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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第5章 氷
104/131

第1話 堕落

---


 柏木勇気は、女の肌の上で目を覚ました。


 汗ばんだ肌。絡み合ったままの脚。シーツは床に落ち、毛布は足元で丸まっている。窓から差し込む朝日が、二人の裸体を容赦なく照らしていた。


 隣で眠っているのは、マリーだった。金色の髪が枕に散らばり、白い肩が規則正しく上下している。昨夜、何度抱いたか覚えていない。三度か、四度か。彼女が泣いて許しを乞うまで、柏木は止まらなかった。


 柏木は身を起こし、ベッドの縁に腰を下ろした。煙草を探す。パッケージは空だった。舌打ちをして、床に転がっていた別の箱を拾い上げる。マリーのメンソールだ。火をつけ、深く吸い込んだ。肺を焼くような感覚が、わずかに意識を覚醒させる。


 鏡に映る自分の顔を見た。


 目の下には深い隈が刻まれていた。無精髭が頬を覆い、左目は相変わらず光を失っている。かつては鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていた眼差しは、今や濁った泥水のようだった。


 「......俺は、何をやっているんだ」


 声に出してみても、答えは返ってこない。


 分かっている。逃げているのだ。何から逃げているのかも、分かっている。


 自分自身から。


---


---


 全ては、あの日から始まった。


 瀧本勝幸が、王室騎士団に叙された日。


 柏木は、ウドンターニーの拠点でその映像を見ていた。一人で。古いテレビの画面には、砂嵐のようなノイズが混じっていたが、内容は十分に理解できた。


 国王陛下が、剣を手に取っていた。瀧本が跪いていた。剣が、瀧本の肩に触れた。右肩。左肩。


 『立て、騎士よ』


 瀧本が立ち上がった。


 騎士として。


 タイ王国の歴史に、その名を刻んだ。


 柏木はテレビの電源を切った。画面が暗くなり、そこに自分の顔が映った。歪んだ表情。握りしめた拳。


 俺じゃない。


 俺じゃなかった。


 俺は、何のためにタイに来たのか。


 柏木は立ち上がり、窓に歩み寄った。ウドンターニーの街並みが眼下に広がっている。埃っぽい道路。錆びたトタン屋根。野良犬が路地裏を走り抜けていく。


 正義のためだ。日本では報われなかった正義を、タイで実現するためだ。俺は全てを捨てた。日本国籍を。母親を。過去を。登録支援機関での日々を。あの狭いアパートを。もやしばかりの食事を。


 俺は、タイに身を捧げた。


 三年間、戦い続けた。何人の犯罪者を倒したか、数え切れない。何度、死線をくぐり抜けたか、覚えていない。俺は誰よりも強かった。誰にも負けなかった。一発も弾を食らわなかった。


 だが、騎士として認められたのは、瀧本だった。


 18発撃たれて、生き残った男。考える前に動く男。泥臭く、不格好で、毎回ボロボロになりながら戦う男。


 俺じゃない。


 瀧本だ。


 柏木は拳で窓枠を殴った。古い木材が軋み、塗料が剥がれ落ちた。


 俺は、何なんだ。俺は、何のために戦っている。俺は、何のために生きている。


 答えは、見つからなかった。


---


---


 それから、柏木は変わった。


 最初は、戦闘に没頭した。


 ウドンターニーの犯罪組織を、片っ端から潰していった。麻薬の売人。人身売買のブローカー。違法カジノの元締め。武器の密売人。誰であろうと関係なかった。


 情報が入れば、柏木は一人で出撃した。チャーリーチームの他のメンバーには、事後報告だけだった。川島が何度か「隊長、作戦会議を」と言いかけたが、柏木は聞く耳を持たなかった。


 「俺がやる。お前らは待ってろ」


 それだけ言って、出ていく。そして、数時間後に血まみれで戻ってくる。自分の血ではない。敵の血だ。


 柏木の戦い方は、以前とは違っていた。


 かつての柏木は、優雅だった。CARシステムとCQCを融合させた独自のスタイル。敵の攻撃を最小限の動きでかわし、的確な反撃で仕留める。一発も被弾しない。それが柏木勇気だった。


