28. 父と娘
ルイス=キャンベルは、辺境の街の、貴族が住むエリアでも外れに小さな居を構えていた。
それこそロイド邸の半分くらいの規模のあばら家で、庭の手入れもろくにされていない。
フィオナは、ここまで共に来てくれたアッシュを振り返る。
「入ります」
「うん」
動悸が激しい。
彼がそこにいてくれると思うだけで、ともすれば荒れ狂ってしまいそうな感情の波が、少しだけ落ち着く。勇気を出し、がたついている門扉を押し開けると、ギイイと軋むような音が響き渡った。
申し訳程度の庭を通り抜け、蜘蛛の巣がかかっている玄関の扉の前に立つ。
しんとしていて人気が感じられない。
(いらっしゃるかしら、開けてくださるかな……私のこと、認めてくれる、かな)
ありとあらゆる想像をしながら、何度も深呼吸をする。
(お前なんて、帰れ、と言われるかしら)
冷や汗が背中を流れ、足ががくがくと震え始めた。
(認めてくださらなかったら……、私は、どうしたらいいのかな……ああ、だめだ。やっぱり……怖い、な、私)
前にも、後ろにも進めない。
そんな絶望にも似た気持ちで立ち尽くしていると、そっとアッシュの手が彼女の背中に置かれた。ふわりと浮遊感を感じて、毒素が抜けていくかのような感覚に陥る。
「フィオナ」
「―――!」
「俺は、何があろうとも、君と一緒にいるよ」
囁くようなアッシュの声に、フィオナは目を瞑る。
(そう、私の側に、伯爵様、が、いてくださる……)
改めて自身に言い聞かせる。
ふう、と、もう一度だけ息をついてから、目を開けた。
「ありがとうございます、伯爵様。落ち着きました」
「ん」
彼の手がそっと離れていく。
そのぬくもりが与えてくれた『ちから』が消えないうちにと、フィオナはどん、と扉を叩いた。
どん、どん。
更に二回、叩いた。
永遠にも似た沈黙の後。
扉の向こうで、こそりと何かが動く気配がした。
(誰か、いらっしゃる……!)
どくどくと鼓動の音が高鳴っていく。
(お願い、どうか、扉を開けてください……! 話だけでも、聞いて……っ!)
願いが通じたのか、しばらくして重苦しい音を立てながら扉が開いた。
「誰だ……?」
嗄れた、低い声。
(あっ……、この声……!)
ルイスの声だ、と、そう思った瞬間、目の前に現れた男性に視線が吸い寄せられる。
身長はあまり高くなくて、細くてひょろひょろだった。
ハニーブロンドの長めの髪はくしゃくしゃに乱れており、シャツもパンツも不潔ではないが、着崩されている。端正な顔立ちに不釣り合いなぼさぼさの無精髭を生やしているが、形の良いグリーンアイは一際目立つ。ちらりと見下ろしても、彼の左手の薬指には指輪は嵌められていない。
けれど。
(間違いない、この人が、私の、おとうさん……!)
言葉にはできないが、血の繋がりを彼に感じる。
そしてフィオナはその直感を信じた。
「君、は……!」
彼が唖然としたように、フィオナを見つめる。
彼女はさっとカーテシーをした。
「はじめまして、フィオナと申します。リシャール殿下の計らいでやってきました」
「フィオナだと……!?」
彼女の名前を聞いて、どうしてかルイスが絶句した。
「私のお話を聞いてくださいますか?」
しばらく黙っていたルイスが、扉を開けてくれた。
◇◇◇
「好きな椅子に座ってくれ」
通されたのは、これまた殺風景な談話室だった。使用人もいないらしく、お茶を出してくれる者もいない。無造作に置いてある椅子とソファのどちらに座るか悩んだが、手近にあったソファに座る。アッシュは部屋の扉に一番近い椅子に腰かけた。
(ああ、でも不思議だけど……、嫌な雰囲気じゃないな)
ロイド邸ほどではないが、居心地は決して悪くない。
ルイスはフィオナの対面にある椅子に座ると、すぐに口を開いた。
「君の母親の名前は?」
「ユリアナです」
ルイスがぐっと目を閉じて、宙を仰ぐ。
「話を聞かせてくれ」
「は、はいっ……」
唇を湿らせると、フィオナは語り始めた。
ダルカン共和国の貧民街で育ったこと。母は優しかったが病弱で、亡くなってからは養護院で過ごしていたこと。成長してから、カルドリア王国にやってきたこと。
……不思議な『ちから』があること。
話すべきかどうか一瞬悩んだが、母はきっと父に伝えている気がした。
