わたくしの心は憎しみも枯れ果てて、冬の大地のように、地の底に落ちてしまった。
「愛しいイレーシア。もうすぐ私達の結婚式だね。とても楽しみだ」
背後から、婚約者のアレク第二王子が抱き締めてくる。
2年に渡る婚約期間が過ぎて、来月結婚すると言うのに、まるで幸せを感じない。
感じるのは憎しみだけだ。
アレク第二王子はそれはもう、美しい銀の髪に青い瞳の王子である。
夜会でも浮名を流し、色々な女性と付き合うような男性であった。
イレーシア・ロイディル公爵令嬢。
イレーシアとアレクは同い年で20歳。
名門ロイディル公爵家に婿入りという事で2年前に婚約が結ばれたのだ。
イレーシアと婚約しても、アレク第二王子は他の女性達とイチャイチャすることをやめなかった。
この王国では17歳から社交界デビューをする。
美しいアレク第二王子は、女性にモテた。
「わたくしと踊って下さいませ」
「いえいえ、わたくしと」
「本当に美しいですわ」
イレーシアと婚約を結んだ後も、令嬢達の誘いは変わる事は無い。
イレーシアは悲しかった。
ロイディル公爵家の令嬢ならば、公爵家の権限を使って、他の令嬢達にアレク第二王子に近づくなと注意を促す事も出来る。
だが、アレク第二王子から釘を刺されたのだ。
「君はそんな狭量な事はしないだろう?私は色々な女性と遊びたいのだ。なぁに。結婚したら君を尊重するよ」
そう言って、婚約後も最初のダンスだけは共に踊るが、彼は他の令嬢達の方へ行ってしまう。
いつも取り残されると、決まって王妃アデラがやってきて、
「申し訳ないわね。遊びたい年頃なのよ。結婚したら貴方を尊重するはずだから許してあげて頂戴」
「はい。王妃様」
悲しくて悲しくて。
アレク第二王子と婚約を結べると聞いた時、嬉しかった。
月のように美しいアレク第二王子。
皆の憧れのアレク第二王子が、家に婿入りしてくれると言うのだ。
彼に愛を囁かれたい。
彼の腕に抱きしめられたい。
彼に彼に彼にっ……
現実はどうだろう。
彼は今、違う令嬢とダンスを踊っている。
その令嬢を見て、愛し気に微笑んでいる。
誰にでもその視線を向けないでっ。
婚約者はわたくしなのよ。
あまりの悲しさに、逃げ出したかったのだけれども、一人で帰る訳にはいかない。
ただただ、この地獄のような時間が早く終わればいい。
夜会のたびにそう願うイレーシアであった。
イレーシアは社交が苦手だ。
人づきあいも下手で、友と呼べる人もいない。
父ロイディル公爵に、
「お前とアレク第二王子殿下が我が公爵家を継ぐ事になる。社交が苦手だなんて言ってはいられんぞ」
「解っております。お父様」
そんな中、決定的な事件が起きた。
とある伯爵家の未亡人の家に泊り、アレク第二王子が一夜を過ごしたというのだ。
明らかな不貞である。
しかし、婚約破棄をこちらから言い出せなかった。
王家に頼まれて結んだ婚約。
独身時代の不貞は大目に見てくれ。
それが王家の考え方だったからだ。
アレク第二王子とふたりきりのお茶会で、謝る事は無く。
「彼女があまりにも魅力的だったから。独身時代の遊びは目を瞑っておくれ」
悪びれる事もなくそう言ったのだ。
心が壊れていく。
こんな酷い人とわたくし結婚しなければならないのだわ。
そして思った。
今の自分はとても非力だ。
でも、結婚したら……
心に憎しみの炎が灯るのを感じた。
彼は他の女性達と褥を共にするようになった。
激しくなっていく女遊び。
そのたびに憎しみの炎が大きくなっていく。
それでも婚約破棄は出来ない。
そして、ついに結婚式をする日になってしまった
結婚式は盛大に行われた。
王宮の広間で、皆に祝われて、アレク第二王子は、イレーシアの腰を抱き寄せて嬉しそうに微笑む。
イレーシアも幸せそうに微笑むが心は氷のように冷え切っていた。
そして、結婚式が終わって、ロイディル公爵家で過ごす初夜。
イレーシアはドレスを着こんで寝室に現れた。
ベッドで待っていたアレクに向かって宣言する。
「貴方の種もいらないわ。好きに遊んでよろしくてよ。わたくしは貴方と褥を共にするつもりはありません。だって貴方、色々な女性と遊んだのでしょう?わたくし病気になりたくありませんもの。でも、王家は貴方を公爵家に婿に迎えろという。婿に迎えてあげたわ。貴方が使える予算内で好きに遊んでよろしくてよ。仮面夫婦でこれからは過ごしましょう」
アレクは慌てたように、
「私は病気になっていないと診断されている。君と結婚したんだから、これからは遊ばない。君一筋で生きるよ。だから機嫌を直しておくれ。だって君は私を愛しているのだろう?」