 今は違う。


 柏木は、敵を痛めつけることに快感を覚えるようになっていた。


 ある夜、麻薬の売人のアジトに乗り込んだ。四人の男がいた。全員、武装していた。柏木は三分で全員を制圧した。だが、それで終わりにしなかった。


 リーダー格の男を、壁に叩きつけた。男の鼻が折れ、血が噴き出した。


 「どこから仕入れている」


 「知らない......本当に知らない......」


 柏木は男の指を掴み、ゆっくりと逆方向に曲げた。骨が折れる音がした。男が絶叫した。


 「どこだ」


 「ラオスだ! ラオスの......ヴィエンチャンから......!」


 「ルートは」


 「メコン川を......船で......」


 「名前は」


 「知らない......本当に......」


 柏木は、別の指を折った。


 男は泣き叫んだ。涙と鼻血と涎が混じり合い、顔を濡らしていた。柏木はそれを見下ろしながら、奇妙な満足感を覚えていた。


 これが、俺の存在意義だ。


 俺は、こうやって悪を裁く。


 誰よりも強く。誰よりも残酷に。


 結局、男は三本目の指が折れる前に、知っていることを全て吐いた。柏木はその情報をメモし、男を放置して立ち去った。男は床に崩れ落ち、泣きながら震えていた。


 翌日、柏木はそのルートを潰した。メコン川の渡し場で待ち伏せし、密輸船を襲撃した。六人の密売人を射殺した。一人も生かさなかった。


 報告書には、『抵抗したため射殺』とだけ書いた。


 詳細は書かなかった。書く必要がないと思った。結果だけが重要だ。過程は誰も気にしない。


---


---


 暴力だけでは、柏木は満たされなかった。


 夜になると、虚しさが襲ってきた。ベッドに横たわっても眠れない。天井を見つめていると、瀧本の顔が浮かんでくる。騎士として立ち上がる瀧本。国王に跪く瀧本。


 俺じゃない。


 俺じゃなかった。


 柏木は酒を飲んだ。だが、酔っても虚しさは消えなかった。むしろ、増幅された。


 ある夜、マリーが部屋を訪ねてきた。


 「柏木、最近おかしいわ」


 彼女は心配そうな顔をしていた。青い目が、柏木を見つめている。金色の髪が、肩にかかっている。白いブラウスの下に、豊かな胸の輪郭が見えた。


 「おかしくない」


 「おかしい。目が死んでる」


 「......」


 「何があったの。話して」


 マリーが近づいてきた。香水の匂いがした。甘い、花のような香り。彼女の手が、柏木の頬に触れた。温かかった。


 「私は、あなたの味方よ」


 その瞬間、柏木の中で何かが切れた。


 理性のタガが外れた。


 柏木はマリーの腕を掴み、引き寄せた。彼女が驚いた顔をする間もなく、唇を奪った。舌を絡ませ、貪るように吸った。


 「柏木......?」


 「黙ってくれ」


 柏木はマリーをベッドに押し倒した。彼女のブラウスのボタンを引きちぎった。ボタンが床に散らばった。白いブラジャーが露わになる。柏木はそれも剥ぎ取った。


 マリーは抵抗しなかった。驚きの表情が、やがて受容の表情に変わった。彼女は柏木を愛していた。ずっと。サラよりも先に、柏木を愛していた。だから、拒めなかった。


 柏木はマリーの体を貪った。激しく、荒々しく、まるで何かに取り憑かれたように。マリーは最初は声を上げていたが、やがて嗚咽に変わった。快楽と痛みが混じり合った、複雑な涙だった。


