第五話
理想の母親と言える女優。彼女達に送られる、マザー・オブ・ベスト賞。
昨年の受賞者である華村真美が、不倫をしていた。
その事実は、一気に世間の注目を集めた。
華村真美――真紀は、普段は札幌で生活している。仕事のときには東京に行き、必要に応じてホテルで宿泊する。現在は、東京に長期滞在する仕事はない。だから、不倫相手の斉藤健太を札幌に呼び寄せ、逢瀬を重ねていた。
油断していたんだろうな。母の不倫が発覚した理由を、美月はそう分析していた。
美月は、母のことが好きではない。ほとんど自分に構ってくれない人を、好きになることなどできない。
かといって、嫌いでもない。嫌いなるほど、深い関わり合いがない。
だから、母の不倫なんてどうでもよかった。父を裏切って許せないなんて気持ちも、もちろんない。父にだって、何人も愛人がいる。
どうでもよかったのだ。
どうでもいい、はずだった。
それなのに。どうしてか分からないけど。
胸の奥が、何だか気持ち悪かった。
平日の昼休み。
美月は、食堂で昼食を食べていた。窓際の一人席ではなく、四人掛けのテーブル席で。手元には、サンドイッチとジュース。
いつからか、窓際の一人席は使わなくなった。ひとりで食堂に来ても、テーブル席に座るようになった。
約束などしていなくても、いつも一緒に食べる人がいるから。いつも声をかけてくれるから。
テーブルにおいたスマートフォン。ニュースサイトが表示されている。母の不倫報道。
「前、いいか?」
サンドイッチを食べながらニュースを見ていると、声を掛けられた。声の主が誰かなんて、考えるまでもなかった。
顔を上げる。思った通りの人物が、目の前にいた。南明人。クラスメイト。
「うん。いいよ。ってか、いつものことでしょ?」
「まあ、最近はな。でも、ひとりで食べたいときもあるかなぁ、って」
「ないない。大丈夫大丈夫」
手を左右に振って、美月は笑顔を見せた。たぶん、この笑顔はぎこちない。自分でも分かるくらいに。
胸の中が、変な感じだ。モヤモヤした、嫌な感じ。明人を見ると、その不快感が増したように思えた。でも、彼が嫌なわけじゃない。それどころか、彼と一緒に過ごす時間は楽しい。
いつものように、明人は美月の前に座った。今日の彼の昼食は、カツ丼だった。サイドメニューの唐揚げまである。相変らず出費が多そうな昼食だ。秋になってブレザーを着用するようになったが、それでも、強靱な体つきであることがわかる。こういった食事と練習が、彼の体を作っているのだろう。
「で、どうした?」
椅子に座ると、いきなり明人が聞いてきた。
美月は首を傾げた。
「何が?」
「なんか、落ち込んでるように見えた」
「そう?」
疑問符を返して、美月はすぐに訂正した。
「そう、かも」
「やっぱり」
「そんなこと、どうしてわかったの?」
「天才だから」
明人はよく、自分を天才だと言う。彼とよく話すようになってから、何度も聞いた言葉だ。自信たっぷりに言う言葉ではない。むしろ、自分の才能を疎ましそうにしている。いつも、そんな言い方をする。
「天才だから、色んなことが見えるし、色んな事がわかるし、色んなことができる」
「明人って、本当に天才っぽいよね。勉強もできるし、柔道も強いし。色んな事を察してる感じがするし」
いつの頃からか、美月は、彼を「明人」と呼ぶようになった。よく話すようになってから、まだ三ヶ月程度。それでも、もう、愛奈や優里亜と同じくらいに親しくしている。
「まあ、本当に天才だからな」
自嘲気味な笑い方。明人は、基本的には明るい。けれど、天才という言葉を口にするときだけ、こんな顔をする。
「で、何があったんだ?」
カツを口にしながら、明人が聞いてきた。その目は真剣そのものだった。でも、表情は優しい。彼と初めて話したときは、恐かった。そんなことが、今では懐かしい。
「んー……」
美月は言葉を濁らせた。心を不快にさせている、母親の不倫。どうでもいいはずなのに、なぜか不快で気持ち悪い。その気持ちの正体が分からない。
明人になら、自分の気持ちを話してもいいと思う。自分が、華村真美の娘だということも。けれど、やはり躊躇してしまう。理由は分からないが、彼には知られたくない気がする。
明人から視線を逸らして、美月は少し考え込んだ。ほんの数秒してから、彼に視線を戻した。
「ちょっと、ここでは言いにくいかな。周りに聞かれたら嫌だし」
