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第三話『見知ったはずの知らない女』

 美しい女だった。

 腰まで下ろした金糸の髪に白い肌。長いまつ毛に縁取られた水縹色の瞳は聡明な眼差しで前を見据え、すらりと伸びた長身が剣を持ち翻る様は一種の芸術に値する。

 淡雪のように儚い色彩を持ちながら、氷の美貌の下に豪雪じみた荒御魂を飼っているのだ。

 いつかの戦場で、彼女はうっそりと微笑みながら「焼いてしまいましょう」とエニフェルに囁いた。「貴方が右から。私が左。ヨーイドンで火蓋を落として、世界を燃やしてしまいましょう。大丈夫、バレないですって」なんて。子供のように無垢な顔ではしゃいだ声を上げるものだから、エニフェルはついつい甘やかすように指先一つでその提案を叶えちまった。十八世紀に欧州で起きた歴史上最大規模の災害として知られるそれは、そうやって起きたモノだった。


 仕方ないね。何せ女はエニフェルにとっての唯一であったので。命と言い換えてもいい。彼女はいつも遠慮だか謙虚だかの姿勢を見せて「右腕」の位置に収まろうとするけれど。ね、じゃあ一体どうやって、この心臓が鼓動を刻むっていうんだ。エニフェルは毎度憤慨する。その癖四方八方にエニフェルを心臓だと宣っているらしいのだから、いい加減認めればいいのにって思う。お前と同じようなこと、私も想ってるんだぜって。言えばよかった。たらればの話だ。最後まで私は彼女の心臓であったけれど、彼女が右腕から降りることは決して無かったのだから。

 全てがもしもに繋がっている。死人に口なし。だがエニフェルは今を生きてるわけで。だからこんな詮無いことが浮かぶのだ。やり残した後悔とか、一銭にもなりはしないもの。けれど。


「あの、私に何か……?」


 金糸の髪と水縹色(みはなだいろ)の瞳。

 エニフェルの目と鼻の先で、未練が首を傾げて立っている。


 燕神楽学園高等部一年、水無瀬雪乃。宝石商の祖母を持つ静謐な秀才。

 しかして彼女は、エニフェルにとっては別の名前を持つ。

 その名はビアンカ。エニフェルの唯一であり右腕。氷を操る白銀の魔法少女。

 己の死に際を看取った彼女が、何も知らない顔をする。それがてんで可笑しくて愛らしかったものだから、エニフェルの口からは常になく優しい声が出た。


「あぁ。お前が構わないのであれば、一戦どうだ?」


 折りたたみ式のチェス盤を片手で持って揺らす。カラコロカラコロ。ケースに並んだ駒が音を立てた。言葉の趣旨を理解したのだろう、ビアンカは困ったように眉を下げる。自信がありません、みたいな。そんな顔だ。オォ、珍しい。彼女は文武両道でその自負も兼ね備えていたもんだから。そも基本、負けん気が強い奴なのだ。勝負事とくれば尚更、ビアンカは初めてのものでも闘志を燃やして挑んでくる。そんな彼女が、まるで普通の人みたいな……。


「すいませんが、ルールをよく存じてなくて。貴方の相手にはなれないと思います」


 ……あぁ、まぁ、そうか。エニフェルは一人納得する。そうだった。彼女は普通の人なのだ。今のビアンカに、前世の記憶は無い。共に駆け抜けた戦場も、他愛のない日常も、お互いが唯一であったことすらすっぽ抜けた伽藍堂。

 少しばかり落胆したエニフェルは、しかしてある記憶を思い出す。一番古いビアンカとの記憶。あの頃、ビアンカは眉を下げはしなかったものの、一字一句同じ言葉を発したのではなかっただろうか。


『すいませんが、ルールをよく存じてなくて。貴方の相手にはなれないと思います』


 宝石と人を融合させる非人道的な実験。機材ばかりが最新鋭の、窓ひとつない灰色の施設。白衣の大人達と無数の子供。一日経つたびに子供の何人かが消えていて、実はここには恐ろしい怪物が隠れ住んでいるんだなんて歯の抜けた子供が言っていた。馬鹿だなと笑ったことがある。隠れるも何も、目の前にいる大人が怪物なんだろうに。クソ汚い見せ物小屋や座敷牢の中にいた子供達は、一日数回ある注射さえ済めば潤沢な衣食住が確約された状況に、まるでここが天国だと思い込んでいるらしかった。さながら大人達は神の使いか? 


