24.知りたかったこと
玄関の扉を開けたアッシュの母は、訪ねてきたのが息子だと気づいた瞬間、唇を戦慄かせた。
「話を伺いにきました」
緊張しているのだろう、強張ったアッシュの背中を、フィオナは一歩後ろから見守っていた。
「話を、聞いてくれるの……?」
アッシュの母親が口元に手をやり、信じられないとばかりに尋ねる。
「はい。フィオナが、そう、背中を押してくれたので」
「貴女が……!」
アッシュの母が、フィオナを見つめる。
「ありがとう」
「い、いえ、私はたいしたことは……っ」
お礼を言われて、フィオナはちょっとだけ焦ってしまう。アッシュはそう言ってくれたが、フィオナはたいしたことはしていない。
だがもう一度、アッシュの母が微笑む。
「ううん、貴女のお陰よ。ありがとう――さあ、中にはいって」
◇◇◇
全てが一人分でちょうどよいサイズの、こじんまりとしたサイズの家には、穏やかな空気が流れていた。そう、ロイド邸と同じで。
(やはりこの方は伯爵様のお母様なんだわ)
「普段、使わないからまともなソファもなくてごめんなさい」
「構いません」
アッシュはそう言うと、暖炉の前に敷いてある茶色の毛皮に直に座った。貴族としては無作法だが、でもその毛皮は確かに触り心地も、座り心地もよさそうだった。
「そういうところ、昔から変わらないわね」
アッシュの母親はふっと笑うと、揺り椅子でよければ、とフィオナに勧めてくれた。恐縮しながらそこに腰かける。きっと手作りだと思われるクッションが敷いてあって、座り心地がよい。
「どこから話したらいいかしら……きっと、本当のことを話してしまったら……、ショックを受けるかもしれない」
「いえ、構いません。俺は……真実だけが知りたいので」
静かに、しかしきっぱりとアッシュが言いきる。
すると、アッシュの母が、小さく頷いた。
「そうね、貴方にはその資格がある」
自身は、部屋に一つだけある椅子に腰かけ、アッシュの母親が慎重そうに切り出す。
「アッシュに『ちから』があるとは、思ってもみなかった。私はあまり『ちから』が強くなくて……幼い頃に気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
「謝る必要はありません。俺も、彼女に出会うまで、知らなかったので。だから俺も、どんな『ちから』かは把握しきれていないんです」
アッシュが彼らしくない硬い表情で答える。
「私の祖母……、アッシュにとっての大祖母に、『ちから』があったらしいの。でも、両親は若くして亡くなっているから詳しくは聞いたことがなくって、私には微かな『ちから』しかなくて、まさか貴方に遺伝しているとは」
アッシュの大祖母は、長くこの集落に住んでいたらしい。アッシュの母親が知っていたのは、ただそれだけだった。
「貴方の『ちから』については、大魔女様にうかがってみましょう。彼女ならきっと、色々と教えてくださると思うから――……それで、私がロイド家を出たのは、お義姉様との関係のせいなの」
ヴァイオレットが無事に嫡子であるアッシュを産んでからしばらくして、伯母であるイザベラの様子がおかしくなっていったのだという。
「お義姉様は、私がロイド家を乗っ取る、という思いに取り憑かれているようだった。ご両親が亡くなられてから頼りにしていたメイジャーが結婚して、そしてアッシュが生まれて……。ご自分は一人、という思いが強かったのかもしれない」
イザベラは、エキセントリックな性格で、なおかつ嫉妬深かった。若い頃に持ち上がった婚約の話も、相手方の不貞を疑い、騒ぎ立て、イザベラ自身の手で壊してしまったのだという。そしてそれからずっと独り身だった。
イザベラはいつでもヴァイオレットを目の敵にして、彼女を攻撃する。いくらヴァイオレットがそんなつもりはないと言っても、メイジャーが窘めても聞く耳をもたない。
だが、それでもヴァイレットは愛する夫と子どものためにひたすら耐え続けていた。
「でも、だんだん……、攻撃的になってきて。ある占い師との出会いから、急激に加速したの。だんだん……、私は力づくでも排除するべき対象となっていった」
フィオナは目を見開く。
(伯爵様がおっしゃっていたことと、合致する……!)
