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18.事件

 あの日感じた胸の痛みは、気の所為だった。


 しばらくして、フィオナはそう結論づけた。

 だってあれから何事もなく『占い』を続けていられている。アッシュとの関係も何一つ変わらない。

 むしろ自分が勘違いをしないように気をつけられるようになった、良い教訓になったくらいだ。


 フィオナは平民。

 アッシュは伯爵。


 自分たちがこれほど近しくなったのは、あくまでも『ちから』のせい。

 『ちから』を中和するため。

 アッシュの不眠症を緩和するため。

 それ以上でもそれ以下でもない。


 彼が親切で、優しいことは、他の令嬢たちも口々に言っていたから、フィオナに向けてそれが発揮されていても何らおかしなことはない。

 自分がそれだけきちんと把握していれば、何の問題もない、はずだ。


 だからフィオナはアッシュに対して距離を取る。

 親しすぎる距離は自分が勘違いしてしまう原因になるから。


 どうして自分がそこまでしてアッシュに距離を置かなければならないのか、そうやって殻に閉じこもってしまったフィオナを見つめながらアッシュがどんな顔をしているのか――初めての感情に翻弄され続けている彼女には慮る余裕はなかった。

 

 ◇◇◇


「今日はとりわけ遅くなってしまった。馬車を出す」


 予定していた三人の依頼者が終わったとき、既にとっぷりと日が暮れていた。


「い、いえ……そんな遅くないですし、今からすぐに帰れば問題ないかと」


 正直深夜という時間帯ではないので、それはフィオナの本心だった。だがアッシュは聞く耳をもたない。


「問題はある――俺が心配だからな」

「え」


 アッシュが人差し指を一本立てた。


「メルケンだって腕によりをかけて夕食を準備しているはずだから、彼をがっかりさせたくはあるまい? 俺も君が飢えないように見張る使命があるから、夕食も食べさせずに帰すわけにはいかない。だが今から食べると、かなり遅い時間になる。だから馬車を出す。それは決定事項だ」

「……!」

「わかったな?」


 久しぶりに圧の強いアッシュが出た。

 理路整然と語られた内容はしかしフィオナを思いやってのもの。


「……、は、はい……っ。その、ありがとうございます」

「うん、たいしたことはない」


 ようやく表情を緩めたアッシュがそっと手を差し出す。

 中和の時間だ。フィオナは自分の手を絡めて、ふうと息をついた。


 そして温かくて美味しい夕食を頂いた後に、馬車で自宅近くまで送ってもらって帰宅すると――玄関の扉が微かに開いていた。


「え」


 思わず声がついて出る。

 どきん、と鼓動が跳ね、同時に背筋を冷や汗が流れていく。

 どく、どく、と自分の鼓動の音が大きく響く。


(待って、私、ドアをちゃんと閉めていったよね……? 鍵だって……!)


 耳をすませても、中からはこそりと物音ひとつしない。人の気配もないが、ぐいっと彼女はドアノブを掴む。


(絶対誰か中に入ったよね……、もしかして、ここを触った……?)


 ざあっと青みがかった光景がフィオナを襲う。


 頭に布を撒いた大柄な男たちが喋りながらフィオナの家を家探ししている。


『んだよ、なんもねぇなこの家も』

『金もねえし、金目のものもねえな』


 実はフィオナは万が一のことを考え、全財産はいつも持ち歩く鞄の奥深くに仕舞っている。もう少しお金が溜まってきたら保管場所を考えなければと思っていたところだった。だからフィオナの家は本当になにもない。ただの寝場所に過ぎないのだ。


『ああでもこのワンピースはいいんじゃねえか』


(あっ……! それは、だめっ……!)


