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第四話『水底に在し日を想う』

 ビアンカと薔薇の庭園で話した日から一週間が過ぎた。それから初めての日曜日。エニフェルは、寮にある自室で姿見を睨みつけていた。


 1960年から始まった記憶という認知機能の研究は、以降目覚ましい成果とともに現代まで続いている。海馬を経て大脳皮質に辿り着くすべての情報は、しかし前世の記憶となるとどうだろうか。この身体が経験したことのない事柄を、さも当然のようにぶち込まれた脳味噌はバグを起こして元の人格を消してしまった。デリートキーを大連打してフルコンボだドン!!!! なんて勢いで木っ端微塵。夢は記憶を整理しているとよくいうが、それらしき夢さえ見ないのだから、些か薄情ではないか? とエニフェルはエリーゼにありったけの理不尽をそうと意図せずぶつけてしまう。当然応える声はない。つまんねぇな。失った記憶も人格も、取り戻してやるぜくらいの気概は見せて欲しかった。己の意思のままに動かせる身体でくるっと回る。

 姿見には、袖の部分がふんわりと膨らんだ白色のブラウスに、黒のスキニーパンツ姿のエニフェルが写し出されていた。よし、とひとつ頷くと、今度は部屋の中央に鎮座するローテーブルの方に戻る。


 シンプルモダンインテリアで統一されたエニフェルの自室は、今や見る影もないほど散らかっていた。床に敷かれた灰色のカーペットの上には多種多様な服が死体のように打ち捨てられ、ローテーブルの上にはピアスやネックレスなどの小物が、L字デスクには化粧品が乱雑に置いてある。何も知らない人が見たらすわ強盗かと騒ぎ立てるほどの惨状は、しかして必要な犠牲であった。

 エニフェルがパチンっとローテーブルの上から選び抜いたピアスを両耳につける。細い長方形(スティック)の形をした金色のフックピアスが揺れて、エニフェルの装いを一際上品に仕立て上げた。

 帰ったら片付けようと心に決めて、ショルダーバッグを肩にかけ自室を出る。向かう先は寮門だ。

 そう、それで。


 記憶の話だ。前世の記憶というのは、つまるところ何処に紐付けされているのだろう。脳領域で言えば側頭葉か、ロマンチックに見れば魂だとかになるんだろうか。けれど仮に所在が分かったとて、引き摺り出せなければ意味がない。記憶障害に対して、一般的な治療は自然回復か投薬、催眠がベターとされている。が、前世という身体に経験のない記憶に薬剤が効くのか分からんし、催眠治療であれば前世療法になるのだろうが、それは眉唾物すぎる。魔力を持つ者による催眠ならともかく、唯の人間(しろうと)が手を出せる領域ではないだろう。となれば必然的に自然回復一択となるわけで。

 けれど、出来る限りのアプローチはするべきだと思うのだ。例えば、前世で馴染み深い場所に行く、とか。三百年たった現代で、そんな所は悲しいかな一箇所しか存在しない。


「ビアンカ! すまない。待たせ、た……な」


 寮門の端で立っていたビアンカの後ろ姿に声をかける。そして金糸の髪を揺らしながら振り返った彼女の美しさに、エニフェルは思わず息を飲んでしまった。飲む、というか。止めた、というか。ともすればそれは世界の方だったかもしらん。ビアンカが、春の日差しに煌めく。


「いえ。私も今来たところですから」


 ミモレ丈の裾が風で緩く波打つ、ピュアホワイトのフレアワンピース。袖やスカート部分に施されたレース刺繍がビアンカの可憐さと清廉さを同時に引き立てていた。心の中で百点満点のプラカードを掲げる。なるほど、天使はここにいたわけだ。いや、この美しさは女神すら霞むのではなかろうか。