「そうか」
明人は唐揚げを口にし、噛み、水で流し込んだ。コップをテーブルに戻す。
「じゃあ、放課後、カラオケにでも行かないか?」
「カラオケ?」
「ああ。二人だけの個室なら、聞かれる心配もないだろ?」
「まあ、そうだけど」
「いや、無理にとは言わないけどさ。話したくないなら話さなければいいし」
「そうじゃなくて。明人、部活は?」
「サボる」
「ちょっと。柔道部のエースでしょ? そんなんでいいの?」
「いいんだよ。俺、天才だし。一日二日サボっても、それなりに強いし」
天才という言葉を口にすると、やはり明人の表情は曇る。すぐにもとの表情に戻ったが。
「美月の歌を聴かせてくれるなら、カラオケは俺のおごりでいい」
「本当に?」
つい、美月は、テーブルに身を乗り出した。ライブと練習のために、少しでも出費を抑えたい。無料で声量を抑えずに歌えるのは、非情にありがたい。
「乗り気だな」
「そりゃもう」
「じゃあ決まりな。俺の好きなミュージシャンの曲、リクエストするから」
「知らない曲だったらごめん」
「Jekyllの曲だけど。分かるか?」
「まあ、何曲かなら」
「じゃあ、どの曲知ってるか、教えてくれ。美月が歌うJekyllの曲、聞きたい」
「了解」
美月の心には、重たい気持ちが残っている。自分でも正体の分からない、不快感。嫌悪感。それなのに、明人と話していると笑顔になれた。最初の、無理に浮かべた笑顔ではなく。
いつものように、明人と楽しい昼休みを過ごして。
少し憂鬱な気分で、午後の授業を消化して。
放課後に、明人と待ち合わせて。
地下鉄に乗って、札幌駅付近のカラオケボックスに来た。
二人用の、カラオケボックスの個室。暗くて狭い。ソファーはひとつだけ。必然的に、明人と並んで座ることになる。
部屋に入ると、美月はすぐにソファーに座った。明人が隣りに座る。体がくっつくほど近いわけでもにないのに、なんだか照れる。
「とりあえず二時間で部屋取ったから。どうする? 先に歌うか?」
聞かれて、美月は目を伏せた。付き合いは短いが、明人とは、もう親友と言っていい間柄だ。少なくとも美月は、そう感じている。だから、自分の秘密を打ち明けてもいいと思う。
自分が、華村真実の娘だという秘密。秘密を打ち明けて、母の不倫で気分が重くなっていることを伝えて。
「……」
明人に伝えて、どうしたいんだろう。疑問が浮かんで、美月は自問した。明人に秘密を伝えて、自分は、彼に何を聞きたいのだろう。何を言ってもらいたいのだろう。
どうして母の不倫で不快になっているのか、分からない。自分の気持ちの正体が知りたい。明人に聞いてみたい。彼になら、秘密を知られてもいい。でも、矛盾するようだが、知られたくない自分もいる。
そもそも、どうして明人に打ち明けたいと思うのか。どうして、明人には知られたくないと思うのか。
親友だから? でも、それなら、なぜ愛奈や優里亜には自分の秘密を打ち明けないのか。
考えて、考えて。
自分の気持ちが分からないまま、美月は明人を見つめた。体が触れ合うほど近いわけではない。でも、思った以上に、彼との距離は近かった。
「あの、ね。明人」
「おう」
「華村真美の不倫のニュース、今、凄いことになってるでしょ?」
「そうだな。どのニュースサイトを見ても、必ずトップに出てるし」
「それでね、考えたの。もし、私のお母さんも不倫してたら、って」
話の中に、美月は嘘を混ぜた。
「私のお父さんとお母さんね、完全な仮面夫婦なんだ。お父さんはほとんど家にいないし。だから、お母さんが不倫してても不思議じゃないし、もしかしたら、もうしてるかも知れない」
「ああ」
母が不倫しているのは、紛れもない事実。その事実は隠した。なぜかは分からないが、明人に知られたくなかった。
「私のお母さんね、私に無関心なんだ。もちろん、親として最低限のことはしてくれるよ。だから、何不自由なく生活できるし。でも、昔から、運動会も参観日も来てくれなかった。私の高校受験にも無関心だった」
「そうか」
相槌を打ちつつも、明人は、必要以上に口を挟まない。美月の話を、しっかりと聞いてくれる。美月に無関心な両親よりも、はるかに。
だから、言葉が止まらなかった。
「お母さんは私に無関心だから、私は、お母さんのことが好きじゃない。嫌いですらない。自分とは無関係なところで好きにしてくれてたらいい、って思ってたの」
