第二話
美月が通う高校には、一階に購買がある。購買に隣接する場所には、一五〇名ほどが使える食堂。
弁当持参の生徒は、教室で昼食を食べる。弁当を持参していない生徒は、食堂で食べることが多い。
鳥取に吹聴された、美月の噂。その噂について明人に話してから、一週間ほどが経っていた。
昼休み。
美月は、いつものように購買に足を運んだ。サンドイッチとジュースを買い、食堂に向かう。
食堂の窓際には、一人席がいくつも並んでいる。室内の中央部には、四人掛けのテーブル席が多数。
美月は、いつも一人で昼食を食べている。噂のせいで、クラスでは孤立していた。「誰とでもヤる女」という噂には尾ひれがつき、人の彼氏を寝取る女、とも思われていた。だから、女友達はいない。もちろん、男友達もいない。美月に寄って来る男は、噂のせいで、下心のある奴ばかりだった。
同じバンドの愛奈と優里亜は、親に弁当を作ってもらっている。今頃は、教室で昼食を食べているだろう。購入した昼食を教室まで持って行けば、彼女達と一緒に食べることもできる。そうしないのは、彼女達にまで変な噂が流れないようにするためだ。
噂を流した鳥取は、最近、美月に絡んでこなくなった。明人が手を回してくれたのだろう。今では、美月を避けるようにすらなった。もっとも、自分が流した噂について、訂正はしていないようだが。
食堂に足を運ぶと、美月は、空いている席を探した。窓際の一人席は満席。四人掛けのテーブルは、いくつか空いている。
一人で四人掛けの席を使うのも気が引けたが、他に空いている席はない。仕方なく、美月はテーブル席の椅子を引き、腰を下ろした。パックのジュースにストローを差す。サンドイッチの袋を開けた。
片手でサンドイッチを掴み、口に運ぶ。もう片方の手で、スマートフォンを取り出した。SNSを開く。検索バーで『華村真美』と検索した。新着順に、投稿記事が表示された。
すぐに、母親の投稿を見つけた。女優の華村真美。本名は北村真紀。美月の母親。
『今日のお弁当』
朝の八時半に、母は記事を投稿していた。綺麗で可愛いお弁当の写真。目玉焼きやミートボール、ブロッコリーなどが入っている。ご飯にも色がついていた。ふりかけを混ぜ込んだのだろうか。そんなお弁当が、二つ。
お弁当の一つは、母のもの。
もう一つは、美月のものではない。
とはいえ、父のものでもない。
母の恋人――不倫相手のもの。ドラマで共演して以来仲良くなった、七つも年下の俳優。
それなのに、投稿記事にはこんなふうに記載されていた。
『娘とお揃いのお弁当』
サンドイッチを頬張りながら、美月は鼻で笑ってしまった。
母は、いつもこんな記事を投稿している。毎日毎日、飽きもせず。いいお母さんです、というアピール。女優業も母親もしっかり務める、賢母の演技。さすが有名女優だ。演じるのが上手い。
母は、昨年「マザー・オブ・ベスト」という賞を受賞していた。それもこれも、彼女の女優としての実力だろう。SNSという舞台の上で、賢母の役を演じている。舞台から降りれば、娘の面倒など見ない。口もほとんど聞かない。母は、仕事と恋に夢中だった。昔から、ずっと。
「前、いいか?」
うんざりした気持ちでSNSを見ていると、声をかけられた。顔を上げると、クラスメイトがいた。南明人。
「いいよ」と言う前に、美月の口から質問が出た。意図してではなく、ほとんど反射的に。
「鳥取先輩に言ってくれたの? 噂のこと」
「まあな」
明人はちょっと笑っていた。
「胸倉掴んで少し脅したら、簡単に認めた。認めて、もう言わないって約束してた。やっぱり、ただ調子に乗ってるだけだな、あの先輩」
