10.なんということはないけれど、忘れられない日
倒れたのだから家の前まで送る、と言い張るアッシュをなだめつつ、待ち合わせをした街角で下ろしてもらうことにした。
「こんなに、夜遅いのに?」
「慣れていますので。むしろご立派な馬車で送っていただくほうが目立ってしまって、あとあと面倒なことになるかもです」
そういえば、アッシュは不承不承納得した。
「わかった。それで明日なんだが、夜会の予定は?」
「ないですよ」
「では、体調が大丈夫そうならば街に行かない?」
「……街に……?」
きょとんとしたフィオナに、アッシュが大真面目に頷く。
「君に美味しいものを食べさせたい」
「!?」
「目の前で倒れられてしまったから、心配でね。別に食事じゃなくてもいい。甘いものでも、なんでも」
(ご、強引……!! っていうか、そういえば最初もそうだった〜〜!!)
ちょっとだけ話をしたい、と帰りの馬車に乗せられたのだった。
「心配するな、俺はちゃんと平民のふりをするから」
「へ、平民のふり!?」
「ああ。目立たないような服装をしていく」
「で、できるんですか?」
(こんないかにも、ザ☆お貴族様、みたいなのに!?)
「できる。してみせる」
アッシュがきっぱりと言いきる。
(なんで、そんな、はりきって……子供、みたいに)
「ふふっ」
決意表明したアッシュを見ているうちに、フィオナは思わず笑ってしまった。彼女が笑うと、彼の表情も緩む。
「よし、笑ったな。決まりだ! 明日昼前に街の中心にある時計台の前で待ち合わせだからな。もし来なかったら、目立とうがどうしようが、フィオナの家の前まで馬車を回す」
「え、え〜〜!?」
「よろしく」
アッシュはそう言うと、爽やかに去っていった。
(伯爵に一体なんの得が……? ああ、明日も会っておけば、夜眠れるし、とか……?)
そんな素振りは一切なかったけれど。
「考えていても分からないな。ま、いっか……予定はないし……!!」
狐につままれたような気持ちで、フィオナは自宅に戻ったのだった。
◇◇◇
翌日。
時計台の前で待っていると、意気揚々とアッシュが登場した。
「フィオナ!」
手を振るアッシュは今日も顔がいい。
ベージュのカーディガンに白いシャツ、グレーのパンツ姿でも、とてつもなく格好良い。それでも確かに一目で貴族とは分からないような服装といえる。
イケメンの登場に、行き交う女性たちの視線が集中する。当の本人はそんな視線をまったく気にした様子はない。
アッシュはにこにこしながら問うた。
「何が食べたい?」
「え……、いや……なんでも、いいですけど」
「君の好物は?」
(好物……?)
フィオナは食に重きをおいていない。
適当に茹でた野菜や、豆、余裕があれば肉を食べることもあるがそれくらいだ。調理法にも味にも特にこだわりもない。大聖堂でも粗食が推奨されていたから、似たりよったりだった。
「うーん、なんですかね?」
彼があっけに取られたような顔になる。
「まさか、好物がない……?」
「特には」
答えると、彼は質問を変えた。
「じゃあ、好き嫌いは?」
「ないです」
すると彼が嬉しそうに表情を輝かせる。
「よし、じゃあ今日はフィオナの好物を探そう。俄然、やる気になってきた!」
笑いかけられて、どきっと鼓動が高鳴る。
(なんで、こんなにドキドキするのかしら……?)
内心首を傾げながら、フィオナは頷いた。
アッシュが連れて行ってくれたのは、貴族も平民も一緒くたに歩いている通りだ。さすがに高位貴族はほとんどいないらしいが、それでもこんなエリアがあるとは思いもよらなかった。
広い道の両端に屋台がびっしりと並び、貴族も平民もみな思い思いに足を止めて、店を冷やかしている。
「ここには来たこと、ない?」
「ないです。びっくりです……!」
「だろう? ほら、こちらに出店があるよ。炭火で焼いた串焼きだって。色気はないけど、どう?」
ふわりと美味しそうな肉の焼ける匂いが漂ってきて、フィオナの食欲を刺激した。あっという間にアッシュが買ってきてくれて、一串差し出してくれた。
「食べてみて?」
アッシュが自分の串に一口かぶりつき、咀嚼してみせる。
「うん、美味しいよ」
おずおずとフィオナも香ばしい匂いのする鶏肉を食べる。じゅわっと肉の旨味が口いっぱいに広がり、信じられないくらいの美味しさだった。
(お、お、おいし……っ!)