嫌がらせは執拗だったという。メイジャーはイザベラを自宅に近づけないようにした。けれどどれだけ手を講じようとも、イザベラは執念深く、諦めない。あの手この手を使って、屋敷の中に自分の手の者を潜り込ませ、彼らを使って、ヴァイオレットを害そうとした。まるで何かに取り憑かれているかのように。
「それから、どうしてか私のことを『魔女』と呼び出した。あの教義では排除すべき対象を『魔女』と呼ぶみたい。でも、本当に怖かった。だって……私には、本当に『ちから』があるから」
実はヴァイオレットは、メイジャーにだけは『ちから』のことを打ち明けていたのだという。メイジャーも、ヴァイオレットがどれだけ『ちから』について露見するのを恐れているのかを理解してくれていた。
「いくら微力とはいえ『ちから』があるなんて……、ばれてしまったらどんな目に合うのか分からない。お義姉様がもし真実を知ってしまったら……考えるのも怖かった」
それこそフォーサイス公爵のように、『ちから』を持ち、なおかつ権力がある人間と知り合いだったら違っただろう。だがヴァイオレットはそれまで誰にも告白したことがなかったこともあり、味方は夫ただ一人だった。
「最終的に、私を殺そうと……、強い薬を盛られてしまった」
幸い、一命はとりとめた。
それまで心身ともに限界にまで追い詰められていたヴァイオレットはそれが決定打となり、気鬱になってしまった。鬱々として、些細な物音にも怯えるようになってしまったヴァイオレットを前に、ついにメイジャーが決意する。
「彼が言ってくれたの。どこでもいいから遠い街で暮らせ、そうじゃない限り、姉が諦めることはないだろうし君の気が休まらないだろう……と」
そこに至って初めて、ヴァイオレットの瞼から、はらはらと涙がこぼれ落ちる。彼女は涙を拭うこともせず、悲しげに続けた。
「追い詰められていたから、もう……それ以上頑張れなくて。私は、その提案を受け入れることにした。それからこの集落を目指すことにした。隠れる場所にはうってつけだと思ったから。最初はアッシュを連れて行こうと思っていた」
そう言うと、アッシュの手がぴくりと動く。
「けれどメイジャーは、家督のためにアッシュは彼の手元に置いていけと。確かにお義姉さんはアッシュには攻撃的ではなかった……だから、私は……貴方を置いていったの。出ていく日、貴方が追いかけてきても……、振り返ったら、走り寄って抱きしめてしまうから、我慢して……でもそれがどれだけ辛かったか……」
ヴァイオレットは、そこでぐっと唇を噛みしめる。
「何を言っても、言い訳ね。ごめんなさい。貴方には預かり知らぬことなのに……、私が弱かっただけなのよね」
そこまで黙って聞いていたアッシュは、ぽつりと呟いた。
「母さん……手を握っても?」
はっとしたフィオナは、アッシュに視線を送る。
「私の、手……?」
「ああ――フィオナ、君の『ちから』も借りたい」
事情を聞いたヴァイオレットは躊躇いなく、手を差し出した。
ふわりとした浮遊感と、それから青みがかった光景が目の前に広がる。
『アッシュをよろしく頼みます』
今よりもずっと若いヴァイオレットが精悍そうな男性に向かってそう言った。きっとアッシュの父、メイジャーだろう。
『ああ。君はとにかく、体を治すことだけを考えるんだ。『ちから』のことは、絶対に姉には言わないから、安心して』
『ありがとうございます』
『姉が落ち着いたら君を呼び寄せるからね。だから落ち着いたら、連絡先をこっそり教えてくれるかい?』
『はい、その日を待っています、ずっとずっと、待っています』
メイジャーがヴァイオレットを抱き寄せ、耳元で、愛している、と呟いた。
場面が変わる。
『母さん、行かないで!』
『アッシュ、無理を言うんじゃない』
