第10話 救出
情報が入ったのは、最初の救出から五日後の昼だった。
コミュニティラインからだった。ラオス人の女性が、国境近くの村から連絡してきた。三日前の夜、若い女性が四人と子どもが三人、トラックに乗せられた。向かった方向はウドンターニーの南だ。サーン・トーンカムの本拠地がある方向だった。
スッティンがプラチャーに連絡した。
プラチャーの返信は短かった。
*「動けない。上から圧力がかかった。政治家の名前が出ている。チャイロンも同様。申し訳ない」*
スッティンがその文章を柏木に見せた。
「どれくらい時間がある」
柏木が聞いた。
「臓器売買の場合」
スッティンは言いにくそうにした。
「子どもは、長くて三日です。需要があれば、すぐに動く。すでに三日経っている」
「今夜か、明日の朝には動く」
「はい」
柏木は地図を見た。
サーン・トーンカムの本拠地。ウドンターニー南部。広大な敷地を持つ農場兼倉庫群。プラチャーが以前、構造を説明してくれていた。建物が三棟。警備員が常時六人から八人。サーン本人は週に三日、本拠地にいる。
今夜、サーンがいるかどうかは分からない。
「俺が行く」
柏木は言った。
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「一人で」
スッティンが言った。
「そうだ」
「無理だ。六人から八人いる」
「チームで動けば音が出る。一人の方が速い」
「撃たれる」
「撃たれるかもしれない。だが子どもが今夜死ぬよりマシだ」
スッティンは柏木を見た。
「あなたは元三等陸尉だ。一人で八人を相手にするのは」
「少し違います」
柏木は言った。
スッティンが止まった。
「三等陸尉は最終階級じゃない。正確には、記録上の最終階級だ」
「どういう意味ですか」
柏木はテーブルの椅子を引いて座った。スッティンも座った。
「特殊作戦群を知っているか」
「名前だけは」
「陸上自衛隊の特殊部隊だ。対テロ、人質救出、特殊偵察。習志野に本部がある。創設は二〇〇四年。俺は二〇〇九年から所属していた。突入班の指揮官だった」
スッティンは黙っていた。
「左目を失ったのは訓練事故だと言った。それは本当だ。だが特殊作戦群の訓練事故は、記録が残らない。内容も残らない。除隊理由も、公式には一般的な記録になる」
「三等陸尉、という階級は」
「降格した。事故の後、前線に戻れないと判断された時点で、組織上の処理が行われた。詳細は言えない。言えないのは秘密保持義務があるからだ。タイに来た今も、それは変わらない」
スッティンはしばらく柏木を見ていた。
「だから一人で行けると言っているのか」
「行けるかどうかは、やってみないと分からない。だが訓練はある。経験もある。一人で動く訓練は、特殊作戦群で最も基本的なものだ」
「左目がない」
「知っている。CARシステムで対応できる。近距離ならむしろ有利な部分もある」
「死ぬかもしれない」
「それは最初に聞いた。来る前に」
スッティンは立ち上がった。部屋を一度歩いた。それから戻ってきた。
「ペットを連れていけ。建物の外で待機させる。脱出の時に使う」
「それは呑む」
「アレクセイに準備させる。帰ってきた時にすぐ処置できるように」
「それも呑む」
「一つだけ約束してくれ」
「言ってくれ」
「死ぬなよ」
柏木はスッティンを見た。
「努力する」
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アレクセイが処置キットを準備しながら、柏木に言った。
「特殊部隊だったのか」
「さっきスッティンに話した」
「聞こえていた。壁が薄い」
アレクセイはガーゼと止血帯をバッグに詰めながら続けた。
「ロシアにも似た部隊がある。スペツナズだ。俺が従軍した前線に、何人かいた」
「どんな人間だった」
「普通の人間だった。それが怖かった。普通の顔をして、普通に話して、戦場では別の何かになる」
「俺も普通だ」
「そうは見えない」
「どう見える」
アレクセイは柏木を一度見た。
「最初から、別の何かに見える」
柏木は答えなかった。
「撃たれた時の話をする」
アレクセイが言った。
「聞く」
「腹を撃たれたら、帰ってくるな。そこで処置しろ。動けば死ぬ。胸なら右側は比較的マシだ。左は心臓に近い。頭は……帰ってこられない」
「分かった」
「四肢は止血して動け。止血帯はここに入れた」
アレクセイはバッグのポケットを指した。
「刃物は銃より厄介だ。深く入ると出血が止まりにくい。刺されたら無理に抜くな。そのまま帰ってこい」
「そのままで動けるか」
「動け。死ぬよりマシだ」
