29.最後の依頼
「手、だと……?」
「はい。私にはママ譲りの『ちから』があって、残ってる記憶を感じることができるんです」
「ユリアナ譲りの……?」
彼女はこくんと頷く。
「ママはでも、そこまで『ちから』は強くなかったですけどね」
「そうか……私は、その話は聞けなかったから」
ルイスの瞳が悲しげに翳る。
「でも、ママが他の人には『ちから』について話しているのを聞いたことがありません。だからやはりお父さんは特別だったんだと思います」
そう言えば、ルイスの瞳が潤んだ。
「私に、お父さんの記憶を視せてください」
ルイスは、一瞬たりとも躊躇わなかった。
「もちろんだ。なんでも、視てくれ」
フィオナは口元に笑みを浮かべ、アッシュを振り返る。
「伯爵様、お願いしてもよろしいですか……?」
「俺が……視ても、いいのか?」
そこでアッシュが躊躇った。
「もちろん。伯爵様にも視ていただきたい――お父さん、伯爵様にも『ちから』があって、彼と手を繋ぐと私の『ちから』が強くなるんです。彼にも記憶を視てもらってもいいですか?」
ルイスに説明すると、うん、と頷かれる。
もとより一緒に現れたアッシュのこと、なにか事情があると察していたのかもしれない。
アッシュがやってきて、フィオナの手を握る。彼に手を握られるのは、いつものように心強い。
それからフィオナは差し出された父の手を握った。生まれて初めて握った父の手はごつごつしていて、かさついていた。けれど、しっとりと自分の肌に馴染む感覚がある。
ふわりと浮遊感が漂い、目の前が青みがかる。
『ユリアナ……!』
若かりし頃のルイスの呼びかけに、母が振り返り、本当に嬉しそうに微笑む。
会話は聞こえてこないが、表情だけで十分だ。それだけで、二人がどれだけ想い合っているかが伝わってくる。
幸せな時は儚く過ぎ去り、突然の別れ。母の置いていった手紙を握り締め、慟哭する父の姿はあまりにも痛々しい。時間があれば遠出をして愛する女性を探し回り、徐々に憔悴していくルイス。よもやと思ってダルカン共和国の国境にまで足を運ぶ。
だがどこにも母の姿はない。
がっくりと肩を落とし、絶望を深めるルイスの姿。
一心不乱に愛する女性を探す彼を心配する周囲の人々の気持ちも痛いほど伝わってくる。
『すまない。私は愛した女性も幸せにできなかった不甲斐ない男なんだ。恋愛には向かないよ』
言い寄ってきた女性をそうやって撥ねつける姿は、凄まじい悲しみだけが漂っていた。
契約結婚をした女性と式をあげた夜に、ユリアナとの対の指輪を握りしめながら号泣するルイス。仮初の妻と夜会に赴くたびに、浮かべている笑顔がひび割れている。周囲を欺きながら生きることは、ルイスにとって罰のようなものだった。孤独と焦燥の日々。
ようやく約束の期日がきて、妻を恋人の使用人と共に送り出し、そして一人きりの夜に彼が眺めるのは、ユリアナとの対の指輪。それは何年も変わらない彼の習慣となる――……
どこを視ても、母を求める父の姿しかなかった。
(お父さんは本当に……ママを愛している……!)