 一度では終わらなかった。二度、三度と柏木はマリーを求めた。彼女が「もう無理......」と泣いても、止まらなかった。


 ようやく終わったのは、夜明け前だった。


 マリーはシーツに包まって、静かに泣いていた。柏木は天井を見つめていた。


 虚しさは、消えていなかった。


 だが、ほんの一瞬、忘れることができた。


 それだけで十分だった。


---


---


 それから、柏木は毎晩のようにマリーを求めた。


 彼女は拒まなかった。柏木を愛しているから。柏木が壊れていくのを、止めたいから。自分の体で、少しでも彼を救えるなら。


 だが、マリーだけでは足りなくなった。


 ナリンにも手を出した。


 ナリンは、柏木との恋愛を諦めたはずだった。瀧本と別れた後、身を引くと言った。サラとマリーに任せると言った。


 だが、柏木が夜中に彼女の部屋のドアを叩いた時、ナリンは拒まなかった。


 「柏木さん......」


 「今夜だけでいい」


 「でも、私は......」


 「頼む」


 柏木の目は、虚ろだった。かつての鋭さはなく、ただ空洞のような暗さがあった。ナリンはその目を見て、胸が締め付けられた。


 この人は、壊れている。


 「......入って」


 ナリンは柏木を部屋に招き入れた。そして、彼に体を許した。


 柏木はナリンを抱きながら、マリーの時と同じことを感じていた。虚しさが、ほんの一瞬だけ薄れる。だが、終われば戻ってくる。


 もっと。


 もっと欲しい。


 もっと忘れたい。


---


---


 ファリダ・チャンチャイにも手を出した。


 22歳の新人刑事。ウドンターニー出身。最初は柏木に反発していた。「あなたのやり方は間違っている」と面と向かって言った女だ。


 だが、柏木が変わっていくのを見て、彼女の態度も変わった。反発から、恐怖へ。恐怖から、困惑へ。そして、奇妙な魅了へ。


 柏木の暴力は、美しかった。残酷だが、洗練されていた。彼が敵を制圧する姿は、まるで舞踏のようだった。ファリダは、それに惹かれていた。自分でも認めたくなかったが、惹かれていた。