 フィオナは心の中で絶叫した。

 一人の男性の手に握られていたのは、アッシュが買ってくれたライトピンク色の、あのワンピースだ。


『だな、盗品かな。他の服はボロボロだもんな』

『かもしれねえけど、サラピンぽいから、まぁそこそこの値段になるんじゃねえか』

『つっても服はそんな高く売れねえよなあ、くっそ、外れだな、この家も』

『せめて女がいれば、ちょっとは楽しめたものを。留守だしな』


 男たちはそのワンピースを袋に雑につめると、足早に立ち去った。


 はっと我に返ったフィオナは、無我夢中で部屋に入る。


「……ない……っ!!」


 今朝方家を出るまで飾ってあった、あの可愛らしいライトピンクのワンピースだけが忽然と姿を消していた。


(ひどい……、なんてことを……っ 私の宝物だったのにっ……!!)


 がくりとその場に膝をついたフィオナはさめざめと泣き続けた。

 両親の形見の指輪をのぞけば、アッシュが買ってくれたあのワンピースは彼女にとってとても大切なものだった。言うなれば、生きる希望に近かった。

 彼女にとって、アッシュと街に出かけた思い出は、とても大切なもので。

 母は愛してくれたけれど生活には余裕がなく、死に別れてからは大聖堂で辛い日々を過ごしてきた彼女が、異国で初めて幸せと呼べる日を過ごした。

 そのアッシュが買ってくれたワンピースが無惨に奪われてしまい、もう手元には戻らない。

 絶望感が凄まじく、朝まで涙は枯れることがなかった。


(ああ、夜が明ける)


 カーテンの隙間から朝陽が差し込んできたのに気付いて、フィオナはふらふらと立ち上がる。


(泣きすぎて、瞼がぱんぱんに腫れちゃった……みなさんがびっくりしちゃうかも……)


 フィオナは汲み置きの水が入った桶に布を浸した。

 そのままずるずると床に座り込むと瞼の上に絞った布を置く。

 ひんやりとした温度が心地よい。


「神様が、私に……、勘違いするなって言ったのかも。あのワンピースは私には不相応だったんだわ、きっと」


 ◇◇◇


「何があった?」 


 開口一番、アッシュが唸った。


「何もありませんけど?」


 フィオナは一生懸命素知らぬ顔をする。


「最高に体調が悪そうなんだが」


 びくっと身体が不自然に揺れてしまった。


(そりゃそうよね……)


 先ほど玄関の扉をあけてくれたアルバートですら、フィオナをひと目見て明らかに驚いていた。廊下をたまたま行き交ったロージーも心配そうに声をかけてくれたし、そんなわけで、ちょっとの変化ですら気づくアッシュが、見逃してくれるわけがないのである。


「昨日遅かったから疲れた? だったら今日は休みにしようか」

「え、でも……っ」

「今日は一件、夕方に入っているだけだ。今モリス侯爵に連絡すれば、十分間に合うと思うよ」

「いえ、だ、大丈夫です」


 自分の管理不足だ。そのせいで依頼人に予定を変えさせるのは忍びない。

 声をあげると、昨日から収まらない頭痛が酷くなる。

 ただそれは『ちから』を使ったからなのか、それとも朝まで泣き続けたせいなのかはわからないけれど。


「大丈夫か。君はいつもそう言うけれど、ね」


 思案気な顔のアッシュが席を立ち、フィオナの前まで歩いてくる。

 

「中和をしようか」


 さっと差し出された手を握り返すのに、たっぷり数秒は躊躇った。


(だいじょうぶ、いつも、視られたくない記憶は視られないもの、きっと、大丈夫よね……)


 そろそろと手を握り返すと、ふわりと浮遊感が彼女を襲い―――。

 目の前の景色が青みがかる。


 一人ぼっちのフィオナが、がらんどうの部屋で泣き続けている光景が広がる。


『どうして、どうしてのあのワンピースを……!』

『まだ一度だって着ていないのに……、伯爵様に買っていただいたのにっ……!』


(いけないっ……!)


