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19 同居生活の始まり

 その夜、アッシュと共に自宅に向かった。

 薄暗い建物全体に漂う清潔とはいい難い匂い、どれだけ静かに歩いてもぎしぎしと軋む床、それから物音が漏れてくるくらいの薄い壁に、廊下に響き渡る下品な笑い声や嬌声。

 自室のドアノブに手をかける瞬間、ちょっとだけ躊躇ってしまった。


(伯爵様、びっくりしないかな……?)


 覚悟を決めて扉を開けた。

 簡易の鍵しかかからない扉や、ほとんど物のないがらんとした空間に彼が何を思ったかは分からない。フィオナの持ち物はトランク一つにすべて仕舞うことができて、アッシュの手を煩わせることもなかった。

 自分で持つつもりだったけれど、そのトランクはアッシュにさらわれてしまう。


「今夜はまだ退去はできないよな?」


 控えめにそう尋ねられ、少し考えた後、フィオナは顔をあげる。


「大家さんのところへ行ってきます。伯爵様は馬車で待っていてくださいませんか」


 アッシュはついていきたそうな素振りをみせたが、しぶしぶといった感じで頷いてくれた。


「……わかった」


 彼に指摘されるまで、そこまで考えが至っていなかったけれど、どちらにせよ一度強盗が入ったこの家で暮らしたいとは思わない。彼女はアパートの一階に住んでいる大家の部屋に立ち寄り、退去を申し出た。でっぷり太った大家は今日までの家賃を払えば許してやるよ、と横柄な口調でいい、「突然のことだから」といいながら多めの請求をしてきたが、フィオナは黙ってそれに従う。

 お金を払ってしまうと、昨日から重しのように淀んでいた心の中がすうっと晴れた。


(あの家に戻らなくていいからだわ)


「無事、済んだ?」


 乗り込むとすぐに馬車が軽快に走り出し、それと同時にアッシュに尋ねられる。


「はい。伯爵様、ありがとうございます」


 お礼を言うと、彼がきょとんとした。


「その……、伯爵様がいてくださらなかったら、こんなにスムーズに退去をすることはできませんでしたから」

「ああ、そういうことか」


 彼がふっと表情を和らげる。

 そうなのだ。

 アッシュのお陰で先立つものがあり、退去することができた。そうでなければあのままあの家に住み続けるしかなかっただろう。


「それに関しては、俺もよかった、と思っている。少しでも役に立てたのであれば。……、想像はしていたが、やはりあのアパートに君が一人で住み続けるというのは心配だしね」


 ぼそっと付け加えられたそれは、彼の本心に違いない。


(驚かれただろうなぁ……、あんなボロいアパートなんて、ご覧になったことはなかっただろうし)


 フィオナはふっと窓に視線を送る。

 彼女にとっては、ごく一般的な住居だ。彼女が母親と住んでいた貧民街のアパートのようにねずみが出ることも、壁の一部分が崩れていることもない。


 アッシュはもちろんあの場では何も言わなかったし、紳士だからこれからも口にすることはないだろうが。


(やっぱり出自が違うってこういうこと、なんだな……)


 流れていく景色を眺めながら、フィオナはぼんやりと考える。

 貴族と平民。

 いくら自分たちがあえて口にしなかったとしても、そこには目に見えない大きな隔たりがある。生まれもった違いが、明らかに。

 ずきんと胸が痛んだ。


(わかってる、わかっているわ……)

 

 ぎゅっと目を瞑ると、フィオナはそれ以上考えるのを止めた。そんな彼女の横顔を思案げにアッシュが眺めていることには、最後まで気づくことなかった。


 ◇◇◇

 

 アッシュが用意してくれたのは、二階の客間だった。

 ロイド家には通いの使用人がほとんどだ。住んでいるのはアルバートとロージー、それから下男が何人かで、一階にまとめて使用人部屋がかたまっているという。主人であるアッシュは執務室もある二階に寝室も構えているらしい。

 

