12.呪われた家
ワインの染みが頭に巻いている布だけではなく、それを伝ってワンピースに垂れそうになっているのに気づいたとき――フィオナはためらいなく、布を脱いだ。
その瞬間、騒然としていた周囲が、しん、と静寂に満ちる。
そんなことはお構いなく、フィオナは夢中でワンピースの被害状況を確認する。
(ああ、ちょっとだけ飛び散ってしまった。ワインの染み、うまく取れるかしら。せっかく伯爵に選んでいただいたワンピースなのに)
「え、あなた、そ、そんな、か、かお……?」
空になったワイングラスを握ったまま令嬢がつぶやく。
「あの占い師ってあんな美人だったのか!?」
「あの瞳、綺麗だと思っていたんだよな!!」
外野でざわつく子息たち。
フィオナはそのすべてを聞き流し、顔をあげてワインをかけてきた令嬢を見る。ぎくりとしたように彼女が顎を引く。
「な、なによっ……?」
「お嬢様は汚れていらっしゃいませんか?」
「はっ?」
にっこりとフィオナは笑ってみたが、どうしてかそれが恐怖に感じられるようだった。令嬢はわかりやすくガタガタと震えはじめ、一歩後ろに下がる。
「わ、わたしは、だいじょうぶよ、な、なによ、いやみっ……?」
「汚れていらっしゃらないならよかったです。ワインで滑りますから、お足元はお気をつけくださいね」
「―――っ!」
ぐぬぬぬと震える令嬢をおいておいて、フィオナは使用人を探しに行った。彼女の素顔を見てぽかんとしている男の使用人に水を頼むと、はい、よろこんで! などと通常の何倍も大きな声で言われた。
水の入ったグラスを手に席に戻るフィオナがちらりと視線を送れば、アッシュはどうしてか憮然としているように見えた。
優しい彼は、令嬢がワインをかけたことを怒ってくれているのだろう、きっと。
(ごめんなさい、伯爵。せっかくのワンピース、汚れてしまったわ)
そして残念ながら、頭の布の替えなんてないから、今夜はこのまま素顔でいるしかない。
内心ため息をつきながらフィオナが席につくと同時に、ものすごい列ができたのである。
◇◇◇
「すごく好きな幼馴染がいるのですが、婚約にうんと言ってくれないのです」
はぁ、とため息をつくのは、まだうら若き、純朴そうな子息。
金色の前髪は短めに切りそろえられていて、頬にはそばかすが散っている。
「なるほど。それで、その方が触られた何かをお持ちくださいましたか?」
「はい、これが彼女のリボンです。――あっ、この前お茶会で我が家にやってきた時に忘れていったものなんですが……日が経っていても大丈夫ですか?」
「問題ないはずです。ではお借りしますね」
フィオナはリボンを手にして、力をこめる。
ふわりと、目の前に青みがかった映像が浮かんだ。
『どうして僕の婚約を受けてくれないんだい』
立派な応接間で、ソファに若い男女が対面で座っている。
(困ったわ。何度断っても、受け入れてくれない。お父様も困っていらっしゃった……どうして諦めてくれないのかしら)
純朴そうな子息に、赤髪の彼女は口を開く。
『ごめんなさい。貴方のことは仲の良い幼馴染だとは思うんだけれど、婚約は結べないの』
『……っ』
『これからもずっと今までと同じく幼馴染でいましょう』
令嬢はお茶を飲むと、そそくさと席を立つ。
(私が知らないと思っているのかしら。あんな、手当たり次第使用人に手を出すような方は嫌だもの)
ぱっと映像が消え失せる。
(使用人に、手を出す……、どういう、意味かしら……?)
