プロローグ『終わらない冬の夢を見る』
怒号と爆発音。硝煙と鉄の匂いが鼻腔を貫いて、思わず顔をしかめた。神秘の乱列で狂った白緑色の空の下で、肉塊と石屑の上を走ったその先で。
黒鍵の木々の中、海へと続く道なき通路。黒髪の少女と金糸の髪の少女が二人、並んでその入り口の前に立つ。
「このまま、振り返らずに走ってください。ミシュルが船を用意して待機しているはずです」
金糸の髪の少女、ビアンカが言う。この言葉が、彼女にとってどれほどの苦渋を与えているのか知りながら。それでも、言わなければならない。告げなければならない。これは誰でもない、ビアンカの役目だから。
ーーマザー・リリィが世界の敵となった。
そう高らかに宣ったのは、共に背中を合わせ、世界を救ってきたはずの魔術師達であった。身に覚えのないリリィとマザー達の、困惑と絶望の顔が頭を過ぎる。誰がどう見ても一方的な裏切りで、それでもマザー達は話し合いを訴えた。
その声が届くことはなかったけれど。
ビアンカ達はマザーではない。だが彼女達に似ているその性質から同一視され、魔術師達の標的になった。
多くの仲間が散っていった。かつて世界を救った身で、世界の敵となった自分達は抵抗も空く蹂躙された。
しかしまだ、無様に頽れるわけにはいかない。自分達を統べる唯一。真紅を埋める双眸をまだ、無機質な宝石にはしていないのだから。
「……お前はついてきてくれないのか?」
「私は、ここで。この入り口を通すわけにはいきませんから」
眉を下げて微笑みながら尋ねる黒髪の少女、エニフェルにビアンカはいっそ冷酷なほど、決然と言い切る。背を向けた。彼女に向けて。
一歩踏み出す。これから来るであろう敵に向けて。
「わかった」
全てが詰まった了承だった。それを推し量ろうなんて傲慢だ。恥じるべきだ。
仲間達に、死んでこいなんて指示を出して。なにも言わなくなった通信の先に激昂して。そして右腕から、お前だけは逃げろなんて言われた彼女の気持ちなんて。
後ろから、ふっと息を漏らす音が聞こえる。腰に下げた鞘から真白の剣を引き抜いた。いつかの日、彼女がくれた細剣だ。柄に描かれた真紅の薔薇は、彼女の大剣に彫られた白薔薇の装飾と揃いである。
闘志を漲らせた。今にも将の首を狩ろうとする憎き怨敵に向けて。持ちうるすべての力を、技術を、殺意を。奴等の注意を、全てこの身に引き受けるぐらいの立ち回りを。ここで止める。その為に、自分は一人残ったのだ。
最後の砦である自分は。
彼女の右腕である自分は。
後ろで駆け出す音がする。彼女の気配が遠ざかっていくことに安堵して、ビアンカは不遜に微笑んだ。切先を向ける。目の前には、魔術師の大群が姿を現していた。
◇
ーー彼女をあの通路の中に逃して、どれくらいの時が経ったのだろうか。多勢に無勢。片足を吹き飛ばされた身体が倒れ込む。いくつもの杖が自分に向けられるのを感じた。長さも形も様々な杖は、魔術達が魔法を扱う為の必須武器だ。彼等のせいで自分達魔法少女は魔法を使えなくなったのに、理不尽さに悔しくなる。
けれどビアンカの顔には微笑みが浮かんだ。逃げようとはしなかった。後ろには守るべきものがいるだけだったから。後退なんて、選択肢にもなかったのだ。
だから、今目の前で起こっていることを、ビアンカは理解できなかった。
「ーーえ」
黒髪が、細い体躯が視界に映る。自分に向かうはずだった、この身を貫くはずだった攻撃を一身に浴びて、それでもなお、こちらを振り向いた彼女は、悠然と佇み微笑んでみせた。
そして、咆哮。
「正義を謳う者どもよ! 私はここにいるぞ!」
瞬間、その小さな身体が敵の中へと切り込んだ。片手に掴んだ漆黒の大剣を振るい、目にも止まらぬ速さでビアンカに杖を突き付けていた魔術師達を切り伏せていく。
