第三話 ── 湿地帯、火を待つ ──
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湿地は、朝靄に沈んでいた。
草は膝の高さまで伸び、足を踏み入れれば、水と泥が音を立てて絡みつく。
踏み固められた中央の平地だけが、辛うじて「道」と呼べる形を保っていた。
並んで通れるのは、二騎まで。
それ以上は、進めない。
ヴァルドは、その中央に立っていた。
「ここだ」
低く言う。
「中央は、騎馬が来ようが魔獣が来ようが、わしが守る」
視線を左右へ送る。
「副将セルグ。右翼を任せる。弓で削れ。欲張るな」
「は」
「副将カイル。左翼だ。同じく弓。引きつけよ」
「承知」
足元の湿地に、薄く油膜が浮いている。
見えぬよう、土と水に混ぜて流したものだ。
「湿地帯の進軍は遅くなる。
引きつけて――火を放て」
誰も異を唱えなかった。
(陛下よりお借りした兵は一万五千。
我が兵は九千)
静かに、胸中で数を数える。
(敵が、どれほど来るか……)
その時だった。
「伝令!」
泥を跳ね上げ、若い兵が駆け寄る。
「敵総数――四万!
騎馬四千、歩兵三万二千、魔獣兵四千!」
声が、わずかに震えていた。
「……四万、か」
ヴァルドは、ただそれだけを呟いた。
(想定より一万多いな)
だが、顔色は変えない。
「騎馬四千……
中央へ来るのは、せいぜい半分じゃ」
「魔獣兵が問題ですな」
セルグが言う。
「魔獣は湿地を嫌う」
ヴァルドは即答した。
「必ず中央へ寄せてくる。
……それでよい」
キースが、わずかに眉を動かす。
「では……」
「中央は、わしが止める」
短く、断言した。
「騎馬が来ようが、
魔獣が来ようが、
この身が砕けるまで、ここは通さん」
一瞬、湿地に沈黙が落ちた。
「時間を稼げ」
ヴァルドは続ける。
「火と矢で敵の数を削れ。
三刻あれば十分じゃ」
剣の柄に手を置く。
「三刻あれば――
帝国は、生き残る」
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敵陣では、号令が飛び交っていた。
「前方に柵あり!」
「大楯隊、前へ!
両翼から進め!」
「弓隊は続け!
射程に入れば、即射!」
中央後方、騎馬隊が蹄を鳴らす。
「弓隊が射程に入り次第、
中央より騎馬突撃!」
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湿地の向こう。
敵の隊列が、ゆっくりと動き出す。
「まだだ」
セルグの声が、抑えられて響く。
「引きつけろ。
大楯は無視していい。
狙うは、その後ろの弓隊だ」
左翼からも声が返る。
「ギリギリまで引きつけるぞ!」
矢を番える音。
火矢の先が、わずかに揺れる。
「弓隊!
魔法隊!」
敵軍が、中央へ寄り始めた。
騎馬の列が、平地に足を踏み入れる。
「――まだだ」
湿地の油が、静かに揺れた。
誰もが息を殺していた。
弓を引く腕だけが、
じわりと汗を帯びている。
「……待て」
次の瞬間を、全員が待っていた。