「愛している?王家に頼まれたから仕方なく迎えただけですわ。例え愛している心があったとしても、この2年ですっかりなくなりましたの。貴方、色々な女性と褥を共にした。幸い、子は出来なかったみたいだけど」
「避妊はしたさ。独身時代の遊びだ。なら言うけれども、他の貴族の男性は結婚したって愛人を持っているだろう?私は君一筋で過ごすと言っているんだから」
「貴方は婿入りでしょう?愛人を持っているのは当主だからですわ。でも、貴方に与えられる予算範囲でなら愛人を囲ってよろしくてよ。わたくしとは社交界で夫婦として出席する義務さえ果たしてくれれば」
「跡継ぎはどうするんだ?」
「種は貴方でなくてもよろしいでしょう。他の男性に種を貰うわ。貴方を公爵家に迎えて婿にした。それでよいのでは?」
「王家の血筋をこのロイディル公爵家に入れるが為の結婚じゃないのか?」
「わたくし、病気になりたくはありませんもの。貴方が色々な女性と関係を持ってうつったであろう病気をわたくし貰いたくありませんわ。だったら他の方の種を貰った方がよいというもの」
背後から抱きしめられた。
「私は病気を貰っていない。意地を張らないでおくれ。私は君を愛しているよ」
「わたくしの愛は、とっくに無くなりましたわ」
氷のように冷え切ってしまって。
憎しみも深いと、地獄の底のように、心が冷え切ってしまうのよ。
イレーシアは寝室を後にするのであった。
アレクは両親に訴えたようだが、国王と王妃は、
「わしから公爵家に苦情は入れるが…‥」
王妃が一言、
「イレーシアの機嫌を取りなさい。いいですね」
アレクはイレーシアの機嫌を取って来た。
しかし、イレーシアは冷たくアレクを突き放す。
「貴方とは社交の席で出かけない限り、一緒にいたくありません。貴方は離れで暮らして下さらない?目に入るのも嫌ですわ」
そう言って離れに押し込めた。
王家から苦情を言ってきたが、父ロイディル公爵が、
「婿入りさせてやったのです。それでいいでしょう」
と強気で突っぱねた。
イレーシアは王都を離れ、領地で過ごすことにした。
王都の離れにアレクを押し込めたまま、領地で忙しく仕事に励んでいたら、まるで気にすることがなくなった。
王都に社交に行かなければならないが、それは両親に任せて、領地で仕事に打ち込んだ。
3年が瞬く間に過ぎ、久しぶりに王都の屋敷を訪ねてみて、離れから人がこちらに歩いてくるのを見て、やっと思い出した。
「イレーシア、待っていたよ。帰ってきてくれて嬉しいよ」
やつれた様子のアレクに向かって、
「どなただったかしら?」
「君の夫だよ。夫のアレクだよ」
「ああ、すっかり忘れていたわ。王都での用事がすみましたらわたくし、領地に戻ろうと思いますの。貴方に用はないので、失礼致しますわ」
追いかけてこようとしたので、使用人達に連れて行ってもらった。
過去にあの人に恋をした事があった……ふとその頃の熱い思いを思い出したけれども、それと共にさんざん浮気されてないがしろにされた事を思い出すと心がすうううと冷えていく。
わたくしの心は憎しみも枯れ果てて、冬の大地のように、地の底に落ちてしまったんだわ。
翌年、彼が病で亡くなったと聞いたけれども、何の感慨も持てなかった。
簡素な葬式をし、王家が引き取りたがったので、王家に引き渡して、王族が眠るという墓地に埋葬して貰った。
その後、未亡人になったイレーシアは、再婚もせずに親戚から養子を貰って、公爵家の為にひたすら働いた。
養子が成人して、公爵家を継いだ後、家を出て小さな屋敷で暮らした。
慈善活動をしていたら、学生の頃の知り合いに再会し、茶飲み友達になった。
そしてその彼と再婚した。
彼はイレーシアに向かって、
「君の前夫は大変な遊び人だったって聞いている。君の心は傷ついていたんだね。だから、再婚も今までしなかった。私と人生を共にしてくれるなんてとても嬉しいよ」
「傷ついていたのかもしれないわね。でも当初感じていた憎しみも冷え切って、地の底に落ちてしまって。何も感じなくなってしまったの。あの人が亡くなっても涙も出なかったわ。貴方はわたくしと共に教会の子供達に優しく接してくれた。わたくしをとても気遣ってくれた。地の底に落ちてしまったわたくしの心に再び芽吹かせて花を咲かせてくれた。わたくし、貴方を愛しているわ」
「私も君を愛しているよ」
イレーシアは夫を抱き締めた。
イレーシアは夫と共に幸せな一生を送った。
たまに知り合いから、前夫の話が出ると、
「あら、そんな人もいたわね」
と、何の感情も見せずに、隣の夫を愛し気に見つめながら、知り合いと楽しく別の話を続けたと言う。