「エニフェル……どうして!」
彼女は、あのまま逃げおおせたはずだ。自分は、その反対方向に走ったはずだ。
あの通路に立ち塞がって、敵を迎え撃った自分は、彼女の元へ奴等が行かないよう剣をふるった。だから、あり得ないのだ。彼女が、エニフェルが、ここにいるなんて。自分を、庇っただなんて。
「逃げてくださいエニフェル! どうして戻って……っどうして!!」
震える声で叫ぶ。守れたはずだと安堵しきっていたビアンカにとって、目の前の事態は受け入れがたい惨状だった。
魔法の力を封じられた自分達はあまりにも無力で、万全の力を向ける魔術師達に敵うはずがない。
ない、のに。
「どうしてだと!? ああそうさ! きっと私はどうかしていたんだ! こんな簡単なことも分からないで、馬鹿正直に一人のうのうと生き延びようとしていたのだからな!!」
ビアンカに叫び返しながら、エニフェルの勢いは止まらない。
悲鳴が聞こえた。次いで困惑の声も。致死量の攻撃を受けても尚戦場を駆けるエニフェルの存在が、魔術師達に恐れを産んだのだ。その身体は当然ながらボロボロだった。赤色の軍服は所々が破れており、傷ついた肌が晒されている。血にまみれた腕の先は、滑らないように剣と手を口で切り裂いた袖が繋いでいた。
それでも、エニフェルが纏う圧倒的な気迫は有利な立場にいる筈の魔術師達に二の足を踏ませた。勝てないと、一瞬でも思わせた。
その一瞬が、彼等の命取りになる。
「ひっ……。来るな! 来るなあ!!」
「魔法は! 魔法は使えないはずだろう!? 何故そこまで動けるんだ!」
ビアンカにとってそうであるように、魔術師達にとっても、エニフェルの乱入は混乱をきたすには充分だったらしい。状況が理解できていない彼等を、エニフェルは一人、また一人と切り捨てていく。前から来る男に剣を投げて黙らせ、振り向きざま背後を取ろうとしていた女の顔に拳を叩きこんだ。懐から取り出した煙幕弾を地面に叩きつけると、パンっと弾ける音がして辺りを白い煙が覆う。土煙が舞い視界が眩むそのすきに、エニフェルは投げた剣を死体から抜き取った。気配を感じたのか、エニフェルを挟んだ男二人が火球を放つ。だがそれをエニフェルは難なく避けた。炎は軌道を変えることなく、対角線上にいた互いの命を容易く奪う。
不明瞭な視界で倒れた死体を見とめた魔術師達に、恐怖の色が伝染した。狙いを定める照準に迷いが生じる。同士討ちを避けた攻撃は避けやすく、エニフェルは踊るように立ち回り魔術師達を屠っていく。
「笑わせるなよ魔術師共! 私達は前を向くことを止めはしない!」
吠えた言葉は、地球上のどんなものよりも力強く響いた。
ビアンカは瞠目する。エニフェルの、最後の演説が始まろうとしていた。観衆は誰もいないのに。残っているのは、立ち上がることもできないビアンカだけなのに。
「奪われてばかりだった! 幸せも! 安寧も! 夢の溢れた未来ですら!! 私達は最初から、何も持たされてはいなかった!! それでも走るんだ! 知ったことかと唾を吐くんだ! 何故ならそれは、足を止める理由などにはならないからだ!」
首筋に入れた剣が動かなくて、錆びついた刃に舌打ちをする。ならばと首から上が飛んでよろめいた死体が帯刀していた剣を引き抜いて、エニフェルはそのままもう一人を切りつけた。
その男こそ、この多勢の長だったらしい。からんと刃の折れた剣が音を立てて地面に落ちる。
死体の山の上で立っているのは、忙しなく肩を上下させるエニフェルだけだった。
途端、エニフェルがぐらりと傾く。力尽きて仰向けに倒れたエニフェルからは、ヒューヒューとか細い息の音が聞えた。
「え、にふぇる……っ!」
