第十七話『炎に照らされた闇の夢』
赤色の瞳がまるで燃えているように見えたから、最初、彼女を炎だと思った。
『随分粗末なところだなぁ。神殿だと聞いてきたんだが……』
炎が肩を竦める。
私は頷いた。
そう。ここは神殿。夜と闇を統べる大蛇が、どくろを巻いて世界を見下ろす為の場所。願いを聞き届けられる場所。
村が信仰する蛇神が祀られた大きな祠。
老若男女、誰彼構わず頭を床につけさせて、壊れたおもちゃみたいにおんなじ事を大仰に宣う。
我らを守りたまえ、我らを守りたまえ、我らをーー。
…………。
聞き飽きたそれを、炎は言わずにどかりと腰を下ろした。
二つの燭台だけが頼りな灯りの中で、けれど爛々と輝く瞳はよく見える。
『あぁ、だが。情報に偽りはなさそうだ。……お前、名前は?』
私を検分した眼差しが満足そうに緩んで、そんな事を聞くのだから驚いた。私自身のことなど、誰も興味を示さなかったのに。
取り上げられたものを大事にしていたのが悪かったのか。忘れたふりをしていたことがバレたのか。
ならば炎は、この身を断罪しに来たのだろうか。
名を告げれば舌を抜こうと言われた気がして口をつぐむ。
『ふふ。そう警戒するな。私はエニフェル。異邦人だ。村の信者じゃない』
炎ーーエニフェルはそう言って、再度名を問いかけた。
しかし、私には分からない。彼女は蛇神に用があるわけではないらしい。ならば何をしに来たのだろう。
自分に何を望むのだろう。
蛇神を除いて仕舞えば、この体は伽藍堂でしかないと教わった。
朝を知らないで生きてきた。
月を知らずに夜を過ごした。
物心ついた瞬間から、この神殿に祀られた。
私が異端だったから。その指一つで影を操り闇を広げ、世界を黒く染める力を持っていたから。だから誰もが私を忌み、そして崇めた。
父が言う。
ーーお前は選ばれたのだ。
母が言う。
ーーお前は蛇神様の写し身。
村の人々が口を揃える。
ーーこれで村は豊かになるぞ。
そうして私は神様になった。
『ん? もしや名前がないのか? 土着信仰はこれだから厄介なんだよな。ならあとで一緒に考えよう。ひとまず』
炎が燃える。真っ直ぐこちらを見て、灼熱は闇を照らそうとする。
『ここから出よう。名もなき少女よ』
…………。
なんだって、今更。
『無理だよ』
朝を知らないで生きてきた。
月を知らずに夜を過ごした。
物心ついた瞬間から、この神殿に祀られた。
だから、当然のように神殿の外を夢に見た。いつかここから抜け出して、自由に旅をするのが夢だった。
脱走を幾度図り抜け出して、何度村の大人達に連れ戻されても。猟犬に噛まれ足枷は重く罰として絶食を強いられても。
それでも次こそはと考えるほど、世界は色鮮やかでこの心を惹きつけて止まない。
一度目で、陽の光があまりにも暖かいと知ったから。
二度目で、月の光があまりにも優しいと知ったから。
鳥の声が、肌を撫でる風が、足をくすぐる草の葉が。
けれど。
『ここから出ることなんてできない。……出来ないんだよ』
全部、遠い過去のことだ。
私はその幽霊のように白くなった自分の手で、足を捕える錘を撫でる。
『だから帰って。……もう来ないで』
長い幽閉の年月は、夢見る心を折るには十分過ぎた。
蛇神に額ずきながら、写し身に暴行を与える村人達の恐ろしさを、エニフェルはきっと分っちゃいない。
『……そうか。だがな、諦めるなよ蛇神の少女。お前一人で駄目なら私がいる。二人で駄目でも、私の仲間が助けてくれる。私はお前を、ここから出すと決めたんだ』
やめて欲しい。そんな力強い声を、眼差しを向けられてしまっては。
『思考を止めるな。お前は手足を糸で繋がれた木偶人形では無いだろう? 停滞に身を委ね、傀儡になどなってくれるな!』
消した筈の希望が。夢の灯火がつきそうになってしまうから。
『……どうして、そこまで』
『気に入らないのさ』
フン、とエニフェルは鼻を鳴らす。
そしてパチンっと指を鳴らした。彼女の手の平から溢れた炎が、部屋全体を照らし出す。
燭台の火の明かりが霞んで、壁の影が大きく揺れた。灼熱といって相応しいのに、春の日差しのように温かい不思議な炎。
違うことなく、自分と同じ異端の力だ。
『ーー!?』
『仲間にしようと思った女が早々に諦観していた私の気持ちがわかるか? 顔馴染みを除けばほぼ初めてのスカウトだぞ!?』
『……え、えぇぇ』
地団駄を踏むエニフェルに、驚愕が一気に萎んで力の抜けた声が出た。
大層な理由を期待したわけではないが、あまりな物言いに回り回って吹き出してしまう。
使ってこなかった声帯が震えて痛むのに、信じられないほど胸が軽い。
そしてまだ、自分が笑えることを知ったから。
『レイ』
『お?』
『自分でつけたの。良い名前でしょ?』
誰にも呼ばれたことのない、誰も知らない名を告げる。
未だ咲かぬ蕾の花。
指先が躊躇う。けれど駄目なのだ。もう既に、世界への羨望は生き返ってしまったのだから。
迷いを振り切って、私はエニフェルへと手を伸ばす。
『ここから出してよ、エニフェル』
『あぁ。任された!』
勝ち気に口の端を釣り上げるエニフェルの、その手に触れてーー。
「ーーえ」
柔らかなベッドに横たわるビアンカの顔を、暖かな日差しが照らす。
けれどその眩しさに瞬くことなく、ビアンカは天井を凝視していた。外から聞こえてくる小鳥の囀りが、ビアンカに朝の始まりを告げる。
「……夢」
呆然と呟きながらも、右手は知らず胸元を掴んでいた。心臓がバクバクと脈を打つ。
上体を起こして、先ほど見た夢を思い出そうとして、ビアンカは息を吐いて項垂れた。
「……どんな夢、だったっけ」
淀んだ諦めを塗りつぶす、鮮烈な期待。
ただそれだけが確かに心に残っているのに、肝心の内容が思い出せない。
であるならば、前世の夢だったのだろうか。それにしては、いつもと感じが違う気がする。
気落ちしたまま窓を見やって、ビアンカは両目を驚愕で見開いた。
「え、なっ……」
目を手の甲で擦って自身の視界を疑うも、依然光景は変わらない。
「なんですかこれぇぇぇ!??」
窓の外、パリの街の向こうを、まるで宇宙のようなベールが囲っている。
窓を開ければ、街中からビアンカと同じく困惑した人々の声が聞こえてきた。
こちらの方が夢なのではないかというほど現実離れした光景が、瞬く間に“思い出せない過去”からビアンカの意識を奪う。
ベールはパリを超え、ずっと向こうまで続いていた。
絶叫を上げたビアンカの声を聞きつけて、エニフェルが寝室に顔を出す。
「お、起きたか、ビアンカ。私がちょっと見てくるから、お前は和子さんと一緒に居てくれ」
「え、ちょっ。エニフェル先輩?!!」
そして挨拶もそこそこに、エニフェルは背に赤色の翼を生やすと「じゃ!」と窓から飛び立った。
ビアンカの制止の声は届かず、だんだんとエニフェルの姿が点になっていく。
「な、何がどうなってるんですか……」
途方に暮れたビアンカの声は、混乱しきったパリの喧騒に掻き消えた。
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