第五十九話 記憶断片053-鍵
2035年6月24日・米軍高速輸送機・上空ーー
機体は高度を保ったまま、雲の層を滑るように進んでいた。
窓の外には、朝の光を受けて広がる雲海。
ケイトは、しばらくその景色を眺めていた。
「雲、綺麗。
……こうして空を飛ぶの、久しぶりだな。
レッドロックに籠ってると、空の色すら忘れそうになるからね」
ミハイルは隣で静かに頷いた。
ケイトの言葉には、少しだけ柔らかな響きがあった。
「そうだそうだ」
彼女はそう言って、バッグの中から小さな包みを取り出した。
何も言わずに、ミハイルの膝の上にそっと置く。
「……はい。これ、君の分」
ミハイルは、包みを見て少し戸惑った。
そして、ケイトの顔を見たが、彼女は窓の外に視線を戻していた。
「弁当作っておいた。
……栄養くらいは、ちゃんと摂ってもらわないとね。」
その言い方は、どこか照れ隠しのようだった。
ケイトは多くを語らず、ただ雲を見つめていた。
ミハイルは、包みを開けてフォークを手に取る。
一口食べて、しばらく黙ったまま味わった。
そして、ぽつりと呟いた。
「……まぁ、美味しいな」
ケイトは、何も言わずに微かに笑った。
その笑みは、静かで、どこか満足げだった。
機内には、エンジンの低い唸りと、雲を裂く風の音だけが響いていた。
その中で、二人の間に流れる空気は、穏やかで、少しだけ柔らかかった。
午後ーー
輸送機は予定通り、フロリダ南部の滑走路に着陸した。
湿った空気が機体の外に広がり、熱帯の陽射しが地面を照らしていた。
ケイトとミハイルは、T2を載せた車両に乗り換え、指定されたルートを進んだ。
道の両脇には、建設資材を積んだコンテナと、未使用の昇降ユニットが並んでいる。
遠くには、軌道エレベーターの基礎構造が、まだ骨組みのまま空へ向かって伸びていた。
やがて、車両は立ち入り禁止区域のゲート前に到着した。
ゲートには、二人の守衛が立っていた。
軍用の識別装備を身につけ、無言で車両に近づいてくる。
ミハイルが窓を開け、身分証を差し出す。
ケイトも、端末に表示された認証コードを提示した。
守衛は無言のまま端末で照合を行い、数秒後、静かに頷いた。
「通過を許可します。
指定されたルートに従って進んでください」
ゲートが開く。
車両はゆっくりと敷地内へと進入した。
軍関係者の先導で敷地内を進んでいき、やがて、一つの建造物の前で停まった。
周囲とは違う、重厚な遮熱材で覆われた低層の施設――極低温システム保管庫だった。
軍関係者が無言で車両のドアを開け、ケイトとミハイルを手短に誘導する。
施設の前には、すでに一人の案内人が立っていた。
白い防寒スーツに身を包み、顔の半分をマスクで覆っている。
その姿勢には、ただの技術者とは違う緊張感が漂っていた。
ケイトたちが近づくと、案内人は静かに一歩前に出た。
「お待ちしておりました。博士の元へ案内いたします」
と言い歩きだした。
案内人の後を追い、ケイトとミハイルは極低温保管庫の側面にある重厚な扉をくぐった。
内部はひんやりとした空気に満ちており、壁面には冷却管が脈打つように走っていた。
通路は静かだった。
足音と、遠くで響く冷却ファンの低い唸りだけが、空間を満たしていた。
「この先、第2層に降りる階段があります。
博士はその奥の制御室にいます」
案内人はそう言うと、立ち止まり、通路の脇にあるアクセスパネルを操作した。
階段を下りると、空気はさらに冷たくなった。
壁には量子通信ノードの識別ラベルが並び、ここが通常の施設とは異なる領域であることを物語っていた。
やがて、通路の先に、厚い扉が現れた。
扉の前には、認証端末と静脈スキャン装置が設置されている。
案内人が端末にアクセスすると、扉が静かに開いた。
その奥には、広くはないが整然とした制御室が広がっていた。
中央のコンソールの前に、一人の男が居た。
黒髪をきちんと撫でつけ、深いグレーのスーツを着ている。そして、車椅子に静かに座っていた。
彼は、ゆっくりと振り返った。
目元には疲労の影があったが、その瞳は鋭く、曇りのない光を宿していた。
「……昨日はどうも。ケイト・モリス博士」
声は穏やかで、抑揚を抑えた調子だった。
ケイトは、わずかに息を吐いて頷いた。
「こちらこそ。直接お会いできてよかったです」
スティーブンは、車椅子の肘掛けに手を添えたまま、ミハイルにも目を向けた。
「T2のパイロットの方ですね。ご足労、感謝します」
ミハイルは軽く頷いた。
「時間が惜しいので、すぐに本題に入りましょう。
量子キーの授与には、静脈認証が必要です。
その準備は、すでに整っています」
スティーブンは、車椅子の肘掛けに手を添えたまま、コンソールの脇にある端末を指差した。
「まずは、一つ目のキーを渡します。
これは、YJ-01に構文を記入するための“入り口の鍵”にもなります。
このキーがあれば、人格部があなたの命令を受け入れる」
彼は肘掛けのパネルを開き、手をスキャン装置にかざす。
端末が反応し、小型の冷却モジュールがせり上がった。
「あなたの認証で、受け取りが完了します」
ケイトは右手をスキャンパネルに置いた。
静脈パターンが読み取られ、端末が応答する。
「認証完了。アクセス許可キー、展開」
モジュールが開き、青白い光の粒が浮かび上がる。
ケイトはそれを受け取った。
手のひらに、冷たい重みが残った。
スティーブンは、少し間を置いて続けた。
「次に、2つ目のキーです。
構文にこれを添えれば、コアが反応する可能性がある」
彼は別の端末に設計者コードを入力し、再びケイトに促す。
「同時認証が必要です。準備はいいですか?」
ケイトは頷き、再び手を置いた。
端末が応答する。
「認証完了。命令実行キー、展開」
今度は、より複雑な光の構造体が現れた。
ケイトはそれを受け取り、静かに息を吐いた。
「これで、構文を記入する準備は整いました。
あとは、YJ-01の深層領域に正確に記入するだけです」
スティーブンの声は静かだったが、言葉の奥には確かな期待があった。
ケイトは、モジュールを見つめながら頷いた。
その手には、未来を揺るがす鍵が二つ、確かに握られていた。