 今朝方の記憶だ。


(どうして、今日に限って……っ)


 焦ったフィオナが、ぱっと手を離すと瞬く間にあの光景は消え去り、頭痛も治まっていた。

 けれど、すぐ側に立っているアッシュの顔色がみるみるうちに変わる。


「……今のは、なんだ?」


 平坦すぎる声だった。

 けれど、アッシュらしくなく、あまりにも低く響いた。


「あ……、その……」


 フィオナはおろおろしながら、アッシュから視線を逸らす。


「なんで、ワンピースがなくなった、と君が泣いているんだ? それに部屋にはほとんど何もなかった。あれが君の部屋? だとしたら、もしかして物盗りが入ったのか?」


 びくんと身体が揺れる。

 何も声にならない。アッシュはそれだけで答えを知ったようだった。


 それまで憤怒の表情を浮かべていたのに、あっという間にいつもの彼に戻る。


「すまない、立て続けに聞いてしまった。怖かっただろうに」

「!」


 ぱっと彼を見上げると、真剣な表情でこちらを見下ろしている。

 

「昨日はいつもより遅かったから、奴らに鉢合わせはしなかったのか。ああ、よかった。奴らに会ってたら……何があったかわからない。本当に……、取り返しのつかないことにならなくて……、よかった」

 

『つっても服はそんな高く売れねえよなあ、くっそ、外れだな、この家も』

『せめて女がいれば、ちょっとは楽しめたものを。留守だしな』


 フィオナは目を見開く。

 確かに強盗たちはそう言っていた。

 少しでも帰宅するのが早ければ、確かにどうなっていたのか分からない。あまりの衝撃で、そんなことまで考えが至っていなかった。


(……私、紙一重で助かったのね……)

 

 吸い寄せられるようにアッシュの手のひらがフィオナへと伸ばされ、触れる寸前で止まる。

 

「フィオナ。嫌だったらちゃんとそう言ってほしいんだが……」

「は、い……」

「君を抱きしめてもいいだろうか? もう安全だよと伝えてやりたい。ずっと……震えているから」


(あ……っ)


 フィオナはそこでようやく自分がずっと細かく震えていることに気付いた。

 混乱と、恐怖で。

 全ての感情がごちゃごちゃに絡まり、飽和状態で自分ではもう追いきれていない。

 

「いい?」


 慎重に、しかし再度尋ねられて、フィオナはこくりと頷く。


「視ないようにするから」


 アッシュがそう囁いて、彼女を引き寄せた。されるがままに、フィオナはアッシュのたくましい胸に抱きしめられ、目を閉じる。


(ああ……、あったかい……)


 ふわり、と暖かい浮遊感だけを感じる。


(こうしていると、ママに抱きしめられたことを思い出すな)


 母との時間はいつも慈しみに満ちていて、その温かさを思い出す。 

 ここにいれば、守られているという安心と信頼。


「帰ったら……」


 ぽつりと呟く。


「うん」

「扉が開いていて……すぐに空き巣が入ったんだと分かりました」

「――うん」

「そういうことは、あるかもと思っているし……、貴重品は持ち歩いているんですけど……」

「うん」

「中に入ったら危ないから、ドアノブを握って、『ちから』を使いました。空き巣がもう家に居ないのが分かったのはよかったけど、そのときに伯爵に買っていただいたワンピースが持っていかれたのがわかって……すごく悲しかった」

「フィオナ……」

「すごく、すごく悲しかった。あのワンピースを眺めるだけで元気がでたから」


 あの夢みたいに可愛いワンピースを思い出して、ぐす、と鼻を鳴らす。


「ごめんなさい、盗まれてしまって」


 アッシュがぽんぽんと優しく背中を撫でる。


「君が無事なこと以上に大事なことはないよ」

「でも……」

「俺が押しつけちゃったかな、と思っていたからあのワンピースを気に入ってくれていたと聞いてとても嬉しい。ワンピースはまた買えばいいが、だが君の代わりはどこにもいない。大事なのは君がこうして無事にここにいることだ」


 アッシュの言葉に、止められるわけもなくまた涙がこぼれてしまった。


(あ、いけない……っ)