 井の中の蛙は大海を知らない。しかして井戸から出られたとして、一体そこが檻の中じゃないとどうして言える。空の青さしか知らないで、それを空だと言えるのか。歯の抜けた子供は怪物を倒すと意気込んで、その次の日には消えていた。閉ざされた箱庭の中で子供達が怪物の正体に気がついたのは、自身の身体に異変が起きてからだった。止まない痛みに変色する身体。注射を拒めば容赦なく襲う折檻に、ネバーランドは潰えたのだと理解する。


 エニフェルがビアンカと出会ったのは、そんな檻の中だった。二人は実験体の中でも優秀で、日が経つにつれて強い投与を行われるようになった。お互い一人を好む性格だったが、二人だけで実験室に行けば、自ずと会話は生まれてくる。待ち時間にチェス盤を広げて、エニフェルは白のキングをビアンカに差し出した。市松模様の戦場を彼女に教示したのはエニフェルである。

 そんな思い出をなぞるように、エニフェルは続けた。


「構わんさ。私が教えよう。お前なら直ぐ慣れる」

「火条先輩が……」

「意外か?」

「今まで誰も誘ったことが無いとお聞きしました」


 寮に併設された庭のテラスでエニフェルがチェス盤を眺めていることは、この学園の生徒なら誰でも知っている。なんならエニフェルと関係を持ちたい者が対戦を申し入れたりすることも何回かあった。

 怪訝そうな顔のビアンカに、エニフェルは肩を竦める。


「相手は選ぶさ。愚策を弄する人間が相手なら、一人チェスや詰め将棋をしている方がマシだ」

「……私は初心者ですが」

「だから教えるのだろう?」


 さぁ行くぞ、と。このやり取りは一学年の教室が連なる東棟の廊下で行われていた。故に二人の様子を遠巻きに眺める生徒が多く、中には顔を歪めてまでビアンカを睨みつける輩もいる。

 無遠慮な視線に囲まれて、流石にビアンカも居心地が悪かったのだろう。静かに頷くと、踵を返したエニフェルの後ろを歩き出した。


「そういえば、新入生代表の挨拶をしていたな。とても良かった」

「ありがとうございます」

「外部生であるというのに、試験を首席で突破したのだろう? 学園内で胡座をかいていた奴等にとっては良い薬になっただろうな。まぁ、それでもお前の成績や順位が落ちることはないだろうが」

「……買い被りすぎですよ。皆さんとても優秀で、流石燕神楽学園の方々だと、日々思っています」

「……本当に?」


 にやりと悪戯げに笑ってやれば、ビアンカは気まずそうに目を逸らした。それにククッと喉を鳴らす。エニフェルは授業中のビアンカの様子を何度か見たことがあった。窓側の席で黒板も教師も見ず、退屈そうに空を眺めるビアンカは、面白みのない戦場を前にした時の彼女とよく似ていた。


「お前は優秀だな」

「それが、私に声をかけた理由ですか?」


 ん? とエニフェルは首を傾げる。だってそんな、ビアンカが優秀なんて今に始まった事ではないし。行動原理の決定打には欠けていた。

 それにきっと彼女の頭がチョットばかし抜けていても、エニフェルは彼女を呼んだだろうから。


「違うな」

「なら、何で」

「それは、私に勝ったら教えよう」


 校舎を抜けて寮に入る。男子寮と女子寮の間に造られた大きな庭は、薔薇が主役の英国様式庭園イングリッシュ・ガーデンだ。二人は庭に入り、まだちらほら蕾の目立つ淡い桃色の薔薇ピエール・ドゥ・ロンサールで飾られたアイアンアーチを潜り抜ける。

 レンガタイルが敷かれた小道の両脇にある花壇に咲くのは、白や青、薄藤色の小花と瑞々しいグリーンの葉が引き立てるロゼット咲きの淡ピンクを帯びた薔薇(ボレロ)とカップ咲きの赤薔薇(マザーズデイ)だ。小道の先には、白色の丸いガーデンテーブルと二脚の椅子が置かれていた。奥には濃桃色の薔薇(ラブリー・フェアリー)白色の薔薇クリスタル・フェアリーが絨毯のように咲き誇っていて、複数本あるタワー状の支柱(オベリスク)やアイアンアーチにはビロードのような光沢が美しい濃赤色の薔薇クリムゾン・グローリー、整ったオープン・カップ咲きが可愛らしい桜色の薔薇(セプタード・アイル)がそれぞれ巻き付けられている。