「そうなんだ」
声高々に「喧嘩上等」なんて粋がっている、鳥取。そのくせ、明人に脅されて萎縮した鳥取。その両方の姿が思い浮かんで、美月はつい笑ってしまった。
「やっぱり格好悪いね、あの先輩」
「まあ、同じ学年の女子には、そこそこ人気みたいだけどな」
「みたいだね」
「割と女癖も悪いらしい。あんな奴のどこがいいんだか」
「女癖悪いんだ? 私のこと、ビッチ扱いしたくせに」
「自分のことじゃねーか、ってな」
言い合って、顔を見合わせて笑った。
「で、前、いいか?」
「どうぞどうぞ。お座りください」
「失礼します」
また笑い合う。
美月の前の席に座ると、明人はすぐに質問を投げかけてきた。
「弁当は持ってないのか?」
「うん。ウチの親、作ってくれないし。昼食代を渡されてる」
「俺もだよ。友達と一緒に食べないのか?」
「私と一緒に食べるコなんていないよ。鳥取先輩のせいで」
「なるほどな。でも、去年、一緒にバンドやったコ達は? 仲良くないのか?」
「仲はいいと思うよ。学校祭が終わっても、一緒にバンドやってるし。去年の学校祭の後は、ライブイベントにも出たし」
「イベント?」
「うん。すすきのの方にある『MOON HALL』ってライブハウス、知ってる?」
すすきのは、地元にある全国有数の繁華街だ。飲み屋や交遊施設、風俗店などが乱立している繁華街。MOON HALLは、すすきのの少し外れにあるライブハウスだった。収容人数は三〇〇人ほどで、一階席と二階席がある。地元のアマチュアバンドの聖地にように扱われている。
明人は首をひねった。どうやら、MOON HALLを知らないらしい。
「MOON HALLってライブハウスがすすきのにあってね。そこでライブイベントがあったから、去年、私達も参加したの。十組くらいのバンドが入れ替わり立ち替わりって感じで歌って。まあ、十組もあるから、一つのバンドが演奏できる曲なんて、三、四曲くらいなんだけど」
「なるほどな。で、どうだったんだ?」
聞きながら、明人は、袋詰めのおにぎりを頬張った。彼は、おにぎりを五個に、唐揚げ八個入りを購入していた。昼食代は、千円近くになっているだろう。
明人の昼食代を想像しつつも、美月は、つい、笑みを浮かべてしまった。愛奈や優里亜とともに演奏した、初めてのライブ。あのときのことを思い出すと、今でも興奮が蘇る。
「最高だった。色々と問題もあったけど、ライブ自体は最高」
「問題?」
今度は唐揚げを頬張りながら、明人が聞いていた。
小さく、美月は頷いた。今では笑い話のエピソード。
「ちょっと、ドラムの人と揉めたの」
「ドラムの人? 北村のバンド仲間って、確か、三組の西川と東出だよな? 西川がギターで、東出がベースだったか。ドラムは別にいたのか?」
質問されたが、美月はすぐに回答できなかった。逆に、質問を返してしまった。
「愛奈と優里亜のこと、知ってるの?」
「面識はない。ただ、去年の学校祭のライブで見たから。それで覚えた」
「人の顔とか名前とか、よくそんなに覚えられるね」
美月は、人の顔を覚えるのが苦手だ。
おにぎりを口にしながら、明人は少しだけ微笑んだ。
「言っただろ。俺は天才なんだ、って。一回見た奴の顔は忘れないし、一度聞いた名前も忘れないんだよ」
そういえば、先週もそんなことを言ってたっけ。天才を自称する明人。彼の表情から、言葉通りの傲慢さは感じない。それどころか、嘲笑めいた笑みを浮かべている。先週と同じように。
小さく息をつくと、明人は表情を変えた。人懐っこそうな笑顔になった。
「んで、ドラムの人と、どんなふうに揉めたんだ?」