「ご、ごめんなさい、泣いちゃって、迷惑、ですよね……」


 そう言ってフィオナが身を離そうとしたが、アッシュが抱きしめたまま離してはくれない。


「怖かったんだ。自然な反応だよ。心配するな、こうしていれば君の泣き顔は俺には見えない」

「……はくしゃく、さま……」


 ぶわっと涙が溢れて、とめどなく流れる。

 アッシュはただただ彼女を抱きしめて、落ち着く時間を与えてくれた。


 しばらくして泣き止んだフィオナが、身を捩らせると、アッシュがようやく離してくれた。じっと彼女の顔を眺めながら、ようやく安堵したのか少しだけ口元を緩ませる。


「すごい顔をしているでしょうから、見ないでください」

「君はどんな顔をしていても、かわいいよ。アルバートに言って、濡れた布をもってきてもらおう。それかロージーなら、その瞼の腫れを引く何かを知っているかも。さあ、君はソファに座って」


 アッシュが彼女をソファに座らせてから、呼び鈴を引く。すぐにアルバートがやってきて、アッシュが事情を説明している間、フィオナはぼんやりとソファに座ったままだった。


(……、なんて、優しいんだろう。ああ、でも、勘違いしないようにしなきゃ。これだけ素敵な人なんだもの、本当に気をつけなくては)


 アッシュが対面のソファに腰かけ、フィオナは瞬く。


「すぐに持ってきてくれるそうだ」


 背筋を伸ばしたフィオナが頭を下げる。

 

「ありがとうございます、何もかも……」

「うん。というか、君があのままあの家に住むなんて心配しかないな。まぁもともと治安がよくないとは聞いていたが……、すぐに引っ越してきてもらいたい」

「引っ越し……?」

「ロイド邸にだよ。空いている部屋ならいくらでもある」

 

 ぎょっとしたフィオナの顔を見て、アッシュが表情を和らげた。


「ずっととは言わない。とりあえずしばらく、どうだろう? お試しということで」

「あ……それは、でも……」


 おろおろとフィオナは視線を忙しく動かした。

 だがアッシュも一歩も引かない。


「いや、そうする。俺がそうしないと心配で夜も眠れない。俺が眠れないのは、君も心配だろ?」


 いつものアッシュの無理やりな理論。

 けれどフィオナへの思いやりだけが透けてみえて、言葉を失う。


 そこへ、慌てた様子でロージーがきゅうりのスライスを持って入ってきた。


「冷やしたきゅうりです。瞼の上に置いていただくと、腫れが少しは引くと思います」

「そうなんだ。じゃあ、やってあげて、ロージー」

「ええ。ではソファに深く腰かけてから、顔をあげてくださいますか」

「は、はいっ……!?」


 あれよあれよいう間に、フィオナの瞼の上にきゅうりのスライスが置かれた。


「今夜からだからね? 仕事終わりに君と一緒に荷物を取りに行くよ」

「だからそれは……」


 と言い返しかけたフィオナの耳に、アッシュが吹き出す音が聞こえた。


「ごめん。なかなかの光景だから、つい」


 フィオナははた、と気付く。


「……、そりゃ、そうですよね……!」

「はは。きゅうりが目の代わりになったフィオナも、かわいいよ」

「きゅうりが目の代わりになっている私がかわいい……?」


 その会話で、すっかり気が抜けてしまった。


「この家に住むお礼に毎日そうやってきゅうりをのせた姿を見せてよ」

「えっ、そんなまさかっ……!」

「はは、冗談冗談。でも引っ越しはもう決定ね、分かった?」


 軽い口調を装って、念を押される。


「……、わかり、ました。じゃあ、お言葉に甘えて、しばらく、だけ……本当に申し訳ないですけど……」


 そう答えると、アッシュのまとっている空気がようやく安堵したように緩む。


「申し訳なくなんてないよ」


(ああ、了承しちゃった……)


 けれど正直に言えば、またあの家で一人で過ごすのは怖かっただろうから、アッシュの申し出はありがたかった。そこでフィオナは改めて心に誓う。


(伯爵様はみんなに優しいのだから……、勘違いしないように、気をつけなきゃ)

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