あっという間に食べ終えてしまったフィオナをアッシュがにこにこ微笑みながら眺めていた。
「好きだった?」
「はい、とても!」
「よかった。よし、次は――……」
そうしてアッシュが差し出してくれるものは、どれもこれも格別の味だった。屋台で売られていることもあり、どれも一口サイズで、これならばフィオナもたくさんの種類を食べることが出来る。
色とりどりの野菜を炒めたものや、異国からきたという香辛料がたっぷりかかった肉料理――これは辛かったから、ほとんどアッシュに食べてもらった――、はてはデザートまで。
小さなカップにふわふわのスポンジケーキと瑞々しいフルーツが入っていて、甘い蜜がかかっている。これがほっぺたが落ちるかと思うくらい美味しかった。
デザートは、癒やしだということをフィオナは初めて知った。
お腹がいっぱいになった頃、アッシュとベンチに座った。
「はい、どうぞ」
彼に渡されたのはミルクがたっぷり入った珈琲だ。
一口含むと、ほろ苦く深みのある味だった。
「美味しい……! 伯爵――」
言いかけると、彼が人差し指をあげた。
「今日の俺は伯爵じゃないよ?」
ぱっと口を噤むと、彼がいたずらっ子のように笑う。
「覚えてる? 俺は、ただのアッシュだよ。さあ言ってみて?」
「……っ」
「聞こえないな」
「……、アッシュ、さん」
なんだか気恥ずかしくて、小声になってしまう。
けれどアッシュが満足気ににっこりと笑った。
「それで?」
「あ、伯……、ア、アッシュさんは、よくこの街に来られるんですか?」
「俺? いや、俺も初めて」
ぱちくりとフィオナは目を瞬く。
「そうなんですか!? それにしては色々とご存知なんですね」
「うん。この街、有名でさ。夜会でもよく話題になるんだ。特に美味しいものに関してはみんな敏感だからね、いっぱい情報が集まってくるわけだ」
「なるほど……!」
納得したフィオナは、目前の往来を行き交う人々に視線を転じた。
一目で貴族だとわかる格好をしている人たちも、平民だと思われる人たちも、思い思いの過ごし方をしながらのびのびとしているように見受けられる。
「この街は、みなさん笑顔でいいですね」
「そうだな」
珈琲のカップをベンチに置いたアッシュが、うーんと背伸びをする。
つられるように、フィオナも空を見上げる。
雲ひとつない快晴だ。
(きもち、いいな……)
そよぐ風が頬にあたり、開放的な気分になる。
こんなに素敵な一日にしてくれるなんて。
フィオナは、しみじみとアッシュに感謝していた。
(少しくらい、自分のことを話してもいいかな……伯爵……アッシュに私がどれだけ感謝しているか知ってもらいたい)
衝動に任せて、口を開く。
「私、ダルカン共和国の生まれなんです」
「え?」
「ダルカン共和国って、ご存知ですか?」
視線を向ければ、きょとんとしたアッシュが頷く。
「ああ。隣の国だよな?」
「はい。母が亡くなってから養護院に引き取られて……それからも色々あって……父を探しにカルドリア王国に来たんです。だから私、ダルカン共和国でもこんな風に過ごしたことがなかったです」
強い風が吹き、フィオナはアッシュの呟きを追うことができなかった。
「養護院……? じゃあ君、どこでそんな貴族みたいな喋り方を……」
言いかけたアッシュが唐突に口をつぐむ。
「もしかして……?」
「なんですか?」
「ううん、なんでもない」
フィオナはそこで彼に向き直った。
「ありがとうございます、連れてきてくださって――私にとって忘れられない一日になりました」
彼女がお礼をいえば、アッシュの頬がさっと赤らむ。
「たいしたことはないさ――また来よう。君がご飯を食べているかどうかを、俺は見張る必要があるからね」
「ふふ」
フィオナは笑った。
先に席を立った彼が、振り向いて彼女に手を差し伸べる。
「中和ですか?」
「いや……ここからは人が増えるから、手を繋いでいこう」
「え!」
「フィオナが迷子になったら困るからね」
「なりませんよ」
「いいから」
楽しげなアッシュに誘われるように、フィオナの手が彼の手に収まった。ふわりと浮遊感が彼女を襲い、心地よさを感じる。
(これは中和になるもの。アッシュさんが夜眠れ……ますように)
高鳴る鼓動は、気にしないことにした。