「伯爵様と同じ階に寝泊まりさせていただいてよろしいのでしょうか」


 そんなだいそれたことを、と思いながら呟くと、ロージーが明るく笑う。

 客間も、隅々まで綺麗に掃除されていて、ふかふかのベッドに机と洋服棚があり、今まで暮らしていた部屋とは段違いだ。


「いいに決まってるじゃないですか。フィオナさんはお客様ですよ?」

「どちらかというと仕事を斡旋してもらってるから雇われてるのに近いと思うんですけど……」

「いえいえ、まさか! それで、きゅうり、もっといります? まぁもう腫れてないような気もしますけどね」

 

 そういえば先程ロージーが持ってきてくれたきゅうりのおかげで、ほっこりしたのだった。


「きゅうりは大丈夫かもです。ありがとうございます!」

「必要だったらいつでも言ってくださいね。お風呂はどうされますか? 必要なら下男にいってお湯を運ばせます」

 

 ロージーに案内されて先ほど見た浴室に猫足バスタブがあったことを思い返し、フィオナは首を横に振る。要は厨房で沸かしたお湯を何往復かして運んでくれるというのだろう。こんな突然、しかも夜半過ぎに、それは申し訳なさ過ぎる。


「いえ、大丈夫です! でも……この綺麗なベッドを汚したくないので、お湯を頂きに行きますね」


 いつものように自分でお湯を取りに行こうとすると、ロージーが両手を腰に当てる。


「私の仕事を取らないでください。いいからフィオナさんは座っててください!」

「えっ、でも……」

「いいから! 朝、きゅうりが必要なくらいお疲れだったんですから。こういうときは年長者の意見を素直に聞くもんです」


 そう言われてしまうと、フィオナは頷くしかなかった。


「ありがとうございます……ではお言葉に甘えて」


 あっという間にロージーが桶にたっぷりのお湯を持ってきてくれて、フィオナは素直に感謝した。ロージーはなんと香油も持ってきてくれたから、ありがたく身体を清めた後にほんのちょっとだけ使わせてもらうことにした。そうするとじんわりと身体が緩んでいく感覚があって、ようやくリラックスすることができた。

 ベッドに横たわって、大きく息をつく。


(ああ、こんなに良くしていただいて……、どうやって恩返しさせていただいたらいいかな)


 けれどそれ以上考えるには、フィオナはくたくたに疲れ切っていた。

 目を瞑ると同時に、彼女は眠ってしまったのだった。



 夢も見ずに眠り、明け方目を覚ましたときには、すっかり気持ちが回復していた。

 ゆっくりした休息を取らせてもらったお陰だ。

 それにアッシュはもちろん、ロージーや他の使用人たちが優しくしてくれたから。

 フィオナはぴょこんとベッドの上に起き上がると、手早く着替えを済ませて、足音を忍ばせて階下へと降りていった。

 

 厨房ででも何か手伝いをさせてもらえたら――と思ったのだが、意外にも彼の寝室からでてくるアッシュに出くわした。


「ああ、フィオナ! おはよう、よく眠れたか?」


 すっかり身支度を整えたアッシュは朝から顔がいい。 


「おかげさまで、よく眠れました、ありがとうございます!」

「それはよかった。それでこんな早朝にどうしたの? お腹すいた?」

「い、いえ、何かお手伝いできることがあればと思って……」


 するとアッシュがすっと眉間に皺を寄せる。


「フィオナはお客だから、そんなことは気にしなくていいけどな」


 だが彼がそこで表情を和らげる。


「でも気になるんだろうね、フィオナは。じゃあ一つ仕事を頼もうかな」

「はい!」


 そこで彼に肘を差し出されて、まじまじと見下ろす。


「……なんですかね……?」

「俺、珈琲をのむから付き合って」

「え?」

「よろしく」


 ずい、と更に肘を差し出される。


(ひじ……? エスコート?? 珈琲を飲みに階下に行くだけで、いる???)


 クエスチョンマークがいっぱいだ。


「これも大事な仕事だよ?」


 圧が凄い。


「あ……、はい」


 フィオナは押しきられるようにアッシュの肘をつかむと、首を傾げながら歩き出した。

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