フィオナがぱちっと瞬くと、目の前には今のルイスが座っていた。
今の彼と、泣きながら母を求めている父の姿が重なる。
「お父さん」
衝動のまま、フィオナは口を開く。
父は本当に、フィオナが生まれたことを知らなかった、と信じられる。もし子供がいると知っていたら、探し出すのを到底諦めたりはしなかっただろう……今までもユリアナと再会できるだろう日をよすがに生きていた人なのだから。
(ママの代わりに……、私が言うわ)
「これからは、ご自分の幸せを考えてください。ママは……絶対に貴方を悪いようには言いませんでした。ずっと変わらず貴方のことを想っていました。そのママの分も、どうか……生きてください」
彼女はぎゅっと彼の手を握りしめる。
「リシャール殿下も、お父さんに側に戻ってきて欲しいそうです。ルイスがいないとつまらない、とおっしゃっていました」
「殿下が?」
「はい。ずっと待っていらっしゃったと思います」
フィオナは一瞬口をつぐみ、それからもう一度開く。
「私も、せっかくこうして会えましたから……これからも、会いたいです」
「……フィオナ、も?」
信じられないとばかりにルイスが声をあげる。
「フィオナも会いたいと言ってくれるのか……?」
「もちろん。私のお父さんですから」
頷くフィオナに、わだかまりはもうない。
「私を、許してくれるのか?」
「許すも何も……お父さんは何も悪いことはしていません。ママもお父さんも、言葉が足りなくて、すれ違ってしまったんですね。でも、それもどちらもお互いのことを想っていたからですよね」
ルイスがくしゃりと表情を歪める。
「私が二人が愛し合った結果、生まれたということが分かったから……救われました。だからまたお父さんに会いたいです。きっとママもそれを望んでいると思います」
そう言えば、ルイスが肩を震わせ、声にならない涙を流した。
◇◇◇
憑き物が落ちたかのようなルイスとまたの再会を約束して、ロイド邸に戻ることになった。
『こんなことを尋ねるのは時期尚早かと思うが、もし王都に屋敷を構えたら、娘として一緒に住んでくれるか?』
帰り際にそう尋ねられてフィオナは驚く。
アッシュは、父と子に十分な別れの時間を与えるために、すでに家の外に出ていた。
『私、と……?』
『ああ。会えなかった時間の埋め合わせになるとは思ってはいないが、私が与えられるものがあれば与えたい。贅沢はさせてあげられないが、無理なく暮らせるだけの貯蓄はある』
『……』
『彼と婚約をしている?』
アッシュのことを差していると気づき、フィオナは慌てて首を横に振る。
『まさか! 伯爵様と私では釣り合いませんから!』
そう言えば、ルイスはちょっとだけ首を横にかしげた。
『そう……なのか?』
『はい。事情があって今は一時的にロイド邸に身を寄せていますけど、それももうすぐ解消になると思います』
自分でそう言い切って、胸が疼く。
(ううん、私ったら何を考えてるの……、当然のことじゃない)
アッシュが伯母の問題を片付けて、ロイド家が社交界での立場を取り戻すのも直だろう。そうしたときに、フィオナが側にいたら間違いなく邪魔だ。
(伯爵様も、家を守り立てていかなくては。結婚して、跡継ぎを……ケイトさんみたいな可愛らしい女性と……)
そこまで考えて胸がきゅうっと痛む。
そんなフィオナの表情に、ルイスが何をみたのかは分からない。
『そうか。まぁ、今すぐ答えなくていいから、考えておいてくれ。ただ、生活の保証はする。これからは仕送りをするからね』
◇◇◇
ロイド邸に戻って、残っていた依頼を受けることにした。
父が今後の生活を保証してくれ、実際彼はロイド邸宛に、フィオナの生活費を送ってくれるようになったのだ。もともと『占い』を始めたのも、父の手がかりを探すためだったから、これ以上続ける必要はないのである。むしろ不用意に『占い』を続けて、自分の『ちから』が露見するほうが怖い。
アッシュも賛成してくれて、モリス侯爵に話を通してくれた。そんな中、フィオナは依頼を一つ一つ丁寧に片付けていった。
そしていよいよ最後の依頼となった。
彼女はモーブ子爵夫人と名乗った。
まだ三十代半ばといった年頃の彼女は喪に服した黒いクレープのドレスで現れた。装飾品も必要最小限で、黒のレースのベールを被っている。
青白い顔色のモーブ子爵夫人は、落ち着いた物腰の女性だった。白い頭巾を被ったフィオナにも丁寧に挨拶をしてくれたし、部屋の隅にいるアッシュにも目礼をしてから、席につく。