でも間違いなく、令嬢は彼を嫌悪して、拒絶していた。
フィオナは震える手で、水晶に手をかざす。
「水晶水晶、水晶よ。どうぞ悩めるこの方の道をお照らしください」
念じているふりをしながら、どうやって伝えるのかを頭の片隅で考える。
(彼女は、どうしても婚約を嫌がっているようだった……、それを伝えて差し上げたほうがいいだろうな)
だがそこで水晶にかざしている手を、青年が握ったので、フィオナはびっくりして顔をあげた。
途端に、今度は彼の映像が頭の中になだれ込んでくる。
『お前、僕に逆らったらどうなるか分かっているよな?』
『やめてくださいと言われるのに手を出すのが、たまらないんだ』
『婚約? そんなの大人しい女としないと、遊べなくなるだろう』
『こっちは金ならあるんだ。結局名誉だって、金で買えるんだよ』
(だめ、きもちわるい、はきそう……)
醜悪な光景が次々に脳裏に浮かんでは消え、フィオナはもがくように彼の手を離した。それから少しでも彼から離れようとしたが、足に力が入らなくて席を立ち上がることすらかなわなかった。
「なんだよ、手くらい握ってもいいじゃないか」
にやにやしながら青年が言う。
「いえ……、それは……どなたであっても……、されないように、お願い、しています」
なんとかそう言えば、青年の表情がぐにゃりと歪んだ。
「なんだって? 美人だからってお高く止まっているの? 所詮、占い師のくせに」
「……、どう、思われても、結構です……」
切れ切れの息でなんとかそう答えると、青年がにこぉっと笑う。
「客である僕に反論するの? いいな、気の強い女は嫌いじゃない。 ねえ、お金ならいくらでも払うからさ、僕の家に来て、もっと占ってよ」
(きもち、わるっ……、も、だめ、座っても、られない、かも……っ)
フィオナがなんとか声を出そうとして、口を開いたその瞬間。
「行くわけないだろう」
背後からアッシュの声が響く。
(はく、しゃく……っ!)
アッシュの両手がテーブルに置かれている。
彼女を護るように、まるで後ろから抱きしめられているかのようだ。そうやって彼が密着してくれると、みるみるうちにフィオナの中に溜まっていた淀んでいた何かが薄れていく。
(呼吸が、楽に……なってくる……)
アッシュが来てくれた。
これできっと大丈夫だ。
フィオナは彼の手を握りたい衝動をおさえるのに必死だった。公衆の面前で、婚約者でも恋人同士でもない若い男女が手を握り合うことはありえないことだ。
(伯爵は、私が具合が悪くなったのに気づいてくれて……、こうやって、身体をくっつけて……中和しようと、してくれてるんだから、私が、手を握ったら、台無しだもの)
そしてフィオナが手を握りたいのは、中和したいからではなかった。
ただ、アッシュの存在を少しでも側に感じたかったから。
「そもそも彼女は気分が悪そうじゃないか。そんなこともわからないのか? 俺で良かったらもたれて」
アッシュが周囲に聞かせるように、はっきりとした口調で言う。
実際、あっという間に周囲が気づかわしげな空気になった。
「ロイド」
青年が苦々しそうな表情を隠そうともせずに、アッシュの名を呼ぶ。どうやら知り合いらしい。
「なんだ?」
「まさかだけど、お前、この占い師と何かあるのか?」
「――っ」
フィオナは目を見開く。
アッシュはしかし全く焦ったりはしなかった。
「だといったら?」
途端に青年が勝ち誇った顔になる。
「うそだろ、お前がっ……? 呪われたロイド家のお前が? だって先代があんな死に方をしたんだもんな! すごかったらしいじゃないか、死に様が!」
(えっ……?)
「そうか、誰もロイド家なんかに嫁ぎたくないからこうやって占い師風情に手を出して、我慢してるのか? かわいそうだな。色男が台無しだ。まともな家も、金もないヤツはそうやって生きるしかないんだな――……」
ドン、と握った拳でアッシュが机を叩くと、それまで気持ちよさそうに喋り続けていた青年がびくっと身を竦める。
「だから、なんだ? お前の言った通り、俺にはもう怖いものはない」
地を這うような低い声が響くと、青年の勢いは途端に削がれた。
「それがお望みなら、お前のことも呪ってやろうか?」
「な、なんでもない、なんでもない。あ、僕、会わなきゃいけない人がいるの、思い出したっ」
そそくさと青年が去っていった。
「臆病者が」
アッシュが呟く。
件の青年が去ると、それまで様子を伺っていた子息や令嬢たちがまたフィオナの机の前に並び始める。
「フィオナ、大丈夫か?」
彼が心配そうに小声で尋ねてくる。
「もし体調が厳しければ、俺が断ってこの場から連れ出すけど」
「ううん。今、伯爵が中和してくださったから、また頑張れます」
アッシュは一瞬黙り込む。
「わかった……辛かったら、いつでも合図して」
「はい――頼りに、しています」
それは間違いなくフィオナの本心だ。
彼が小さく息を呑む。
「俺を頼りにしてくれて、嬉しい」
やがてアッシュがそう囁き、彼の体温が遠ざかっていった。