鋭だった男。冷徹で、無慈悲で、しかし誰よりも有能な指揮官。
「局長、何かありましたか」
「チャーリーチームが、消息を絶った」
「消息を絶った?」
「ああ。連絡が取れない。帰還命令にも応答がない」
ニコライの目が、わずかに細くなった。
「敵に襲われた可能性は」
「低い。あの地域に、チャーリーチームを全滅させられる敵はいない」
「では、何が」
「分からない。だから、確認してきてほしい」
局長は、ニコライの目を見た。
「最悪の場合を、想定しておけ」
「最悪の場合?」
「柏木が、壊れている可能性がある」
ニコライは、表情を変えなかった。だが、その言葉の重さは理解していた。
「根拠は」
「兆候はあった。瀧本が騎士になってから、柏木の報告は変わった。成果だけが書かれて、詳細がない。まるで、何かを隠しているように」
「......」
「そして、女性隊員たちとの関係も、噂が聞こえてきている」
「関係?」
「マリー、ナリン、ファリダ。三人全員と、関係を持っているらしい」
ニコライは、少し眉をひそめた。
「それは、規律違反だ」
「規律違反どころじゃない。組織として機能していない可能性がある」
局長は、椅子に座り直した。
「ニコライ、お前に頼む。ウドンターニーに行って、チャーリーチームの状況を確認してきてくれ」
「了解しました」
「そして、もし柏木が本当に壊れているなら......」
局長は、言葉を切った。
「どうしますか」
「連れ戻せ。必要なら、力ずくで」
「了解」
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ブラボーチームが、緊急招集された。
ニコライ、サラ、アレクセイ、アンナ、デイヴィッド、ンゴマ、トーマス、ジェームズ、パク。
九人の精鋭が、ブリーフィングルームに集まった。
「状況を説明する」
ニコライが言った。その声は、いつも通り冷静だった。
「チャーリーチームが、消息を絶った。連絡が取れない。帰還命令にも応答がない」
サラが、不安そうな顔をした。
「マリーは......」
「分からない。だから、確認しに行く」
アレクセイが聞いた。
「敵に襲われた可能性は」
「低い。局長もそう言っている。チャーリーチームを全滅させられる敵は、あの地域にはいない」
「では、何が」
ニコライは、少し間を置いた。
「柏木が、壊れている可能性がある」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「壊れている?」
サラの声が、震えていた。
「詳細は分からない。だが、兆候はあったらしい。報告が減り、内容が薄くなり、そして連絡が途絶えた」
ンゴマが言った。
「柏木隊長は、最強の戦士だ。壊れるなんて、考えられない」
「最強の戦士でも、心は壊れる」
ニコライは、淡々と言った。
「俺は、多くの兵士がそうなるのを見てきた。戦い続けることでしか、自分を保てなくなる奴がいる。そして、戦いがなくなった時、あるいは戦いの意味を見失った時、壊れる」
部屋は、沈黙に包まれた。
「俺たちの任務は、チャーリーチームの状況を確認し、必要なら連れ戻すことだ。柏木が抵抗した場合は、力ずくで制圧する」
「柏木を、制圧する?」
トーマスが聞き返した。
「そうだ。命令だ」
ニコライは、全員を見渡した。
「質問は」
誰も、何も言わなかった。
「よし。出発は一時間後。完全武装で。ヘリ二機を使う」
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深夜。
バンコク郊外のヘリポート。
二機のブラックホークが、エンジンを温めていた。
ブラボーチームが、装備を確認していた。
AK-12。
SCAR-H。
グロック19。
フラッシュバン。
スタングレネード。
防弾ベスト。
暗視ゴーグル。
サラは、装備を身につけながら、マリーのことを考えていた。
マリーは、サラの友人だった。同じ女性隊員として、共に戦ってきた。サラが柏木を想っていることを、マリーは知っていた。マリーも柏木を想っていることを、サラは知っていた。
二人は、恋敵だった。だが、同時に友人でもあった。
マリーは、大丈夫だろうか。
柏木と一緒にいて、何かあったのだろうか。
サラは、不安を振り払うように、ライフルのボルトを引いた。
「全員、搭乗しろ」
ニコライの声が響いた。
ブラボーチームが、ヘリに乗り込んだ。
エンジン音が高まり、ローターが回転を始めた。
「離陸する」
パイロットの声が、ヘッドセットに響いた。
二機のヘリが、夜空に飛び立った。
目的地は、ウドンターニー。
ETA、三時間。
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ニコライは、窓の外の暗闇を見つめていた。
何が待っているのか。
分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
何かが、起きている。
何かが、壊れている。
そして、それを止めるのは、自分たちの仕事だ。
ニコライは、目を閉じた。
柏木勇気。
あの男は、確かに強かった。戦闘の天才だった。誰にも負けなかった。
だが、心は脆かった。
認められることを、求めていた。戦闘で勝つことでしか、自分を証明できなかった。
そして、瀧本が現れた。
瀧本は、柏木とは違った。考える前に動く男。傷つくことを恐れない男。何度撃たれても、立ち上がる男。
そして、騎士になった。
柏木は、どう感じただろうか。
自分が三年かけて追い求めたものを、瀧本があっさりと手に入れた。
そう感じただろうか。
「......」
ニコライは、目を開けた。
感傷に浸っている場合ではない。
任務に集中しろ。
ヘリは、暗闇の中を北へ向かっていた。
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ウドンターニー。
チャーリーチームの拠点。
柏木は、屋上に立っていた。
夜空を見上げていた。星が瞬いている。月は細い三日月だった。
「......俺は、どこで間違えたんだろうな」
後ろから、足音が聞こえた。
マリーだった。シャツ一枚を羽織っただけの姿で、柏木の後ろに立っていた。
「柏木、連絡が来てるわ」
「連絡?」
「バンコクから。帰還命令よ」
「......」
「応答しないの?」
「しない」
「なぜ?」
柏木は、マリーを見た。
月明かりに照らされた彼女の顔は、美しかった。だが、疲れていた。目の下に隈があり、唇は乾いていた。
俺が、こうしたのだ。
「帰ったら、全部終わる」
「全部?」
「ああ。俺は、ここにいる意味がなくなる」
「どういう意味?」
柏木は、夜空を見上げた。
「瀧本がいる。瀧本が、全部やってくれる」
「......」
「あいつは、騎士だ。英雄だ。21発撃たれても死なない男だ」
「......」
「俺は、何だ。俺は、誰にも必要とされていない」
「そんなことない」
マリーが、柏木の背中に手を当てた。
「私は、あなたが必要よ」
「お前だけだ」
「私だけでも、いいじゃない」
柏木は、振り向いた。マリーを見た。
「......すまない」
「何が?」
「お前を、こんな目に遭わせて」
「私は、好きでこうしてるの」
「嘘だ。お前は、泣いていた」
マリーは、何も言わなかった。
柏木は、マリーを抱きしめた。
「......ありがとう」
マリーの体は、温かかった。
だが、柏木の心は、まだ凍りついたままだった。
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遠くで、ヘリの音が聞こえ始めた。
柏木は、空を見上げた。
二つの光が、近づいてきている。
「......来たか」
柏木の目が、わずかに細くなった。