柏木はバッグを受け取った。
「お前は良い軍医だったんだろうな」
「最悪の状況を想定するのが仕事だ」
「今夜は最悪を想定してくれて助かる」
アレクセイは少し間を置いた。
「帰ってこい。俺の患者になれ」
「なるべくそうする」
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出発は午後十一時だった。
柏木は装備を確認した。
ベレッタM92FS。マガジン三本。四十五発。ショルダーホルスターに収めた。剥き出し。隠す必要がない。
ナイフを一本、ベルトに差した。アレクセイが持っていたものだ。戦場の軍医は刃物を持つ。消毒して渡してくれた。
アレクセイの処置バッグを背中に負った。
黒のスラックス。紅色のベスト。シルバーのネクタイは外した。動く時にネクタイは邪魔だ。シャツの袖を捲った。
サングラスをかけた。
ノックがシェルターの入口に立っていた。
柏木が通り過ぎようとした時、ノックが言った。タイ語だった。
スッティンが訳した。
「ポーの分も頼む、と言っています」
柏木はノックを見た。
ノックは泣いていなかった。泣き切った後の顔だった。
「分かった」
それだけ言った。
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ペットのトラックで南に向かった。
四十分走った。
本拠地から一キロの場所でペットが停めた。
「ここで待つ。戻ってきたら連絡しろ」
スッティンが訳した。ペットは前を向いたまま言った。
「連絡できない状態かもしれない」
「その時は迎えに行く」
柏木はトラックを降りた。
夜だった。月が出ていた。農地が広がっていた。遠くに建物の明かりが見えた。
歩き始めた。
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本拠地への接近に二十分かけた。
急がなかった。急けば音が出る。特殊作戦群で最初に叩き込まれたことだった。
建物が三棟。プラチャーの情報通りだった。
見張りを数えた。
外に三人見えた。情報では六から八人。内側に三人か五人いる計算になる。
メインの建物に明かりが多かった。人の声がした。タイ語とラオス語が混じっていた。
別の建物に明かりが少しあった。声はない。
被害者がいるとしたら、声のない建物だ。
柏木は動いた。
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最初の見張りを背後から無力化した。
頸動脈。十秒。
地面に降ろした。
二人目は少し離れていた。歩哨の動きをしていた。一定のリズムで歩いていた。
リズムの死角に入った。
背後から同じ手順で無力化した。
三人目が振り向いた。
気づかれた。
男が叫んだ。
柏木はベレッタを抜いた。
「静かにしろ」
言葉は通じない。だが銃口を向けられた意味は通じた。
男は止まった。
止まった瞬間、メインの建物のドアが開いた。
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二人出てきた。
銃を持っていた。旧式のアサルトライフル。AK系統だった。
柏木は三人目の見張りを盾にして横に動いた。遮蔽物を探した。
農具置き場の陰に入った。
銃声が響いた。
コンクリートが欠けた。
柏木は農具置き場の角から出て、一人に向けて撃った。
右脚に当たった。
男が倒れた。
もう一人が横に動いた。賢かった。
柏木も動いた。
CARシステム。体を目標に向ける。体の軸で狙う。
引き金を引いた。
左肩に当たった。
男が崩れた。
二発撃った。二人倒れた。マガジンは十三発残っている。
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建物の中から声がした。
複数の声。タイ語。何かを確認している声だった。
柏木は被害者がいると判断した建物の方に走った。
ドアを蹴った。
中に人がいた。
女性が四人。子どもが三人。
全員が隅に固まっていた。柏木を見て悲鳴を上げた。
「静かに」
手を上げた。銃を持ったまま手を上げた。意味が通じるかどうか分からなかった。
女性の一人がラオス語で何か言った。
子どもが泣いていた。三人とも泣いていた。生きていた。
「出ろ。今すぐ」
言葉は通じない。だが出口を指した。体で示した。
女性の一人が立ち上がった。子どもの手を引いた。
その瞬間、背後でドアが開いた。
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振り返った。
男が三人いた。
