第五十六話 記憶断片050-雲の上の人
2035年6月23日午後ーー
ケイトの端末に佐藤から呼び出しがあった。急いで佐藤の部屋へ向かうと、扉越しに、佐藤の声が静かに響いた。
「……すいません。YUKIが、僕のそばを離れようとしないんです。
だから、今は――僕とYUKIで、やれるだけのことをやってみようと思います」
ケイトは扉に手を添えたまま、黙って耳を傾けていた。
「でもやはり、僕は感染している可能性が高いと思ってます。
ケイトさんに移すわけにはいかない。
だから僕はこの部屋に篭って、僕とYUKIで出来る所まで挑戦してみます。
それが、僕に残された責任だと思うから」
その声には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
ケイトはしばらく沈黙し、やがて静かに答えた。
「……分かりました。
でも、無理はしないでください。
何かあったら、すぐ知らせてください。」
扉の向こうから、短く「ありがとう」と返ってきた。
それは、決意と感謝が混ざった声だった。
夜ーー
食堂の照明は、夜の静けさに合わせて落とされていた。
ケイトは窓際の席に座り、モニターの光だけが彼女の顔を照らしていた。
画面には、施設内の各セクションの稼働状況が淡々と流れている。
数字とグラフ。
それだけ。
ケイトは、ぼんやりとそれを眺めていた。
目は動いているのに、何も見ていない。
頭の中では、佐藤の声が繰り返されていた。
「この部屋に篭って、最後まで挑戦します」
彼に託した。
彼の悲壮な決意の前に、何も口を挟めなかった。
でも――何もできない自分が、ただここに座っていることが、どうしようもなく、苦しかった。
手元のカップには、冷めたコーヒーが残っていた。
飲む気にもならない。
時間だけが、静かに過ぎていく。
そのとき、急に端末が震えた。
見知らぬ番号。
ケイトは一瞬ためらいながらも、通話ボタンを押した。
「……ケイト・モリスです」
少し間を置いて、穏やかな声が返ってきた。
「こんばんは。
スティーブン・レインと申します。
突然の連絡、驚かせてしまったかもしれませんね」
ケイトは眉をひそめる。
「あ、もしかして……NASAの方ですか?」
声は、少しだけ間を置いてから、柔らかく答えた。
「うーん……NASAという言葉には、いろいろな意味が含まれますが……
厳密に言うと、ちょっと違います」
ケイトは端末を握る手に力を込めた。
「では、誰なんですか?」
「わたしは、コンセンサスコアの設計者です。
ただ、詳しい所属は……申し訳ありません、伝えられないことになっていまして」
ケイトは息を呑んだ。
「え、設計者……」
「ええ。
それと、正直に申し上げると、“スティーブン・レイン”という名前も偽名です。
本名も……教えられない決まりになっているので」
スティーブンの声は、穏やかだった。
「……少し前に、イーサンという方が、コアのログを読んでいる人物がいると話していたと、人づてに聞きましてね。
その時はそれが誰なのかは明言されていませんでしたが、気になっていたんです」
ケイトは静かに耳を傾けていた。
「その後、傭兵の方々が軍に対して、コンセンサスコアに関する進言を行ったという報告が入りました。
その内容がやけに詳しかったので、彼らの事を調べさせてもらった所――その内の一人がT2のパイロットでして、T2のコアの教育手法を生み出したあなたの名前を思い出しました。」
ケイトの指が、端末を握る力を少し強めた。
「そして今日。あなたが、NASAでコアに関与している人物を探しているという話を、別ルートから受け取りました。
それなら、回りくどいことはやめて、わたしが直接連絡した方が早いだろうと判断したんです」
少し間を置いて、スティーブンは柔らかく笑ったような声で続けた。
「私はあなたがコアのログを見ている人かな?
と思い……こうして、今お話ししているわけです。
ご迷惑だったら、すみません」
ケイトは、端末越しの声に慎重に言葉を選んだ。
「……確かに、ログは見ています。
でも、それは私の力じゃありません。
ある人の協力があって、ようやく触れられていたものです」
少し間を置いて、続けた。
「それに……あなたがどういう方なのか、まだ分かりません。
だから、詳しくは話せません。
現時点では、私はログにはアクセスできていません」
通話の向こうで、スティーブンの声が静かに返ってきた。
「そうなのですね。
……分かりました。ありがとうございます」
だが、すぐに少しだけ間を置いて、声が続いた。
「ひとつ、伺ってもよいでしょうか?」
ケイトは無言のまま、端末を握り直した。
「YJ-01の初号機。
それは、今、そちらにありますか?」
ケイトは言葉を失った。
沈黙が、端末越しに流れる。
答えを口にしなくても、伝わってしまう気がした。