これは本当だ。母は、仕事と恋愛に夢中。SNSで公開した、娘とお揃いの手作り弁当。本当は、彼氏とお揃いの手作り弁当。女優業の後押しとなる、マザー・オブ・ベスト賞。彼女が手に入れてきた、地位と名誉。名声。
母が必要としているもの。その中に、美月はいない。
「なのに、ね。お母さんが何をしてもどうでもいい、って思ってたのにね」
つい、美月は、明人に顔を近付けた。明人の瞳。じっと美月を見つめている。視線が絡んでいることが、はっきりと分かる。
「なんか、嫌だった。お父さんを裏切って許せないとか、そんな単純な倫理観じゃない。私に構ってくれないのに彼氏は作るんだ、なんて子供みたいな嫉妬でもない」
ソファーに座った直後は、明人の隣りにいるだけで照れた。それなのに今は、こんなにも距離が近い。
互いの呼吸を感じられる距離。
こんな距離で、自分の気持ちを吐き出している。素直で、正直な気持ちを。まるで、心で直接喋っているようだった。
だから。
無意識のうちに、不快感の理由が言葉になった。
「お母さんの娘なのが――あの人と同じ種類の人間なんだってことが、凄く嫌だった」
自分の言葉に反応して、美月は肩を震わせた。今まで気付かなかった、不快感の正体。美月は、母のことが好きではない。かといって、嫌いでもない。
ただ、母のような女にはなりたくないのだ。奔放で、男の上を渡り歩いて、外面だけいい女には。
自分の気持ちに気付いて。明人との距離が、極端に近いことにも気付いて。美月は慌てて、もとの位置に座り直した。キスできそうなほど、距離が近かった。
頬が熱い。きっと、顔が赤くなっている。室内が暗くてよかった。真っ赤になっていることに気付かれずに済む。
なんだか恥ずかしくて、美月は、明人から目を逸らした。それでも、話すのはやめない。
「ねえ、明人」
「なんだ?」
「もし、だよ。もし、私が華村真美の娘だったら、私のこと、どう思う?」
「どう思う、って?」
「母親と同じように、恋人や夫を裏切るような女だと思う? SNSではいい母親を演じながら、裏では男と遊び回るような女だと思う?」
「いや。お前はお前だろ」
伏せた美月の顔を、明人が覗き込んできた。優しい笑顔だった。
「確かに遺伝はあるし、親元で育ったなら親の影響は受けるだろ。でも、親と同じ人間になるわけじゃないからな」
「そう、かな?」
「そうだよ。でないと、世の中の人間は、みんな親のクローンになるだろ。犯罪者の子供が犯罪者になるわけじゃない。立派な親の子供が、立派になるわけじゃない。そういうことだよ」
美月は、伏せていた顔を上げた。
明人が笑っている。
「な? そうだろ?」
少しだけ、美月も笑うことができた。
「そうだね」
「まあ、世の中の誰もがそういう風に考えるわけじゃないし、下らない偏見を持つ奴だっている。それこそ、もし美月が華村真美の娘だったら、大変だっただろうけど」
「大変って?」
「夫がいながら彼氏を作る女の娘、みたいなことを言われて。それが曲解されて、奔放な女扱いされて。さらに鳥取先輩の噂も手伝って、今以上に色んな男から声かけられて」
鳥取先輩が流した噂は、未だに消えていない。彼はもう、噂を吹聴していない。だが、噂の火消しも行なっていない。
もっとも、美月は、もう噂など気にしていなかった。明人が、当初交わした約束を守ってくれているから。
『噂を聞いて声をかけてきた男がいたら、教えてくれ。俺が事実を教えてやる』
明人と話すようになってから、美月は、何人かの男に声を掛けられた。その全員に、明人は事実を伝えていた。多少の脅しを交えながら。結果として、美月のバックには明人がいる、という噂が流れた。
今ではもう、美月に声をかけてくる男はいない。少なくとも、下心を満たすために声をかけてくる男は。
美月は明人に感謝している。親友だが、恩人とも言える。でも、親友に素直に礼を言うなんて、なんだか照れ臭い。だからつい、からかいたくなる。
「まあ、確かに私が華村真美の娘なら、今以上に、下心満載の男に声かけられたかもね。『誰とでもヤるんだろ?』とか言われて」
「だろ?」
「だよねー。明人も、最初、そんなふうに声かけてきたもんねー」
「……おぅ。やぶ蛇」
少しだけ、明人は困った顔になった。
彼の表情が、少し可笑しい。もっとからかいたくなる。
「怖かったなー。犯されるかと思ったもん。あんたに襲われたら、抵抗しようもないし」