一人が銃を持っていた。拳銃だった。
残り二人はナイフだった。
拳銃の男に向けてすぐに撃つべきだった。
だが被害者が後ろにいた。貫通した場合のことを考えた。
一秒、迷った。
その一秒で、ナイフの男の一人が距離を詰めてきた。
柏木は横に動いた。
間に合わなかった。
左の脇腹にナイフが入った。
深くはなかった。だが確実に入っていた。
痛みより先に、熱さがあった。
柏木はナイフの男の腕を掴んで、体を回した。拳銃の男の前に押し出した。
拳銃が発砲した。
弾はナイフの男に当たった。
柏木は拳銃の男に向けて撃った。
右脚。
男が倒れた。
もう一人のナイフの男が走った。逃げた。
追わなかった。
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脇腹を左手で押さえた。
血が出ていた。アレクセイの言葉を思い出した。刺されたら無理に抜くな。ナイフはまだ入ったままだった。
確認した。
深さは三センチ程度だった。致命的ではない。動ける。
被害者を見た。
全員が壁際にいた。震えていた。子どもが三人、泣いていた。生きていた。
「来い」
出口を指した。
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メインの建物からまた人が出てきた。
二人。拳銃を持っていた。
柏木は被害者を建物の陰に押し込んだ。
一人に向けて撃った。右肩。
もう一人が横に逃げた。
その男の後ろから、別の男が出てきた。
大柄だった。五十代。高価そうなシャツを着ていた。周りの人間とは明らかに違う立ち方をしていた。
サーン・トーンカムだった。
写真で見た顔だった。プラチャーが一度だけ見せてくれた写真だった。
男は銃を持っていなかった。逃げようとしていた。
柏木は走った。
脇腹が痛んだ。
走った。
サーンが横の建物に入ろうとした瞬間、柏木が追いついた。
腕を掴んだ。体を回した。地面に組み伏せた。
サーンが叫んだ。
柏木は膝でサーンの背中を押さえた。ベレッタをサーンの後頭部に当てた。
「動くな」
サーンは動かなくなった。
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残っていた男が一人、銃を向けてきた。
柏木はサーンを盾にしたまま、男に向けてベレッタを向けた。
「お前のボスが死ぬか、お前が逃げるか、どちらかだ」
英語だった。通じるかどうか分からなかった。
男はしばらく動かなかった。
それから走って逃げた。
柏木はサーンを押さえたまま、スマートフォンを取り出した。
ペットに送信した。一言だけ。
*「来い」*
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ペットのトラックが来るまで八分かかった。
八分間、柏木はサーンを組み伏せていた。
脇腹から血が出続けていた。地面に少し落ちていた。左手で押さえ続けた。
サーンは最初は暴れた。途中から暴れなくなった。
柏木のベレッタが後頭部にあった。それと、組み伏せている力が、暴れることを諦めさせた。
被害者の女性と子どもは建物の陰に固まっていた。
子どもが一人、泣き止んでいた。
一番小さい子どもだった。四歳か五歳。タイ人の女の子だった。
泣き止んで、柏木を見ていた。
暗い中で、その目だけが見えた。
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トラックが来た。
ペットが降りてきた。柏木を見て、脇腹を見て、何も言わなかった。
被害者を荷台に乗せた。女性四人と子ども三人。全員乗った。
サーンを縛った。ジップタイで手首を後ろで固定した。荷台に乗せた。被害者とサーンが同じ荷台にいた。
女性の一人がサーンを見た。
何も言わなかった。ただ見ていた。
その目の意味を、柏木は考えなかった。今は考える余裕がなかった。
助手席に乗った。
「走れ」
ペットはアクセルを踏んだ。
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走りながらスッティンに連絡した。
*「全員確保。サーンも。プラチャーに連絡を。引き渡す準備をしてくれ」*
返信が来た。
*「けがは」*
*「アレクセイに聞かせる」*
スッティンからの返信はなかった。
代わりに三十秒後、アレクセイから直接連絡が来た。
*「ナイフか銃か」*
*「ナイフ。脇腹。深さ三センチ程度。まだ刺さっている」*
*「抜くな。今すぐ来い」*
*「今向かっている」*
*「失血はどの程度だ」*
柏木は左手を見た。血がついていた。