「エニフェル先輩?」

「……綺麗だ」

「え?」


 制服でもなくドレスでもない。現代の服を着ている彼女が新鮮で、そして好みドンピシャであったものだから、エニフェルは思わず呟いた。

 ぽろっと転がり落ちた言葉は、しかしビアンカには届かなかったらしい。「何か言いました?」と聞いてくる彼女に一つ頷く。


「綺麗だ。常もだが、そういう服だと一層お前の凛とした美しさが際立つな」


 再度思ったままを言えば、ビアンカは頬を薔薇色に染めて「あ、ありがとうございます」とはにかんだ。は? 可愛い。


「せ、先輩も、かっこいいです。大人っぽいというか……」

「んぐ……。ありがとう。お前の一日を貰うからな、これくらいの装いは当然だ」

「そんな大袈裟な」

「いや、いいや。ちっとも大袈裟じゃないさ。」


 そう言って、エニフェルはビアンカの右手をとった。彼女の細い手首を彩る星のブレスレットがシャラリと滑る。


「今日は、私とデートをしてくれるんだろう?」


 気障ったらしく片目を閉じれば、ビアンカは頬だけでなく顔中を真っ赤に染め上げた。いや、ほんと可愛いな??? 秒で可愛いを更新してくじゃん……。


「で、デートって……。前世に関わりある場所に行くんですよね?」


 困惑しながら、ビアンカが今日の予定を言う。この一週間でエニフェルから大まかに前世での出来事と、エニフェルがここに来るまでの経緯を教えてもらった彼女は、こちらが驚くほど記憶を取り戻す事に意欲的だった。


「あぁ。だがそこに入るには少々準備が必要でな、私の協力者が手筈を整えてくれる。……確か十八時には終えると言っていた」

「そうなんですか」


 ビアンカは神妙に頷いて、そしてふと今の時刻を思い出す。


「……え? 今十三時ですけど」

「あぁ。だからこれから四時間、遊びに出ようではないか。現代ではこれをデートというのだろう?」

「え!? ち、違くて、デートっていうのは、好きあった人同士が……!!」


 手を繋いだまま歩き出すエニフェルに、慌ててビアンカが言い募る。その言葉にぱちくりと瞬きして、そういえばそうかとエニフェルは考えを改めた。ここに居るのは長年連れ添った右腕ではなく、出会って数日の少女である。ならば。


「そうか。なら、私の事を好いてくれるように尽力しよう」


 ニッと笑うエニフェルに、ビアンカが「……タラシ」と呟いたのと強風が吹いたのは同時だった。髪を抑えて「なんて?」とエニフェルが聞き返す。


「ッツ〜〜! 何でもありません!! それで! これから何処行くんですかっ」

「??? あぁ。まずはーー」


 エニフェルのハイヒールと、ビアンカのショートブーツが地面を楽しげに鳴らす。

 その姿が見えなくなった頃、寮から出てくる人影があった。アシメントリーの茶髪。黒のカーディガンにズボンというラフな格好をした葉月である。


「さてと、頑張るか」

 

 そう言った葉月の右目。左と同じく曇天のような鈍色をしていた筈の眼球は、涼やかな翡翠色に輝いていた。



 静謐な水の中を鯨が泳ぐ。

 天井の青白いスポットライトは、彼を照らすだけのものだ。マンタの群れや色とりどりの小魚が広々と泳いでいるのに、まるで辺境の星のように孤独を抱えてヒレを動かす巨体が、エニフェルとビアンカの前を通過する。その大きさに驚くほど小さくつぶらな目は、聡明な光を宿してチラリと二人の方を流し見た。


「やっぱり、実物は大きいですね」

「……鯨は初めて見たのか?」


 都内にある水族館。入り口から、ペンギンやマンタが泳ぐトンネル水槽、様々なクラゲがネオンの中で浮かぶ展示ゾーン、日本ではなかなか見られない熱帯地域の魚が入れられた水槽やアザラシが過ごす水槽の部屋を通った先。二人が眺めているのは、40種類、350匹の魚が泳ぐ大水槽であった。休日なこともあって少々混み合ってはいるが、それでもゆっくりと見る時間はある。