「……やっぱり、いつ見てもすごいですね」

「咲き盛りの時期じゃないから少し不格好だが、この庭は四季咲きの薔薇も多いからな。見応えはあるだろう」

「……もしかして、この庭の薔薇は火条先輩がお世話しているんですか?」

「あぁ。といっても、去年庭師がほぼ完成させていたのを引き継いだだけだけどな。」


 感嘆のため息を吐いたビアンカにエニフェルは頷いて椅子に座る。いそいそとチェス盤を広げた。白と黒の駒がそれぞれ十六個。白の方を渡せば、対面に座ったビアンカが興味深げにキングを手に取った。オーダーメイドのアンティークは美しい王冠と曲線を描く。エニフェルが自分の駒を配置していくと、見様見真似でビアンカも駒を動かした。


 細い指が最後のポーンを摘み、カタリと盤上に置く。エニフェルは人差し指で駒を差しながら、種類、動かせる方向とマスの数、勝敗の決め方などのルールをビアンカに教えた。水縹色の瞳が真剣にその指先を追う。


「……と、まぁ一先ずこんな感じだ。何か分からないことがあったら聞いてくれ」

「はい」

「よし。じゃあ始めよう」


 もう既に頭の中でシュミレーションを始めているのだろう。盤上の上を忙しなく動くビアンカの視線にエニフェルは満足げに微笑むと、先手である彼女に開戦の言葉を告げた。



「チェックメイトです」


 その言葉に、エニフェルはゆっくりと瞬いて敗戦を受け入れた。黒のキングが退き、その場所を白のクイーンが埋める。

 盤上には、プロも顔負けな二人の策略や何十にも重なった陽動がこんがらがった糸のように張り巡らされていた。静かな宣言に反して緊張に強張った身体から、ビアンカは息を吐いて力を抜く。


「流石だな。三戦目にしてもう私に勝つとは。期待通りだ」

「ありがとうございます」


 表情の変化は乏しいが、上気した頬が彼女の興奮を物語っていた。キラキラと輝いた両目も合わさって、エニフェルは少女の影にビアンカを見る。

 薄情だ。そのナリで、彼女はエニフェルを知らないと言う。記憶の消失は僅かばかりの幼さを生み出して、少女本来の愛らしさを増長させた。エニフェルの知らないビアンカだ。お互い出会った当初から、年相応なんて宇宙の彼方に放り投げたか、はたまた御母堂の腹の中に置いてきたかの性格だったので。つまりはそんな、慣れないものを見てしまったら。


「異物感か……拒否反応は出ると思ったんだがなぁ」

「え?」


 記憶のないビアンカは、赤の他人とどう違うのか。

 彼女に声をかけるまで、エニフェルはそんな命題に頭を悩ませていた。四月中旬。ビアンカを見つけた入学式から幾分経った今日でさえ、その答えを出せないでいる。自分がこうやってウジウジ悩んでいる間にアッと記憶を取り戻して「久しぶりですね」なんて言ってくれやしないかと期待したが、世界はそんなにデキちゃいない。

 だというのに要所要所でエニフェルに少女の中のビアンカの片鱗を見せるのだから、意地悪いったらない。エニフェルはもう、ジェーン・ドゥの名前を知っている。


「人格を形成するのは記憶だという。それならお前は私にとって有象無象の一つであるはずだ。けどそうじゃない。笑い方、緊張した時のクセ、授業中の退屈そうな顔」


 盤上に駒を並べる。ポーン、ビショップ、ルーク。


「話し口調、チェスの差し方」


 ナイト、キング。

 エニフェルから見た、ビアンカと少女ーー水無瀬雪乃の共通点。他人と切って捨ててしまうには多すぎて、なのに肝心のピースが嵌っていない。


「お前は」


 カタン、と中央にクイーンの駒を置く。


「前世というモノを信じるか?」


 エニフェルがビアンカと認識している少女の目が僅かに丸くなる。それはそうだろう。突拍子のない話だ。あまりにもファンタジーじみている。けれどそれが一年前、エリーゼの海馬と人格を壊した。