追いすがるアッシュを、メイジャーが引き止める。去っていく馬車の中で、ヴァイオレットはずっと泣き続けている。
『ごめんなさい、アッシュ……、ごめんなさい、ごめんなさい……側にいてあげられなくて、ごめんなさい……っ!』
場面が変わる。
寝室で、一人きりベッドで眠っているメイジャー。
青白く、呼吸も浅い。
今にも息絶えてしまいそうだ。
彼がふっと瞼を押し開く。
『……ああ、私は、夢を見ているのかな。君が、いるなんて……』
そこには涙をこらえたヴァイオレットが立っていた。
『どうして、教えてくださらなかったんです……!?』
『すまない。姉が……押しかけてきていて……ようやく、追い出したところだ』
ごほっと咳き込むメイジャーに、ヴァイオレットは一心不乱に近寄る。
手をぎゅっと握って、涙を流す。
『貴方はいつだって、そうやって、ご自分だけ、我慢なさって……! どうして、どうして……! こんなことなら、私、戻ってきたらよかった……!』
『いや、戻ってこなくてよかったよ。姉にはもう人の言葉が通じない。どうして、こうなってしまったのか……姉の属している、組織の奴らが手強くて……だが、もっと手立てはあったのではないか……結局、君をいたずらに遠くにやっただけだった……、すまなかった』
『謝らないでください……っ! 旦那様は、出来る限りのことをしてくださったと、分かっていますから……』
『いや、私の……力不足だ……。アッシュにも申し訳ない』
『私に、何か、できることはありますか……!』
『うん……そうだな。もう少しだけ手を握っていてくれないか』
『はい、それはもちろん……!』
『姉がやってくるまでには帰らないといけないよ』
ぐっとヴァイオレットが息を呑み込む。
『それから、これからもアッシュには会わないでやってくれ』
『え……?』
『君が会っていると知ったら、姉の矛先がきっとアッシュに向かうだろう。だが私が死に……、君がいなくなればきっと興味を失う、はずだ……、それに、ようやく、これか、と思う原因を見つけて、断ったところだ。このまま姉をロイド家に関わらせないようにしたい……それがアッシュのためになる、はずだ』
メイジャーが咳き込む。
『……!』
『大丈夫、あの子は強い子だ、一人でもきっと乗り切れる。何より、私がそう育てた』
『旦那さま、でも、でも……』
『頼む、最期の願いだ。だが……、遠くから、見守ってやってくれ、私には、もう、できないから……』
ぜいぜいと荒い息をついているメイジャーはすでに意識が朦朧とし始めているようだ。
『愛している、ヴァイオレット。ごめんな……』
徐々に青みがかっていた光景が、もとに戻る。
気づけばフィオナは、ヴァイオレットの家で、アッシュの手を握っていた。
見れば、ヴァイオレットが顔を両手で覆って、号泣している。どうやら彼女がアッシュの手を離したために、途切れたようだった。
(ああ、なんてこと……)
「母さんは、父さんの最期に会いに行ったんだね」
アッシュの声は、平坦だったが、それまでの堅苦しさが抜けていた。
ヴァイオレットが泣きながら、答える。
「わ……、私の、『ちから』は、ほんの少しの距離だけ、瞬間移動することが、できるの……ほんの、ちょっとだけだし、できないときもある。あのときは……何がなんでもメイジャーに会いたくて……それで……」
「そうだったのか」
アッシュはふっと目を瞑った。
「確かに父さんは……、俺に厳しかった。だがそれは……、誰のことも恨まなくていいくらい、強く生きてほしいという気持ちの現れだったのか」
アッシュの手がぎゅっとフィオナの手を握り込んだ。
「フィオナ、俺にこの記憶を視せてくれて、ありがとう――知りたかったことを全て知れた気がする」
アッシュの顔は、とてもさっぱりとしたものだった。