感覚のない足を引きずって、腕の力だけでビアンカはエニフェルのもとへ辿り着く。傷だらけの身体を見下すビアンカを、エニフェルが僅かに開いた両目に映した。
はくりと口を戦慄かせる。
「どう、して……」
やっと出した声は、どうしようもないくらいに震えていた。傷口から流れ出る血が、地面に大きな楕円の血溜まりを作り出す。エニフェルの身体を空ける傷の、その全てが致命傷だった。
彼女はビアンカを見上げて、それからくしゃりと笑う。眉を下げた、あまりにも下手くそな笑顔は、長年隣にいたビアンカでさえ見たことのない表情だった。
「あそこで、生き抜けたと、して……その後、勝てたとして……」
震える腕を持ち上げて、ビアンカの頬に手を添える。声を出すのも辛いのだろうか。穴が空いた肺に届くように、長く息を吐きながら彼女は言う。
「お前、が……お前達がいない……戦場の、何が楽しいっていうんだ……っ」
「ーーっ」
この戦場が、敗戦になると気づいた時、自分を含む仲間達が考えたのは、どうやってエニフェルを生き残らせるか。それだけだった。
全員が、彼女に救われた身だったから。
全員が、彼女の負ける姿を見たくなかったから。
だから、エニフェルにもそのように言ったのだ。エニフェルさえ生きていれば、負けではなくなるだろうと話して。そしてそれを、彼女も了承したはずだった。お前達がそう望むなら、弔い合戦も悪くないと不敵に笑って。
今までずっと、自分達に進むべき道を示してくれていたその瞳がゆらりと光る。彼女の目尻から一筋の滴が落ちた。歪な笑顔をそのままに、エニフェルは泣いていた。
「何も……楽しくないんだ。きっと、お前達の墓標を背負っての戦いは。何一つ、心が湧かないんだよ」
仲間達の死を受け入れていた時でさえ流さなかった涙を、エニフェルは瞳からポロポロと溢れさせていた。その姿を、ビアンカはただ見ているだけしかできない。
「エニ……エニフェル……いや……!」
「ふふっ。お前に救ってもらった命だ。こうして散らすのが道理というものだろう。……あぁ、だが、すまないな、ビアンカ。お前を、置いていく」
ビアンカの行為を無駄にした事を詫びて、エニフェルが笑う。
ビアンカは必死に首を振って、ただ壊れたように「いやだ」と繰り返すことしかできない。
救われただなんて、こちらの台詞だ。
貴女が自由に手を伸ばしたから。その片方で、私の手を握っていてくれたから。
頭上に広がる白緑の空なんかよりも美しい、あの日見た蒼穹の空が目に浮かぶ。
私は、貴方に生かされたのに……!
やがて彼女はゆっくりと目蓋を下ろした。添えていた手がだらりと落ちる。
ビアンカは力の入っていない彼女の手を握って、何度もエニフェルに呼びかけた。
ザクッと地面を踏みしめる音が響く。魔術師達の増援か。だが近づく気配も、胎動する神秘の音にも、ビアンカは気づかない。
喉が締まる。絞り出した声は引きつっていた。
「いや……いやです! エニフェル、起きてください! 起きてっ、お願いっ……!」
彼女の身体に縋りつく。その身体から、心音が聞こえないと知って。その口から、息が吐かれていないと知って。その瞳が、二度と自分を映すことはないと、知って。
「い…………いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
閃光の魔法少女の割れる音を聞いた。
歌詠の魔法少女と死生の魔法少女の濁る音も。
毒喰の魔法少女と猟犬の魔法少女の別れの言葉も。
月の魔法少女と宵闇の魔法少女の互いに向けた発砲も。
疾風の魔法少女の吐血混じりの激励も。
エニフェルの横で聞いていたんだ。彼女達が自分になにを期待しているのか。
あいつを頼む。そう言った黄金の瞳が脳裏をちらつく。ビアンカは、彼女達の想いに応えなければいけなかったのに!!