 ある夜、柏木がファリダの部屋に来た。


 「何の用ですか」


 「お前も、俺を止めたいのか」


 「止める?」


 「マリーとナリンは、俺を止めようとしている。お前も同じか」


 「私は......」


 柏木が近づいてきた。ファリダは後ずさった。背中が壁に当たった。


 「怖いか」


 「怖くないです」


 「嘘だ。震えている」


 柏木の手が、ファリダの頬に触れた。彼女は息を呑んだ。


 「お前は、俺に惹かれている」


 「そんなこと......」


 「分かる。お前の目を見れば分かる」


 柏木の顔が、近づいてきた。ファリダは目を閉じた。


 その夜、彼女もまた、柏木に体を許した。


---


---


 セックスと暴力。


 柏木の日常は、その二つだけになった。


 昼は犯罪組織を壊滅させる。容赦なく。残酷に。必要以上の暴力で。


 夜は女を抱く。激しく。貪欲に。三人を代わる代わる。時には同じ夜に二人を。


 それだけが、柏木を満たした。それだけが、柏木を生かした。


 だが、満たされることはなかった。


 常に虚しさがあった。常に空洞があった。


 瀧本のことを考えると、その空洞が広がった。


 あいつは、何のために戦っている。


 18発撃たれても、なぜ立ち上がる。


 国王を守って、また撃たれて、それでも戦い続ける。


 なぜだ。


 柏木には、理解できなかった。


 瀧本は「死ぬ気がない」と言った。「結婚していない、子供もいない。そんな状態で死んでたまるか」と言った。


 だが、それだけか。


 それだけで、18発の銃弾を受け止められるのか。


 柏木には、分からなかった。


 自分は、何のために戦っているのか。


 かつては、正義のためだと思っていた。日本では報われなかった正義を、タイで実現するためだと。


 だが、今は違う。


 戦うこと自体が、目的になっていた。


 暴力を振るうこと自体が、快感になっていた。


 敵を倒すことでしか、自分の存在を証明できなくなっていた。


 それが、柏木勇気の堕落だった。


---


---


 チャーリーチームの男性隊員たちは、異変に気づいていた。


 川島明は、柏木の副官として、最も近くでその変化を見ていた。


 「隊長、報告書を確認していただけますか」


 「後でいい」


 「でも、期限が......」


 「後でいいと言った」


 柏木は川島を見もせずに、部屋を出ていった。また、一人で出撃するのだ。


 川島は溜息をついた。


 机の上には、未処理の書類が山積みになっていた。バンコクからの連絡。経費の報告。作戦の承認。全て、放置されている。


 かつての柏木は、こんなことはなかった。戦闘だけでなく、組織の運営もきちんとこなしていた。少なくとも、最低限のことは。


 いや、違う。


 川島は思い出した。柏木は元々、組織運営が苦手だった。バンコクでも、12億バーツの請求書を放置していた。戦闘だけに集中したがる人間だった。


 だが、今はそれが極端になっている。


 戦闘以外の全てを、完全に放棄していた。


 「川島さん、どうしますか」


 若い隊員が聞いてきた。


 「俺が代わりにやるしかないだろう」


 川島は書類を手に取った。柏木のサインが必要なものは、後回しにするしかない。


 「隊長は、最近おかしいですよね」


 「......ああ」


 「何があったんでしょう」


 川島は答えなかった。何があったのか、薄々分かっていた。瀧本が騎士になった日から、柏木は変わった。


 そして、女性隊員たちとの関係も、川島は気づいていた。


 夜中に聞こえる物音。朝、マリーの部屋から出てくる柏木。ナリンの目の下の隈。ファリダの首筋に残る痕。


 見て見ぬふりをするしかなかった。


 柏木に逆らえば、どうなるか分からない。あの目を見れば分かる。今の柏木は、正気ではない。


 「俺たちにできることは、隊長を支えることだけだ」


 「支えるって、どうやって」


 「分からない。でも、やるしかない」


 川島は窓の外を見た。ウドンターニーの街並みが広がっている。


 どこかで、銃声が聞こえた。


 また、柏木が暴れているのだろう。


 川島は、バンコクに連絡すべきか迷っていた。だが、柏木を裏切ることになる。それは、できなかった。


 まだ、できなかった。


---


---


 バンコク。


 突撃隊本部。


 局長室。


 局長ウィチャイは、報告書を見ていた。ウドンターニーからの報告。チャーリーチームの活動記録。


 「......おかしいな」


 ハーパーが聞いた。


 「何がですか」


 「報告が少ない」


 「少ない?」


 「ああ。以前は毎日のように連絡があった。作戦の詳細、敵の情報、隊員の状況。全てが細かく報告されていた」


 局長は報告書をめくった。


 「今は、週に一度あるかないかだ。しかも、内容が薄い」


 報告書には、簡潔な文章が並んでいた。


 『犯罪組織A、壊滅』


 『犯罪組織B、壊滅』


 『犯罪組織C、壊滅』


 「成果は上がっています」


 「上がっている。だが、詳細がない」


 局長は報告書を机に置いた。


 「どうやって壊滅させたのか。被害はどうだったのか。敵は何人いて、何人を逮捕し、何人を射殺したのか。何も書いていない」


 「確かに、不自然ですね」


 「不自然どころじゃない。何かを隠している」


 局長は椅子から立ち上がった。


 「連絡を取れ。柏木に直接」


 「了解」


---


---