*「それなりに」*
*「急げ」*
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シェルターに着いた時、アレクセイがドアの前で待っていた。
柏木が降りた瞬間、アレクセイが近づいた。
脇腹を見た。
「中に入れ」
「被害者が先だ」
「あなたが倒れたら誰も動けなくなる。中に入れ」
柏木は一秒考えた。
合理的だった。
中に入った。
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テーブルに横にされた。
アレクセイがナイフを確認した。
「抜く。痛い」
「分かった」
「我慢しろ」
「する」
アレクセイはナイフを引き抜いた。
痛かった。声は出なかった。
血が出た。アレクセイが素早くガーゼを当てた。圧迫した。
「深さは俺の見立てより少し浅い。二センチ強。筋肉層だ。腹腔には達していない」
「致命的ではないか」
「縫えば助かる。今から縫う」
「麻酔は」
「少しある。打つ」
針が刺さった。局所麻酔だった。
しばらくして、感覚が薄れた。
「他に傷は」
「右腕を壁にぶつけた。大したことはない」
「見せろ」
アレクセイが右腕を確認した。
「打撲だ。骨は折れていない」
「それだけか」
「膝も打っている。走ったか」
「走った」
「後で確認する。今は腹だ」
縫合が始まった。
柏木は天井を見た。
シェルターの天井だった。板張りで、染みがあった。
外から声がした。子どもの声だった。泣いていない声だった。ノックの声が聞こえた。タイ語だった。
子どもたちが、シェルターに入ってきたのかもしれなかった。
「プラチャーには連絡したか」
天井を見たまま聞いた。
「スッティンが動いている」
「サーンを引き渡す。記録に俺の名前は出さなくていい。全部スッティンのNGOの手柄でいい」
アレクセイは縫合を続けながら答えた。
「なぜだ」
「必要ない」
「手柄が嫌いか」
「手柄が欲しくてやったわけじゃない」
アレクセイは少し間を置いた。
「ポーの分も、か」
「ノックがそう言っていた」
「ノックに伝える」
「まだ言わなくていい。終わってから言ってくれ」
「終わったら言う」
縫合が続いた。
外で子どもの声がした。泣いていない声だった。
それだけで十分だった。
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縫合が終わったのは深夜二時を過ぎていた。
プラチャーがシェルターに来た。私服だった。車は二台。もう一台にチャイロンが乗っていた。
サーン・トーンカムを引き渡した。
プラチャーはサーンを見た。サーンは黙っていた。
「証拠は」
プラチャーが柏木に聞いた。
「本拠地に人間と物が残っている。今夜動けば証拠は消えない」
「動く」
「記録には俺の名前を出さなくていい。スッティンのNGOが情報提供した、それだけでいい」
プラチャーは柏木を見た。
「それでいいのか」
「それでいい」
プラチャーは少し黙った。
それから、タイ語で何か言った。
スッティンが訳した。
「あなたのような人間に、タイ語でなんと言うか考えていた。見つかった。クォン・ディと言います。良い人間、という意味だ」
柏木は答えなかった。
「褒め言葉だ」
「受け取っておく」
プラチャーはサーンを連れて出ていった。
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夜明け前、シェルターは静かになった。
被害者の女性と子どもは別の部屋で眠っていた。ノックがついていた。
アレクセイが柏木の隣に座った。
「眠れるか」
「眠れる」
「眠れ。明日は動くな」
「従う」
「珍しい」
「医者の言うことには従う。自衛隊で教わった」
アレクセイは短く笑った。
外が少し明るくなり始めていた。
鳥の声がした。タイの鳥は日本の鳥と声が違った。うるさいくらい鳴く。
「特殊作戦群の突入班指揮官が、なぜ登録支援機関にいたのか、俺には分かる気がする」
アレクセイが言った。
「なぜだ」
「止まれなかったからだろう。場所が変わっても、やることが変わっても、止まれない人間だ」
柏木は天井を見た。
「そうかもしれない」
「それはマイサバーイチャイか」
「チャイロンに教わったのか」
「スッティンから聞いた。小さい組織だから」
「心が安らかでない。そうだな」
「悪くない理由だ。動き続ける理由として」
柏木は目を閉じた。
脇腹が鈍く痛んだ。アレクセイが縫ったところだ。
眠れると思った。
外で鳥がうるさく鳴いていた。
ウドンターニーの夜明けだった。