死んでいった仲間達の、色とりどりの瞳がビアンカを責めるように見ている。絶望することさえ許さないと。そんな権利などないとビアンカを睨み付けていた。守るべき主君に庇われて、何が絶対の盾だと。
「抵抗するな。白銀の魔法少女」
割って入ったのは、険しい顔でこちらを睨み、杖を突きつける痩躯の男だ。
ビアンカを囲う者達もまた、同じような表情でこちらを見ている。ビアンカはそれを、流れ続ける涙をそのままに諦観の瞳でもって見上げた。
「世界の敵である貴様等は、しかし世界を救ったという功績もある。だから」
狙いを定めた杖先が赤く光る。
「苦しまずに送ってやろう」
ーーその時、拒絶の魔法少女の砕けた音が聴こえた気がした。
「……黙れ」
ビアンカの声は、震えていなかった。
訝しげに眉をあげる男を、水縹の瞳が射抜く。涙に濡れたその双眸の奥には、轟々と冷たい炎が揺らめいていた。
「私は、逝けない……。逝けるわけないっ」
罵倒されてもいい。蔑まれても構わない。この命を散らして、彼女達のところに逝けるなら、それはどんなに幸福な事だろう。再会を夢見て眠るそれは、どんなに。
あぁ、それでも。
「ーー凍れ」
途端、冬の魔素が吹き荒れる。ビアンカの目前に迫っていた、その命を狩らんとする魔術師達の魔法は一瞬にして凍てついた。
「凍れ! 凍れ! 全部全部、凍ってしまえ!!」
幸せだったんだ。彼女達と生きたことは。
強大な力を宿した石と、只人を融合させ更なる高みへいこうとした非人道的な実験の果てで。人間でも、魔女でもない。そういう身体にされた自分達を救いあげてくれたのは、他ならないエニフェルだった。
自身も変貌した身体を持ちながら、それは恥ずべき事ではないと。胸を張れと、そう語ってくれたのは。
膨大な魔力に風が吹き荒れ、地鳴りが響く。胸内の宝石が熱く輝き、バチバチと音をたてて、ビアンカの周りに色とりどりの火花が咲いた。
「白銀よ! 全てを積雪の底に沈めてしまえ!! 白銀よ! 全てを氷像に変えてしまえ!! 凍てついた世界に、光など必要ないのだから!!」
「なにをーー!?」
声よ枯れよと叫んで、創り出すのは白銀の園。生きとし生きるもの全てが凍る、光さえ届かない極寒の世界。
そうだ。自分達から、未来の全てを取り上げておいて。唯一無二を奪っておいて。燃え盛る炎を消し去っておいて。当然のように明日を迎えるなんて。そんなの、許せるわけないだろう!
彼女のところへ逝くよりも、するべきことがあった。守るべき主君を失った盾は、その姿を剣へと変える。
詠唱というには御粗末な、暴力的な想いの羅列。込められた意味も意図もないそれに、しかし世界の事象は応えた。
ビアンカの背に、無数の魔法陣が展開される。そこから撃ち出される氷槍が、彼女の敵を貫いた。悲鳴と共に逃げ出す者達を、しかしてビアンカは逃がさない。空を覆い隠す程の途方もなく巨大な銀色の魔法陣が、ビアンカの頭上に描かれる。ビアンカとエニフェルを乗せた地面から、ぱきっ…と乾いた音がした。冷気があたり一帯を包み、やがて魔法は完成する。
ーー広大な世界で、たった一人を守りたかっただけだった。
「それすら出来ないと……言うのなら!!」
地獄へ向かおう。私が統べる雪の地獄へ。
あの人達の元へは逝けないけれど。逝く権利すら、自分は持ち合わせていないから。冷たい氷の棺は、きっと夢さえ見せてくれないだろうけれど。それでも。
凍らせてしまおう! 閉じ込めてしまおう! 敵も、仲間も、この日でさえも!!
「大いなる冬に! 代償は、私の全てだ!!」
「ーーっは!! ……はぁ、はぁ」
水無瀬雪乃は無意識に突き出していた右手を、荒ぶる心臓はそのままに呆然と見つめた。ベッドの上で上体を起こして、汗を吸ったパジャマの上から胸元をぎゅうっと掴む。
「……また、この夢」
朝はいつも、心臓が破裂するんじゃないかってくらい音を刻んで、雪菜は言いようのない悲しみに苛まれる。それなのに。
「でも、何の夢だったのか……いつも思い出せない」
俯いた拍子に、長い金糸の髪がさらりと揺れる。水縹色の両目が影を落とした。
何かを忘れていて、それがひどく大事であることのように感じるのに、一向に思い出せない。雪乃はため息をついた。無駄だと知りつつも、何も今日見せなくてもいいじゃないかと辟易する。顔を上げて部屋を見渡せば、実家にある自室とは違い家具の一つも置いていない簡素さが目についた。開けられていない段ボールが目立つ。そして壁のフックには赤色の制服がハンガーでかけられていた。慣れない寮生活だが、だからこそ期待が高まるというもの。
四月八日。今日は、雪乃が燕神楽学園に入学するその日である。
プロローグを読んでくださりありがとうございます!
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