第ハ話 記憶断片008-兄妹
以下は、アメリカが対凶獣用として開発したパワードスーツT2型(通称N.E.A.R)に関連する各種記録である。
2024年、春ーー。
ドバイの人工島にて、非公開の晩餐会が開かれていた。
招待状は存在せず、出席者は全員“顔”で選ばれる。
そこに集う者たちは、資産と欲望を持ち、倫理を持たない者たちだった。
会場は、海に浮かぶガラス張りのドーム。
シャンパンの泡が静かに弾け、絹のドレスが床を滑る。
この夜、取引の対象となったのは、ウクライナ出身の兄妹だった。
戦争で家族を失い、国境を越えて売られ、今ここにいた。
兄の名はミハイル・コルネンコ、12歳。
妹の名はアリーナ・コルネンコ、7歳。
アリーナは震えていた。
ドレスは借り物で、靴はサイズが合っていなかった。
彼女は泣き続けていた。
ミハイルは、妹の前に立ち、腕を広げて視線を遮った。
その目は、冷たい。
吸い込まれそうなほどに、静かで、深い。
周囲には、買い手たちがいた。
・サウジの石油王は、妹の肌の白さに値をつけた。
・ロンドンの投資家は、兄の骨格を見て「訓練次第で使える」と言った。
・中国の武器商人は、二人を分けて買うつもりだった。
・香港の実業家は、妹だけを「芸術用途」として欲しがった。
彼らの視線は、値札のように冷たかった。
笑い声は、競りの始まりを告げる鐘のように響いた。
その中で、ただ一人、沈黙していた男がいた。
アメリカ政府が極秘裏に運用する傭兵育成・戦術実験部門のスカウト――ノア・グリフィン。
元特殊部隊。戦場で人間の“目”を見て生死を判断してきた男。
冷淡で、感情を持たない。
だが、ミハイルの目を見て、直感的に何かを感じていた。
オークションが始まった。
番号札が上がり、通訳が囁き、価格が跳ね上がる。
アリーナの泣き声が、値段の一部になっていた。
ノアは、最後の一声で彼らを競り落とした。
誰もが驚いた。
彼は、兄妹を“セット”で買った。
その目的は、誰にも分からなかった。
そしてこの取引は、記録にも残らない。
その夜、兄妹はドバイを離れた。
翌朝には、アメリカ西部の訓練施設にいた。
砂漠の縁に建てられた、地図に載らない場所。
そこは、傭兵育成のための非公開キャンプだった。
ノア・グリフィンは、兄妹を無言で施設の中へ案内した。
廊下は無機質で、空調の音だけが響いていた。
ミハイルは一言も発さず、アリーナは兄の袖を握っていた。
ノアは、ミハイルの前に立ち、言った。
「お前は、誰かを守るために戦うか。
それとも、誰にも命令されずに戦うか。
どちらでもいい。だが、選べ」
ミハイルは答えなかった。
ただ、妹の手を握っていた。
ノアは少し間を置いて、続けた。
「当面、お前たちの面倒は俺が見る。
身の回りのことは――彼女がやってくれる」
ノアが視線を向けた先に、ひとりの女性が立っていた。
白いシャツに淡いグレーのカーディガン。
髪は肩までの柔らかなウェーブ。
その目は、兄妹の目を見て、すぐに涙をこらえた。
エリザ・グリフィン。
ノアの姉。
この施設で唯一、戦場の外に立つ者。
彼女は、ゆっくりと兄妹に近づき、しゃがんで目線を合わせた。
アリーナの手をそっと包み、ミハイルの目を見て、微笑んだ。
「怖かったね。もう大丈夫。
今日からは、私が一緒にいるから」
その声は、兄妹が初めて聞いた“優しい英語”だった。
アリーナは、少しだけ顔を上げた。
ミハイルは、何も言わなかった。