「夫を去年亡くしまして」
低めの声は微かに震えている。
それから彼女が黙り込んでしまったので、フィオナは相槌を打つ。
「はい」
「私たち、子供には恵まれませんでしたので、遺産相続で揉めることもなく……、そもそもあまり財産もないので心配はいらなかったのですが……」
彼女はぎゅっと手にしていた男性物の帽子を抱きしめるようにする。
しばらくしてから、モーブ子爵夫人が呟く。
「とにかく、さみしくて」
「――っ」
はっとフィオナは視線をあげた。
「亡くなった人の思い出も、みていただけるのでしょうか」
「約束はできませんが、きっと、大丈夫かと。やってみますね」
実際、『強化』してくれるアッシュの『ちから』が安定したからか、由来あるものであれば関係する記憶が蘇ることがある。もちろん、必ず、ではないけれど。
「お願いいたします。どんな思い出でもかまいません。彼のことを近くに感じたくて」
そろそろと差し出された帽子を、フィオナは受け取った。
ふわり、と目の前の景色が揺れて、青みがかる。
『あなた、今日のお加減はいかが?』
部屋に入ってきたのは、少しだけまだ若いモーブ子爵夫人。
(ああ、僕は今朝もちゃんと目覚めることができたのか)
フィオナは瞬く。
彼女が今入り込んでいるのは、モーブ子爵の想いに違いない。その証拠に、彼女の視線はベッドに横たわっている人のものだったから。
『悪くないよ。ありがとう、アンドレア』
言葉を発する度に、胸がきつく締めつけられるような痛みがする。落ち着いて呼吸をしないと、すぐに咳き込んでしまい、この弱い肺は保ってくれないだろう。
(アンドレアが心配する)
モーブ子爵の心の中は妻への愛しかなかった。
二人は幼馴染で同い年。美しくて気働きのきく妻には、縁談がきっといっぱい舞い込んでいたはずだ。それに引き換え自分は領地もない弱小子爵家の跡取りで、病弱でもあったから子供を成すこともできないだろうと思っていた。
(だから一生アンドレアへの思いは秘めておくつもりだったけれど)
モーブ子爵の心の中に、夫妻の思い出があふれる。
妻もずっと自分のことを好いていてくれると知って、どれだけ嬉しかったことか。
家族の理解を得て、結婚してからの新婚生活。子供はやはりできなかったし、貧乏でもあったが、それでも妻がいてくれるだけで彼は幸せだった。
(一日でも長く、アンドレアの側にいたい。だが……きっと僕に残された時間は長くない。自分の体のことは自分が一番良く分かっている)
甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれている妻から、モーブ子爵の視線はそっと外れて、壁際の本棚に吸い寄せられる。
(アンドレア、君とずっと一緒にいたかった。でもそれはきっとかなわない。僕が死んだら、誰か素敵な人を見つけてくれ……人生は長い。君がずっと一人だと思うほうが、辛い。手紙を書いておかねばならないな。二人の思い出も一緒に記して……、二人が大好きだった本に挟んでおこう。きっといつか見つけてくれるよな。僕が最期にできる贈り物だ)
ごほっと咳をしてしまう。
(……再婚についてを遺言で残せなくてごめんな。こんなやり方しかできなくて……)
自分が死んだ後、彼女には幸せになってほしい。
それは嘘ではない。
けれど、やはり自分の手で、自分の隣で幸せになってほしかった。
その想いが拭えない。
(いつか君が出会う、元気で健康なその男に……やはり嫉妬してしまうな)
彼が咳き込むと、アンドレアが慌てたような表情になる。
『ちょっと、大丈夫? 身体を起こす?』
『うん、そうしようかな』
『手伝うわ』
アンドレアの手が伸びてきて、モーブ子爵はその手をそっと握る。
『あら、どうしたの?』
『君の手を初めて握ったときに、どれだけドキドキしたことか』
そう言えば、アンドレアは明るく笑った。
『やだ、じゃあ五歳くらいだったわね? まったくもう、チャールズったら!』
アンドレアは彼の冗談だと思っているのだろう。
(僕は五歳からずっと君の虜だよ。ありがとうアンドレア。君のお陰で、僕の人生は幸福に満ちたものだった。願わくば、また来世で――今度は健康な体で、君と添い遂げたい。お金も、名誉もいらない。君だけ、君だけがいれば――……)
蜃気楼のように目の前の光景が消え失せる。
気づけば、膝から帽子を取り落としてしまっていた。
(なんて、なんてこと……!!)