 通信室。


 カルロスが、ウドンターニーに連絡を取ろうとしていた。


 「チャーリーチーム、応答願います」


 雑音。


 「チャーリーチーム、こちらバンコク本部」


 雑音。


 「応答願います」


 沈黙。


 「局長、応答がありません」


 「周波数を変えて、再度試せ」


 「了解」


 カルロスは別の周波数に切り替えた。


 「チャーリーチーム、応答願います」


 沈黙。


 「チャーリーチーム、こちらバンコク本部、応答願います」


 沈黙。


 一時間。


 二時間。


 三時間。


 返事は、来なかった。


 局長の顔が、険しくなった。


 「帰還命令を出せ」


 「帰還命令?」


 「ああ。チャーリーチームに、バンコクへの帰還を命じる。全員、即時帰還だ」


 「了解」


 帰還命令が送信された。


 テキストメッセージ。無線。衛星通信。あらゆる手段で。


 返答は、なかった。


 局長は、窓の外を見た。バンコクの夜景が広がっている。


 「......ブラボーチームを呼べ」


 「ブラボーチームを?」


 「ああ。緊急展開だ。ウドンターニーへ」


---


---


 ブラボーチームの待機室。


 ニコライ・ペトロフが呼び出された。


 元FSBアルファ部隊。ロシアの対テロ特殊部隊の精鋭だった男。冷徹で、無慈悲で、しかし誰よりも有能な指揮官。


 「局長、何かありましたか」


 「チャーリーチームが、消息を絶った」


 「消息を絶った?」


 「ああ。連絡が取れない。帰還命令にも応答がない」


 ニコライの目が、わずかに細くなった。


 「敵に襲われた可能性は」


 「低い。あの地域に、チャーリーチームを全滅させられる敵はいない」


 「では、何が」


 「分からない。だから、確認してきてほしい」


 局長は、ニコライの目を見た。


 「最悪の場合を、想定しておけ」


 「最悪の場合?」


 「柏木が、壊れている可能性がある」


 ニコライは、表情を変えなかった。だが、その言葉の重さは理解していた。


 「根拠は」


 「兆候はあった。瀧本が騎士になってから、柏木の報告は変わった。成果だけが書かれて、詳細がない。まるで、何かを隠しているように」


 「......」


 「そして、女性隊員たちとの関係も、噂が聞こえてきている」


 「関係?」


 「マリー、ナリン、ファリダ。三人全員と、関係を持っているらしい」


 ニコライは、少し眉をひそめた。


 「それは、規律違反だ」


 「規律違反どころじゃない。組織として機能していない可能性がある」


 局長は、椅子に座り直した。


 「ニコライ、お前に頼む。ウドンターニーに行って、チャーリーチームの状況を確認してきてくれ」


 「了解しました」


 「そして、もし柏木が本当に壊れているなら......」


 局長は、言葉を切った。


 「どうしますか」


 「連れ戻せ。必要なら、力ずくで」


 「了解」


---


---


 ブラボーチームが、緊急招集された。


 ニコライ、サラ、アレクセイ、アンナ、デイヴィッド、ンゴマ、トーマス、ジェームズ、パク。


 九人の精鋭が、ブリーフィングルームに集まった。


 「状況を説明する」


 ニコライが言った。その声は、いつも通り冷静だった。


 「チャーリーチームが、消息を絶った。連絡が取れない。帰還命令にも応答がない」


 サラが、不安そうな顔をした。


 「マリーは......」


 「分からない。だから、確認しに行く」


 アレクセイが聞いた。


 「敵に襲われた可能性は」


 「低い。局長もそう言っている。チャーリーチームを全滅させられる敵は、あの地域にはいない」


 「では、何が」


 ニコライは、少し間を置いた。


 「柏木が、壊れている可能性がある」


 部屋の空気が、一瞬で凍りついた。


 「壊れている?」


 サラの声が、震えていた。


 「詳細は分からない。だが、兆候はあったらしい。報告が減り、内容が薄くなり、そして連絡が途絶えた」


 ンゴマが言った。


 「柏木隊長は、最強の戦士だ。壊れるなんて、考えられない」


 「最強の戦士でも、心は壊れる」


 ニコライは、淡々と言った。


 「俺は、多くの兵士がそうなるのを見てきた。戦い続けることでしか、自分を保てなくなる奴がいる。そして、戦いがなくなった時、あるいは戦いの意味を見失った時、壊れる」


 部屋は、沈黙に包まれた。


 「俺たちの任務は、チャーリーチームの状況を確認し、必要なら連れ戻すことだ。柏木が抵抗した場合は、力ずくで制圧する」


 「柏木を、制圧する?」


 トーマスが聞き返した。


 「そうだ。命令だ」


 ニコライは、全員を見渡した。


 「質問は」


 誰も、何も言わなかった。


 「よし。出発は一時間後。完全武装で。ヘリ二機を使う」


---


---


 深夜。


 バンコク郊外のヘリポート。


 二機のブラックホークが、エンジンを温めていた。


 ブラボーチームが、装備を確認していた。


 AK-12。


 SCAR-H。


 グロック19。


 フラッシュバン。


 スタングレネード。


 防弾ベスト。


 暗視ゴーグル。


 サラは、装備を身につけながら、マリーのことを考えていた。


 マリーは、サラの友人だった。同じ女性隊員として、共に戦ってきた。サラが柏木を想っていることを、マリーは知っていた。マリーも柏木を想っていることを、サラは知っていた。