 この水族館最大の目玉であるシロナガスクジラを目で追いながら、ビアンカは感嘆の声を上げる。


「はい。鯨もですけど、水族館自体、来たのは初めてです」

「そうだったのか」

「テレビとかで見ることはあるんですけどね。いざ来てみると思った以上に綺麗で、神秘的です」

「……アザラシも可愛いしな?」


 アザラシを見た時に口を押さえて悶えた彼女を思い出してエニフェルが微笑めば、ビアンカは力強く頷いた。


「とっても可愛かったです!!」

「ふふ。そうか」


 一定の速度でぐるぐると回る魚達は、広くも限りある水槽の中で等しく野生を忘れていた。

 本来なら海に生息し、危険と隣り合わせの一生を送る筈の彼等は、自由と引き換えに永久の平穏を得たのだ。偽りの海底を泳ぐ魚を眺める。


「……前世のお前は、誰よりも海に近かったよ」

「え?」


 魚を見ていたビアンカの視線が、エニフェルの方を向いた。


「波はお前の意思に応えて形を変えたし、魚達は旧知の友として近づいてくる。水の中でも息ができるから、深海まで生身で潜っていけたんだ」

「それが、魔法……ですか?」

「あぁ。ビアンカの体内で形成された気高き(クイーンクラウン・)女王陛下(ダイヤモンド)という魔石は、水を操るのに長けていた。まぁ、お前は水を氷に変えて操るのが常であったから、そちらの方が馴染み深い奴もいるだろう。だが」


 うっとりと、エニフェルは過去の海戦に浸る。荒れ狂う波を味方につけた、頼もしい後ろ姿。水飛沫の一滴さえもが彼女の武器で、海原の上にいればどんな相手だって敵わない。まさに海神。そして、そんな彼女は誰にも言わずに海に赴いては、イルカや魚と歌うように話したり一緒に泳いでいる時もあった。こっそりとあとをつけた先で見た戦場とは異なる穏やかな一面に、どきりと胸が跳ねたのを今でも鮮明に思い出せる。思い出して、さらに深くまで過去を見る。


 ーーエニフェル! 来てください。イルカ達があなたにも挨拶したいって!!


 波の音が聞こえた。それからうみねこの鳴く声が。イルカの水飛沫と、集まる小魚達。

 船での旅はいつだって、ビアンカは甲板に出ては海の生き物達に引っ張りだこだった。美しいアクアマリンは楽しげに船を小さく揺らし、ビアンカの白い手にかかろうとする。金糸の髪が日差しに煌めいて、彼女が楽しそうに笑う。


「私は、海と戯れているお前を見るのが、一等好きだったんだ」


 過ぎ去った日々を、瞬きをして遮断する。

 気を抜けばいつだって心が戻ろうとするあの頃に苦笑して、エニフェルはビアンカの方を見た。そして。


「……どうした?」


 微笑はそのままに眉を下げる。ビアンカは、その今にも泣き出しそうで、少し怒ってもいそうな表情のままさらに顔をくしゃりと歪めた。


「なんか……いや、なんです」


 辿々しく、喘ぐようにビアンカは話す。突如湧いた感情を持て余しているのだろう。その様はまるで、海に溺れているようだった。


「貴方に、もう届かない……みたいな。そんな感情を抱かせるのが。私は、私の役割は、貴方が思うまま、どこまでも手を伸ばせるように支えることだったはずなのに……!」


 胸を押さえてそう言ったビアンカに、エニフェルは瞠目した。記憶が蘇ったわけじゃない。それよりも先に、右腕としての矜持が先行したのだ。


「早く。早く思い出したい。貴方を、世界にひとりぼっちみたいな……そんな顔、させたくない!」

「ビアンカ……」


 エニフェルは堪らなくなって、人目も憚らずビアンカを抱きしめた。どこまでいっても普通になれず、己の右腕であろうとしてくれる最愛の少女。


「焦るな。……ずっと待ってるから」


 こくりと、腕の中の彼女が頷く。腕を緩めれば、決意に輝いた水縹色がエニフェルを見上げた。



 しかしてその瞳は、一瞬にして恐怖に染まる。


 ーーーバリンッッ!!


 先ほど見ていた大水槽に鋭い亀裂が走る。エニフェル達の前の硝子が、そのヒビの中心であった。穏やかだった海がその様相をガラリと変える。土埃が舞った。魚達が出口のない水の中を必死に泳ぎ回るからだ。透き通っていた水の中が濁り、それが晴れるよりも先に。


 ーーーバンッッ!!!