「母はこの『ちから』を人のために使え、と言ってくれました。だから私は『占い』をすることにしたんです。そうして、お父さんの手がかりを探そうとして……、紆余曲折はありましたが、なんとかここまでたどり着くことができました」
それは、貴方が父親ですよね、と言っているも同義だった。
彼はどんな反応をするのだろう。
フィオナがおそるおそる視線を向けると、それまで微動だにしなかったルイスがふうっと息をつく。
「人のために、か」
くしゃっと表情を歪めた彼は、先ほどよりももっと頼りなく、なんだか小さくなったかのようだった。
「母はこの指輪を私に遺してくれました。お父さんに貰ったものだと聞いています」
フィオナがポケットから指輪を取り出すと、彼の喉からつまったような音が響く。
「そ、それは……っ」
今やルイスはぶるぶると震えていて、心配になるくらいだ。だが彼が手を差し出してきたから、きっと近くで見たいのだろうと、フィオナは指輪をそっと手渡した。
宝物のようにぎゅうっと指輪を握り締めたルイスを、彼女とアッシュは黙って見守る。
「……っ、くっ……」
俯いたルイスから聞こえてきたのは、慟哭だった。
フィオナがアッシュに視線を送ると、彼が頷いてくれたので、フィオナも頷き返す。
しばし時が経ち、ようやくルイスが顔をあげる。
「取り乱してすまない」
かすれた声だったが、しっかりとした口調だった。
「いえ」
赤い目をしたルイスが、フィオナを見つめた。
「君は、私の娘だ、フィオナ――ユリアナと、子供ができたら男はフィリップ、女だったらフィオナと名付けようと話していたんだ」
「―――!」
「この指輪も、確かに私がユリアナに渡したものだ」
ルイスはそう言うと、自身のネックレスを引っ張り出した。
「これが、私の指輪だ」
彼がネックレスを外すと、フィオナに渡す。
(あ、同じだ……!)
まったく同じデザインの、しかしサイズが違う指輪がそこにあった。
(お父さん、ずっと身につけていらっしゃったんだ……!)
それだけでも、フィオナは報われる気持ちになる。
「彼女が妊娠していたなんて、知らなかった。知らなかったとはいえ、君たちの面倒を見てやれなくて、本当に、本当に申し訳なかった。そして、ああ……、ユリアナがもう、亡くなっているなんて、信じられない、信じたくない……」
ぐうっと彼が語尾を呑み込む。
「お父さん」
呼びかけると、ルイスがぴくっと震える。
「教えてください。どうやってママと出会ったのか。そして、どうして二人が別れることになったのかを。私はそれを知りたくて、貴方を探していました」
「……ああ、分かった。全て、話そう」
ルイスが背筋を伸ばした。
「リシャール殿下の元へ行ったのならば聞いているだろうが、私は殿下の従者だった。キャンベル侯爵家はそこまで後ろ盾のある家格ではなかったんだが、もともと殿下とは幼馴染でね。それもあって従者に取り立てられたんだ。三男だったから適任でもあった」
(キャンベル侯爵家……、侯爵家、だったのね)
「殿下の従者となってからしばらくしてユリアナに出会った。ユリアナは殿下の身の回りを世話するメイドだった。多くを語ってはくれなかったが、ダルカン共和国出身とは言っていた。一家離散をして、着の身着のままこの国に来たと語っていた。伝手があって王宮で働いていたようだよ」
ルイスが遠くをみるような眼差しになる。
「私の一目惚れだった」
それまで恋愛の真似事をしたことはあったが、正直に言えばそれが初恋だった、とルイスは述懐する。ルイスはすぐに彼女に交際を申し込んだ。ユリアナは戸惑い、身分差を理由に断ったが、あまりにも熱心な求婚にやがておずおずと応えてくれるようになったという。
「幸せだった。彼女とは楽しい時間を過ごしたな。それこそ子供ができたら、どんな名前をつけようか、とか話したりして……」
幼馴染だからこそリシャールの従者として抜擢されはしたが、従者は彼の他に数人いる。それにキャンベル家はそこまで権力志向が強い家系でもない。だからルイスは従者を辞めて、ユリアナを娶ろうと考えていたし、事実それを彼女にも伝えていた。
「指輪はその時に渡した。本当の結婚指輪はまた今度買おうと約束したが――果たせなかったな」
(え、そうだったの……!?)