「いや……その……謹んでお詫び申し上げます」
「まあ、いいんだけどねぇ」
フフンと鼻で笑うと、美月は、少しだけ意地悪な質問をしてみた。
「じゃあさ、明人」
「なんだ?」
「もし、私が噂通りのビッチで、あんたに声かけられたときに簡単に乗ってきたら、どうしてた?」
この意地悪は、明人には通用しなかった。恥ずかしがることも照れることもなく、返答してきた。
「そりゃ、ヤッてるだろ。間違いなく」
「……即答してるし」
「当然だろ」
「スケベ」
「男がスケベじゃなきゃ、人類は絶滅するんだよ」
「いや、まあ……確かに、そう言われればそうかも知れないけど」
ふざけた種族保存理論を口にして、明人は、先ほどの美月のように鼻で笑った。笑いながら、マイクを手に取った。
じっと、手にしたマイクを見ている。スイッチの入っていないマイク。明人の笑みの形が変わる。「天才」と口にするときの、自嘲的な笑み。
「でも、まあ。美月が本当に華村真美の娘だったなら、今がチャンスかもな」
「はい?」
明人の言葉の意味が分からず、美月は変な声を漏らしてしまった。
「チャンスって、何が?」
「美月ってさ、今、すげぇ頑張ってるだろ。自分達だけで金貯めて、ライブの準備して。練習して。つまり、奔放で家庭を顧みない母親の子でも、そんな境遇にめげずに努力してるわけだ」
「いや、まあ。それなりに頑張ったけど。単独ライブするの、目標だったし」
「それって、世間に名前を知られるチャンスだろ? 有名な母親の力を借りることなく、奔放な母親の影響を受けることもなく、自分の道を進むことが出来る。華村真美の名前が悪い意味で報道されてる分だけ、いい意味で世間の注目を集められるだろ」
「ただの親の七光りじゃん、そんなの」
美月は、自分達の力だけで、のし上がりたかった。実力だけで――自分達の曲の力だけで、注目されたかった。
親の七光りなんて格好悪い。だから、親の名前を使って売れたくない。
明人の考え方は、そんな美月とはまるで違っていた。
「いや。親の七光りとは違うだろ。むしろ、華村真美の娘なら、今は、親のせいで逆境に陥ってるわけだし。そんな不運を逆手に取るわけだから、むしろ格好いいだろ」
「なんか斬新。発想が」
「そうか?」
明人の表情は、先ほどのままだった。「天才」と口にするときの、自嘲的な笑みのまま。手の中のマイクをクルクルと回しながら、話を続ける。
「何度も言うけど、俺、天才なんだ。天才だから、なんでもできる。でも、本気で努力しないから、なんでもそこそこで終わる。柔道だってそうだ。全国上位の奴等は化け物で、アイツ等に対抗できるようになるためには、才能だけじゃ駄目なんだ。それこそ、死に物狂いでやらなきゃならない。今の美月達みたいに。俺は天才だけど、そんなふうにできない」
明人は、マイクを回す手を止めた。そのマイクを、美月に差し出してくる。
「必死にやってる奴が成功するなら、格好いいよ。それが七光りであれ何であれ。むしろ、せっかく頑張ってるんだから、使えるものは何でも使えよ。どんな天才よりも、努力してる奴が成功すべきなんだから」
差し出されたマイクを、美月は受け取った。
「ライブのチケット、売ってくれよ? できれば最前列の。絶対に見に行くから」
明人の手が、マイクから離れた。
彼から受け取ったマイクを、美月はギュッと握り締めた。
今の言葉も、チケットの注文も、受け取ったマイクすら。明人からのエールのように思えた。
『頑張れるお前を、尊敬してる。だから、どんなことがあっても成功しろ。どんな手を使っても名前を売れ』
言葉にしないまま伝えられた、エール。
それがなんだか、こそばゆくて。でも、たまらなく嬉しくて。思わず明人を抱き締めたくなるほど、胸が温かくなって。涙すら出てしまいそうで。
自分の気持ちを隠すように、美月は、目を閉じて笑顔を見せた。
「絶対来てね、ライブ」
「当然。何があっても行く」
応えて、明人は電子目次本――カラオケボックスのリモコン――の操作を始めた。
「んじゃ、ここは奢るから、約束通り歌ってくれ」
「おっけ。何入れるの?」
「Jekyllのghost Ship。知ってるか?」
知っている。Jekyllは、明人の好きなミュージシャン。ghost Shipは、その曲のひとつ。愛を求めて彷徨う幽霊船の物語。悲しげなバラード。
イントロが流れてきて。
美月は大きく息を吸い込んだ。