きゅうっと胸が痛くなり、フィオナは自身の瞳が潤んでしまうのを止められなかった。
(そうよね、財産がそんなになくても……、いくら払ってでも、旦那様の想いにもう一度触れられたら、と思ってやってきてくださる方なんだもの……そうよね……本当に、旦那様が大好きでいらっしゃって……旦那様も……奥様が大好きでいらっしゃって……!)
服装や装飾品から察すると、彼女は慎ましい生活を送っていることが察せられる。そのうえで、少しでもいい、亡き夫の思い出に触れられたら、と精一杯のお金を払ってくれたモーブ子爵夫人の気持ちが痛いほど伝わってきた。
「ごめんなさい、手が滑ってしまって……」
のろのろと帽子を拾うと、目の前のテーブルに置いてある水晶に手を掲げる。自分の手がみっともないくらい震えていることをフィオナは自覚していた。
「水晶水晶、水晶よ。どうぞ悩めるこの方の道をお照らしください」
なんとか声はかすれずに済んだ。
フィオナは両手を水晶に掲げたまま、ぐっと目を瞑る。
(ああ……、何を伝えて差し上げたらいいだろう……!)
しばらくそのまま考えていたが、やがて心を決めて顔を上げる。
「一途の星がでています。旦那さまは奥様のことを心から愛していらっしゃったようです」
「……!」
モーブ子爵夫人がぴくんと震えた。
「本当だったらずっと一緒にいたかったと思われていたのに違いありません」
そう言い添えると、彼女の顔にゆるゆると笑みが浮かぶ。
「ああ、貴女の占いでも、夫はそう思っていてくれたと……?」
「はい」
きっぱりと頷く。
「うれしい」
密やかな囁きがフィオナの心を打つ。
(でもこのままだときっと、モーブ子爵夫人は過去ばかりを愛しんで生きることになってしまう。モーブ子爵はそれを望んでいなかった)
「お二人の……、思い出の、本、というものがございますか?」
「本? ああ、そうね。何冊かあるかもしれない」
「あくまでも占いの結果で真実かどうかは分かりかねるのですが」
そう前置きをしてからフィオナは続ける。
「きっとその本のどれかに、旦那様からの贈り物が入っているようです」
「え……?」
モーブ子爵夫人がぽかんとした。
「私には本のタイトルまでは分かりませんでした。でもきっと、奥様になら分かるはずです」
「……!」
「よろしければご自宅に帰ってから探してみてください。当たるといいですが」
フィオナはそう言うと、帽子をモーブ子爵夫人に返した。
それをまたしても宝物のように抱きしめたモーブ子爵夫人に、彼女は微笑みかけた。
「探しものが見つかりますように」
◇◇◇
何度もお礼を言ってからモーブ子爵夫人が応接間を辞すると、フィオナはふうと椅子に深く腰かけた。
フィオナも幼い頃に母と死別した経験があるから、余計にモーブ子爵夫妻の思いが染みる。そして、両親のこともある。フィオナと、アッシュの両親の。
「大丈夫か? 頭痛がする?」
すぐにアッシュが席を立って、彼女の元へと歩いてくる。
「いいえ、頭痛はしていません」
「でも一応、念の為に」
差し出された彼の手を、フィオナはじっと見つめた。
それからそっと手を伸ばして、握る。
(あたたかい)
ふわりとした浮遊感が襲い、フィオナは目を瞑った。
(最後の依頼が、彼女たちでよかった)
これで、終えることが出来る。
そして、終わるということは、父と住むかどうかは別として、ロイド邸に滞在し続けている必要性がもうなくなることも意味していた。
(伯爵様に、お別れを告げなきゃ……)
ずきんと胸がひどく痛む。
フィオナが顔をあげるより先にアッシュが口を開いた。
「今までお疲れ様。明日、よかったら一緒に出かけないか? ――打ち上げ、しようよ」