そこでフィオナの脳裏に、とある光景が過る。
アッシュと初めて指輪の記憶を辿った日のことだ。貴族のような出で立ちの若い男性と、メイドのような出で立ちの女性。女性は明らかに母親の声だった。
「もしかしてその指輪を渡したのは、庭園でしたか……?」
「ああ。ユリアナに聞いたか?」
ルイスがあっさり認めて、フィオナはぱっとアッシュを見る。
(やっぱりあれは、お父さんだったんだわ……!)
アッシュも頷いてくれた。
「そ、それで、お父さんは結婚するつもりだったのに、どうして二人は別れることになったんです?」
「後で分かったんだが……、ユリアナに、良からぬことを吹き込む輩がたくさんいたらしい。私の出世をユリアナが邪魔をしている、というようなことを。彼女がふさぎ込むようになった時、ちょうど殿下も婚約を結ぶかといったところだったから……、私も忙しくて、ユリアナに気を配れなくなったことを……それから何度悔やんだことか」
ルイスがユリアナに最後に会ったのは、リシャールについて遠方に視察に行くことになっていた日だったという。気忙しい逢瀬の中、ユリアナは自分に『ちから』があると告白した。
「えっ、そこで……、ですか?」
「ああ。今から思えば、それがいなくなる布石だった。彼女は自分が普通ではないことに悩んでいたようだった……私は、ユリアナがユリアナであればなんでも受け入れる、と伝えたつもりだった」
返ってきたのは、美しい微笑だったという。
またゆっくり話を聞くと約束して視察に出かけたルイスが二週間後に戻ってくると、ユリアナは忽然と姿を消していた。
「あまりにも信じられなくてなにかの間違いだろうと思った。だが、ユリアナが戻ってくるつもりがないと知って、絶望した」
ルイスの声が再び掠れる。
「彼女は手紙を残してくれていた……自分が戻るつもりがないこと、それから出世を考えた結婚をしてくれと……ユリアナでなければ、私は誰も愛せないというのに……」
半狂乱になってユリアナを探し回り、そしてやがて抜け殻になったルイスを、周囲は心配した。王子の従者である彼には、縁談の申込みもひっきりなしだった。
「縁談の申し込みが煩わしくて、王子の従者を辞めようかと考え始めた時、殿下が訳ありの令嬢を連れてきた。彼女は使用人と恋仲で、白い結婚をしてくれる相手を探していた。三年経ったら離縁してくれ、と持ちかけられたんだ。そうすれば、殿下の従者を続けられるから、と」
そこまでしてリシャールは、ルイスに従者でいてほしかったのだという。
ルイスもさすがにリシャール直々の願いをはねのけることはできなかった。それに、令嬢とは形ばかりの結婚で、周囲を黙らすことが出来る。離婚後は、誰のことも娶らなくても今ほどはうるさくないだろう。最終的に捨て鉢のような気持ちで、契約結婚を了承した。
「だが――苦しかった。いくら契約結婚とはいえ、仮初の妻と式を挙げる必要があって……相手はユリアナであったはずなのに、と……」
地獄の苦しみだったとルイスは呟いた。
仮初の妻との関係は、悪くはなかった。それにルイスが許可したので恋仲である使用人を連れて輿入れをしたこともあって、彼女はいつでも幸せそうだった。それが腹の底から羨ましかった。
三年後に約束通り離縁した後、ルイスは燃え尽きてしまっていた。生きる気力さえなくなりそうだったルイスをこの世に留めたのは、いつかもしかしたらユリアナに再会できるかもしれない、という思いだけ。
だが従者はもう続けられないと、職を辞して、この家に引っ込んだという。
「これが、私の出来る話の全てだ」
ルイスががっくりと肩を落とす。
フィオナは、アッシュの言葉を思い返していた。
『母の記憶を視て、父が母と俺を愛していたということが分かった今は、もう気にしなくていい気がするんだ』
知りたい、とフィオナは思った。
本当だったら言葉だけで信じられたらいいけれど、でもそれはさすがに難しい。
だから。
フィオナは生まれて初めて、自分に『ちから』があることを感謝した。
「話を聞かせてくださって、ありがとうございます。もしよければ、お父さんの手を握ってもいいですか?」