 ヒビの中心に、水掻きのついた五本指の掌が叩きつけられる。



「ひっ……!」


 ビアンカが小さく悲鳴を上げる。エニフェルが背に彼女を庇うのと、大水槽が音を立てて割れ始めたのは同時であった。ガラスの破片がエニフェルの頬を一文字に切り裂く。

 そして、偽りの海からゆらりと姿を現したのは。


「……人魚」


 上半身は赤い髪の女、下半身はエメラルドの鱗で覆われた魚の鰭。水槽から溢れた水を鉢のように形作って直立する彼女の外見は、息を呑むほど美しい人魚であった。

 思わず見惚れるビアンカと対照的に、軽く舌打ちをしたエニフェルは忌々しげに人魚を睨みつける。

 人魚はぐるりと周囲を見渡した。突然の出来事に固まっている人間達は、彼女にどう映るのだろう。次いで微笑んだその口先が、どんどん上へと裂けていく。


「まずい。ビアンカ、耳を塞げ!!」

「え? は、はいっ」


 真っ赤な、口が。開いて。


「オギャァァァァァァァァァァァァ!!!!」


 人魚の咆哮に巻き込まれた風が渦を巻いて壁に突き刺さる。エニフェルは咄嗟にビアンカを抱き上げると上空に飛んだ。


「音波か。……くそっ。赤ん坊の鳴き声。せめて西洋か東洋かのどっちかにしろよ!」

「せ、先輩」

「取り敢えずここから離れるぞ!」


 ビアンカが恐る恐る見下ろせば、床には耳から血を流して倒れ伏す人々が沢山いた。呻き声をあげている者もいれば、気絶しているのかぴくりとも動かない者もいる。魚達も打ち捨てられ、水のない世界でビチビチと鰭を跳ねさせていた。音波が直撃したのだろう、巨体の殆どが消し飛び絶命したシロナガスクジラの虚ろな目と視線が合う。

 周囲の惨状を把握して、ビアンカは大水槽の前に浮かぶ人魚にカタカタと震えた。エニフェルの肩を掴む手に力が籠る。


「きゃぁぁぁぁあ!!」

「ば、化け物!?」

「うそ!? どこどこ?」

「馬鹿言うな逃げろ! 水がっっ!!」


 大水槽は二階にあった。天井は吹き抜けになっていて、上階からもよく見える。

 騒ぎを聞きつけた人々が大水槽前の光景にパニックを起こした。怒号と叫び声が乱烈する。

 そして。


 ーー。


「オルガンの音。やっとか」


 終末の戦い。

 世界に存在するどの曲でもないメロディを奏でるオルガンの音と共に、その場にいたはずの人間が全て消える。残ったのはエニフェルとビアンカ、そして人魚だけだ。

 怯えた目をするビアンカに少し驚く。終末の戦いに残れるのは、世界の敵と戦える者だけ。それなのにどうして、と。


「ァァァァァァァァァァァァ!!」

「考えるのは後にしたほうがよさそうだな!!」

「先輩!?」


 人魚が放つ音波を間一髪で避ける。そしてフロアの出入り口にビアンカを座らせた。力が入らないのか、へたり込んだ彼女が縋るようにエニフェルを見上げる。


「先輩、にげ、逃げないと」

「大丈夫だ。ビアンカ」


 笑うエニフェルの胸の内が紅く輝く。


「お前に、傷一つだってつけさせはしない」


 ビアンカに背を向けて言い放つ。そして、まだかまだかと燃える胸の内を解き放った。


変身(メルトチェンジ)なお赤き(ローズ・ア・ローゼス)紅玉(・オ・ルビー)!」


 迸る光がやがて火花を散らし、炎となってエニフェルの身体を巡る。そのまま再び膝を曲げて跳躍すれば、空中で黒色のマントがたなびいた。赤色の軍服に着飾ったエニフェルが、人魚の前に降り立つ。


「さて、魔術師共がくる前に、片付けるとしよう!」


 不敵に笑ったエニフェルに向かって、人魚が音波を打ち出す。癇癪を起こした赤子の叫び声を最小限の動きで躱し、人魚の懐に入ったエニフェルは、ぐっと腕を引いて拳を握った。


「ーー暴虐よ聞け」


 拳が黒い炎を纏う。それをそのまま、エニフェルは人魚に叩きつけた。


地獄の業火(ヘル・)で焼き尽くせ(ファイア)!」


 ジュゥゥッと人魚の皮膚を溶かした炎は、反動で四方に流れ大きなばつ印を描く。それは地獄の炎の顕現。しかしてその熱気とは裏腹に、爛れた皮膚は再生していく。


「オギャァァァァァァァァァァァァ、オギャァァァァァァァァァァァァ!!」

「せ、先輩!」


 後ろに大きく飛んで音波を回避する。ビアンカに「大丈夫だ」と声を張り上げて、再度人魚に向き直った。

 先程の攻撃が嘘のように塞がった腹部を見て、一つ頷く。


「なるほど。人魚の肉(不死生)に死者への炎は通じない、か。……なら!」


 エニフェルは前を薙ぐように右手を払った。その動きに呼応するように、彼女の背後で一つの大きな光輪が描かれる。

 それは神々しく輝き、脈打つように回転を始めた。緩やかだった速度が段々とスピードを上げていく。


「お前は虹色に輝く救い。お前は空に浮かぶ指標」


 南アフリカ地域に住む一部の民族に、太陽の周りを囲む虹色の光輪は希望を願うビルトートの精霊の集合体だという謂れがあった。エニフェルはそれを題材にした童話の一文を引用する。