 二人は、恋敵だった。だが、同時に友人でもあった。


 マリーは、大丈夫だろうか。


 柏木と一緒にいて、何かあったのだろうか。


 サラは、不安を振り払うように、ライフルのボルトを引いた。


 「全員、搭乗しろ」


 ニコライの声が響いた。


 ブラボーチームが、ヘリに乗り込んだ。


 エンジン音が高まり、ローターが回転を始めた。


 「離陸する」


 パイロットの声が、ヘッドセットに響いた。


 二機のヘリが、夜空に飛び立った。


 目的地は、ウドンターニー。


 ETA、三時間。


---


---


 ニコライは、窓の外の暗闇を見つめていた。


 何が待っているのか。


 分からない。


 だが、一つだけ確かなことがあった。


 何かが、起きている。


 何かが、壊れている。


 そして、それを止めるのは、自分たちの仕事だ。


 ニコライは、目を閉じた。


 柏木勇気。


 あの男は、確かに強かった。戦闘の天才だった。誰にも負けなかった。


 だが、心は脆かった。


 認められることを、求めていた。戦闘で勝つことでしか、自分を証明できなかった。


 そして、瀧本が現れた。


 瀧本は、柏木とは違った。考える前に動く男。傷つくことを恐れない男。何度撃たれても、立ち上がる男。


 そして、騎士になった。


 柏木は、どう感じただろうか。


 自分が三年かけて追い求めたものを、瀧本があっさりと手に入れた。


 そう感じただろうか。


 「......」


 ニコライは、目を開けた。


 感傷に浸っている場合ではない。


 任務に集中しろ。


 ヘリは、暗闇の中を北へ向かっていた。


---


---


 ウドンターニー。


 チャーリーチームの拠点。


 柏木は、屋上に立っていた。


 夜空を見上げていた。星が瞬いている。月は細い三日月だった。


 「......俺は、どこで間違えたんだろうな」


 後ろから、足音が聞こえた。


 マリーだった。シャツ一枚を羽織っただけの姿で、柏木の後ろに立っていた。


 「柏木、連絡が来てるわ」


 「連絡?」


 「バンコクから。帰還命令よ」


 「......」


 「応答しないの?」


 「しない」


 「なぜ?」


 柏木は、マリーを見た。


 月明かりに照らされた彼女の顔は、美しかった。だが、疲れていた。目の下に隈があり、唇は乾いていた。


 俺が、こうしたのだ。


 「帰ったら、全部終わる」


 「全部?」


 「ああ。俺は、ここにいる意味がなくなる」


 「どういう意味?」


 柏木は、夜空を見上げた。


 「瀧本がいる。瀧本が、全部やってくれる」


 「......」


 「あいつは、騎士だ。英雄だ。21発撃たれても死なない男だ」


 「......」


 「俺は、何だ。俺は、誰にも必要とされていない」


 「そんなことない」


 マリーが、柏木の背中に手を当てた。


 「私は、あなたが必要よ」


 「お前だけだ」


 「私だけでも、いいじゃない」


 柏木は、振り向いた。マリーを見た。


 「......すまない」


 「何が?」


 「お前を、こんな目に遭わせて」


 「私は、好きでこうしてるの」


 「嘘だ。お前は、泣いていた」


 マリーは、何も言わなかった。


 柏木は、マリーを抱きしめた。


 「......ありがとう」


 マリーの体は、温かかった。


 だが、柏木の心は、まだ凍りついたままだった。


---


---


 遠くで、ヘリの音が聞こえ始めた。


 柏木は、空を見上げた。


 二つの光が、近づいてきている。


 「......来たか」


 柏木の目が、わずかに細くなった。

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