「お前と私は、前世で共にあった。互いが唯一無二だった。炎と氷を携えて、幾つの世界を焼いたかわからん」

「……熱烈ですね。それに随分と物騒だ。ボニーアンドクライドですか?」

「ははっ。言い得て妙だ。だがね、やっていたのは善行だよ。世界を焼いて人類を救う、高尚な人間だった」

「ならなんで生まれ直したんですか。後悔も恨みもないはずだ」

「未練があったんだ」


 未練、とビアンカの口が動く。高尚だなんて言葉で飾ったくせして、随分と俗な言い回しだ。


「お前を残して逝ってしまった。託された想いも希望も無碍にして、戦場に一人お前を置き去りにした」


 目を瞑ればあの戦いの日々を思い浮かべることができた。肌を炙る熱も硝煙の匂いもエニフェルの直ぐ近くにある。


「……正直な話、前世の記憶がある理由は分からん。分からんが、もし私の方に原因があるならソレだろう」


 裏切りも、死にゆく恐怖も、その未練の前では瑣末ごとだった。どうだってよかったんだ。あの日のお前の泣き顔以外は、全てが終わった過去だった。

 けれど目の前の少女は泣き跡を綺麗サッパリ消し去って、ついでに困惑やら嘲弄なんかもなく生真面目に問う。


「じゃあ、私は貴方を。貴方は私を、なんて呼んでいたんですか?」

「……」

「頑なに私の名前を呼ばないのは、別の呼び方をしていたからですよね。構いませんよ。貴方にとってはそれが普通だ」

「……信じるのか?」


 少女はあっさりと頷いて「信じてほしくないんですか?」と首を傾げた。そらまぁ。けれど他人様が聞けば荒唐無稽な話をしてると自覚している。


「笑われるか、否定される覚悟はしてきたんだが」

「無駄になって良かったですね」


 心地よい軽口の応酬は、エニフェルにとって懐かしいものだった。ビアンカとだからこそのテンポの良さに、思わず少女をマジマジと見る。おい、記憶がないふりをしてるわけじゃないだろうな。

 そんな視線の強さに何を勘違いしたのか、「別にイエスマンってわけじゃないですよ」とビアンカは唇を尖らせた。そして数秒黙り込むと、俯いてぽつりぽつりと話し出す。


「夢を見るんです。いつからかも忘れるほど長く、起きたら忘れてしまう夢を」


 大脳皮質や辺縁系を伝ってレム睡眠を支配するソレはいつも悪夢で目が覚める。動悸と息切れ。時たま涙を流してさえいるのだから、花畑でピクニックなんて優しいモンじゃないんだろう。ビアンカはそんな夢に囚われているのだとエニフェルに言う。


「内容も分からないのに、毎朝同じ夢を見たと思う。そして感じるんです。何か大切なものを無くしたのだと。喪失感は消えず、私は理由もなく悲しくなる」


 ココが空っぽだと胸元を握る。くしゃりとベストに皺が寄った。


「寂しいんです。まるで鯨だ。知っていますか? 52ヘルツの鯨の話。私はたった一人で太平洋を横断する。アラスカからカルフォルニアを泳いで鳴き声を上げて、だけど誰にも聞こえない」


 孤独で濡れた視線はビアンカの膝上に落ちた。何かをなくした夢はそのまま、ビアンカに異物感を押し付ける。世界の何もかもとズレている感覚。五感の全てを使ってアラートが鳴る。ココはお前の居場所じゃない!! とけたたましく明滅している。


「海原の底から空を見て鳥を妬む。現実味がないんです。あぶれた気がして、何度も何度も馴染もうとした。でも無理だった。私の目には、どうしたって世界が遠い」

「私もか?」

「いえ……」


 いいえ、と首を振って、ビアンカは顔を上げた。グッと声に力が入る。


「だから驚きました。先輩といる時、私は世界の一部になれる。感覚が違うんです。前世とか、先輩のこと、まだ何も思い出せないですけど。……きっと」


 敬虔な使徒だって、こんなに信じきった顔はしない。間違っても出会って数時間の相手に向ける眼差しじゃあない。エニフェルは頭の端がチリチリ熱気立つのを感じた。ビアンカの赤らんだ顔に加護欲が沸く。

 ガワだけだなんて、誰が。ソレはいつだって隣から注がれてきた。違うことなく右腕の顔で、少女は告げる。


「きっと私は、貴方に会うために生きてきたんだ」


 ぶわりと風が吹いて花弁が舞う。煌々と輝いた瞳は期待と使命感に満ちていた。自然とエニフェルの口角が上がる。


「私はエニフェル」


 自分の名を告げて、そして教える。エニフェルの唯一。この世界で一番美しい名前を。


「そして、お前の名はビアンカだ」


 もう、忘れてくれるなと言うように。


第三話を読んでくださりありがとうございます!

面白いな、続きが楽しみだな、と少しでも思ってくれたら幸いです。

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