お前だけが(ハロ・)正しい道を知っている(ビルトート)


 フロア一体を眩い光が劈いた。自身の輪郭すら分からなくなるほどの閃光が、容赦なく人魚を襲う。


「ビルトートの光は希望。そしてティム童話には、この光を使って妖魔を退治した少女の話が載ってある。きしくもその妖魔は」


 爆風に煽られた髪を押さえて悪どく笑む。魔力で激った真紅の瞳が鋭く人魚を見据えた。


「お前だ。人魚姫(マーメイド)

「ァァァァァァァァァァァァ!!!」


 もはや金切り声のような悲鳴をあげて、人魚は光の中で燃え尽きる。それを見届けて、エニフェルはビアンカの元へ戻った。


「ビアンカ、怪我はないか?」

「は、はいっ。エニフェル先輩は……あっ。ほ、頬に血が!」

「うぉ。かすり傷だぞ」


 刺繍の入ったハンカチをエニフェルの頬に当てるビアンカに言えば、彼女は「傷であることにかわりありません!」と憤慨する。


「そ、そうか。ありがとう」

「いえ。……私は、何もできなかったので」

「気にするな。お前は普通の人間なんだ」

「……はい。あ、そういえば、他の人達は」


 キョロキョロと辺りを見渡すビアンカに、エニフェルはそれも気にするなと肩を竦める。


「終末の戦いの間は、世界の敵と、それに対抗できる人間しか残らない。オルガンの音が鳴って終末の戦いが終われば、人間達は何事もなかったように戻るだろう。まぁ、死んだ人間や割れた水槽、焦げた壁なんかは元に戻らないから、魔術師が情報規制するだろうがな」

「魔術師……」

「あぁ。ーー噂をすれば」


 「えっ」と声を上げかけたビアンカに、人差し指を口に添えたエニフェルが「静かに」と声を潜めて告げる。

 言う通りに口を噤んだビアンカの耳に聞こえてくるのは複数の足音。


「まぁ、ここにいるのがバレてもいいんだが。今日は邪魔されたくないからな」


 苦笑して、エニフェルはスマートフォンを取り出した。素早く操作して耳に当てれば、ワンコール後に葉月の声が聞こえてくる。


『随分派手に暴れたみたいだな』

「ふふ。やはりこちらの状況は把握しているか。……よし、なら私達をそっちに飛ばしてくれ。頼んだぞ」

『わかった』


 了承の返事に通話を切って、目を瞬かせたビアンカに向き直る。


「今から協力者が外に飛ばしてくれる。だから私にしっかり掴まってくれ」

「は、はい……。わっ!」


 ビアンカがエニフェルの手を取った瞬間、白色の魔法陣が二人の足元に描かれた。思わずあとずさってしまったビアンカの手を引き寄せて、エニフェルは「危ないぞ」と肩を抱く。

 そして。


 バタバタと足音を立てて中に入った魔術師達は、世界の敵も誰も居ない終末の戦いに驚きと困惑の声を上げた。


「終末の戦いが終わっている……だと!?」

「そんな筈は……!」


 オルガンの音が鳴り響く。終焉と現実が統合するその場に、エニフェルとビアンカの姿は既にない。しかし。


「まさか、業火の魔法少女……」


 険しい顔の男が呟く。魔術師達の間に緊張が走った。未だ行方すら分からない世界の敵。終末の戦いにおける異端。世界を焼こうとした厄災。

 現れたイギリスから遠く離れた東の島国。その都市部を任された魔術師、大久保隆は、空になった大水槽を前に重々しく頷いた。


「いるのかもしれないな。……この国に」


第四話を読んでくださりありがとうございます!

面白いな、続きが楽しみだな、と少しでも思ってくれたら幸いです。

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