「ああ、そう。それね」
残りのサンドイッチを口に入れ、美月は、ジュースを口に含んだ。口の中の物を飲み込む。苦笑が浮かぶ。
「いや。私達のバンドって、ドラムがいないの。私と、ギターの愛奈と、ベースの優里亜のスリーピースバンド。だから、ライブのときは、よそのバンドのドラムに助っ人を頼んだの」
「なるほど。それで?」
「それでね、そのドラムが男の人だったんだけど」
「うん」
「ライブの後になってね、その。なんていうか」
「?」
「ライブの後に、口説かれちゃったの、私」
「……」
少しだけ、明人は目を見開いた。けれど、驚いたという表情ではない。どこか鋭さを感じる表情。まるで、真剣勝負でもしているときのような。
明人の表情に少し気圧されながらも、美月は話を続けた。
「その人が、まあ、結構しつこくて。ライブの片付け中、ずーっと口説いてきたの」
「それで、どうしたんだ?」
明人が、テーブルに身を乗り出してきた。表情は、先ほどと変わっていない。
「えーっとね。とりあえず、断ったの。連絡先も教えなかったし。しつこかったけど」
「ああ」
「そしたらね、愛奈が」
「西川が?」
「なんて言うか……」
「?」
去年のことを思い出す。愛奈、なんて可愛らしい名前に似合わず、彼女は気が強い。つい吹き出してしまいそうになる出来事。でも、人に教えるのは、少しだけ恥ずかしいエピソード。
「愛奈が、怒ってね」
「そのドラムの奴に?」
「うん」
「それで、どうなったんだ?」
「それが、ね」
テーブルに身を乗り出している明人に、美月は顔を近付けた。小声でも聞こえるように。
「その人を、愛奈が蹴ったの」
「……それって、大丈夫だったのか? やり返されたりとか」
普通なら、そんなふうに考えるだろう。相手は男だ。単純暴力で喧嘩をしたら、不利に決まっている。まして愛奈は、気は強いが小柄で華奢だ。
でも、大丈夫だったのだ。むしろ、大丈夫じゃなかったのは、ドラムの男の方だった。
「愛奈が蹴ったの、その男の股間だったんだ」
「お……おぅ」
明人の口から、何とも言えない声が漏れた。
「しかも、一番痛いところにクリーンヒットしたみたいで。ずっと悶絶してた」
「……なんて言うか……ご愁傷様としか言えないな。同じ男として」
明人は顔を引きつらせていた。
当然だが、女でも、股間を蹴られれば痛い。手足や体を蹴られるよりも。だが、男が股間を蹴られる痛みは、どうやら桁が違うらしい。今の明人の表情から、それが伺い知れる。
美月は、興味本位で聞いてしまった。
「……あれって、そんなに痛いものなの?」
「痛いなんてレベルじゃない。あれは息が止まる」
明人の表情は真剣そのものだった。
美月は、声を出して笑ってしまった。
「柔道の強豪がそんなふうに言うんだから、相当なんだね」
「どんなに練習しても、そこだけは鍛えようがないからな。とりあえず俺は、西川を怒らせたら駄目だと学んだ。自分の子供じゃない方のムスコが潰される」
「……ちょっ……」
明人の顔に向かって吹き出しそうになり、美月はなんとか堪えた。
多少下品な話も交えながら、美月は、ライブのことを明人に話した。彼も楽しそうに聞いてくれた。
いつもは、ただ食べるだけの昼休み。鳥取に噂を流されてから、昼休みが楽しいなんて思ったことはない。
でも、今日は楽しかった。美月の話で、明人が笑ってくれる。明人の話で、美月も笑う。
そういえば、いつ以来だろうか。学校内で、愛奈や優里亜の前以外で、こんなふうに笑うのは。
明人と話していると、楽しい。時間が過ぎるのが早い。
この日から、美月は、ほぼ毎日、明人と昼食を食べるようになった。