第一話
「誰とでもヤるって本当か?」
昼休み。通っている高校の二階。廊下の端まで連れ出されて、突然、そんなことを言われた。
またか――と美月は、溜め息をつきたい気分になった。こんな噂を流したクソみたいな先輩に、苛立ちが募る。陰湿で、陰険で、そのくせ人の注目を集めるのは上手い先輩。心底、ぶっ殺してやりたい。
もっとも、今の美月には、溜め息をつく余裕などなかったが。
目の前にいるのは、同じクラスの南明人。身長こそ一七〇程度しかないが、Yシャツの上からでも強靱な筋肉の存在が分かる。柔道部所属。今年のインターハイ予選で、二年にして、札幌市内予選で優勝。北海道大会ではベスト四まで勝ち残った選手だ。
美月の高校は進学校だ。スポーツには特に力を入れていない。道内の強豪になるような部活も、もちろんない。そんな環境で練習しながら、明人は、強豪校の選手とも渡り合えるほどの実力者だった。階級は確か、73キロ級だったか。
明人は、じっと美月を見つめていた。眼光が鋭い。怖い。正直言って、この場で泣き出してしまいたい。
震えそうな気持ちを抱えながら、美月は、それでも明人を睨み返した。絡まれて泣くなんて、格好悪い。美月を支えているのは、ちっぽけな自尊心だった。
美月は、誰とでも寝るような女ではない。それどころか、男性経験がない。さらに言うなら、彼氏がいたこともない。
そんな美月に「誰とでもヤる」なんて噂が流れ始めたのは、一年のときの学校祭がキッカケだった。
学校祭には、ちょっとした音楽イベントがある。端的に言えば、即席バンドの発表会。当然ながら、レベルはたかが知れている。本格的な音楽で盛り上げようとする者など、いなかった。ただ気持ちよく演奏し、ただ気持ちよく歌い、ただ楽しく鑑賞する。それだけのイベント。
そんなイベントの想定が、去年、崩れた。
当時一年生だった美月は、学校祭の音楽イベントに参加した。美月を誘ってきたのは、同じクラスの西川愛奈と、東出優里亜だった。彼女達は、音楽の授業で美月の歌声を聞いて、目を付けたという。
学校祭の後に聞いたのだが、美月を仲間に入れた瞬間に、二人はこう思ったそうだ。
『他のバンドなんて三下扱いにできる』
愛奈と優里亜の予想は、見事に当たっていた。
美月は、容貌に恵まれている。美人女優として知られる母の血を、しっかりと受け継いでいる。加えて、歌唱力は抜群。音感に優れているだけではない。よく通る鋭い声に、広い音域。声を裏返さずとも出せる高音と、重厚ながら心地よい低音。
去年の音楽イベントは、美月達のワンマンショーとなった。アンコールの声まで客席から上がったほどだ。もっとも、時間の関係から、アンコールは行なわれなかったが。
一年のときの学校祭は、今でもよく覚えている。美月にとって、最高に気持ちよかった瞬間のひとつだ。愛奈や優里亜とも親しくなって、今でもバンドを続けている。去年は、三人でライブイベントにも参加した。もちろん、演奏する側として、だ。
しかし、美月にとって、学校祭は、不快な日々の始りでもあった。
学校祭で有名になった美月は、一年上の鳥取先輩に目を付けられた。鳥取忠志。進学校にいながら悪ぶっていて、なかなか目立つ先輩だ。「頭の悪さと喧嘩の強さは無関係なんだよ」だの「喧嘩上等」だのと吹聴している先輩。
美月の目から見ると、ひたすら格好悪い先輩だった。進学校なので、喧嘩などしたことがない生徒ばかり。その中で、粋がっている。彼の姿は、滑稽ですらあった。もっとも、なぜか女子人気は高いようだが。
学校祭の後。最悪なことに、美月は、鳥取先輩に告白された。
「俺と付き合えよ。俺のこと、もちろん知ってるだろ?」
悪い意味で知ってます。思わず本音を言いそうになり、美月は口を噤んだ。どんなに格好悪くても、一応は先輩だ。表向きは敬意を表し、丁寧にお断りした。
だが、鳥取はしつこかった。ストーカー並にしつこかった。何度か告白され、その度に断り、それでも諦めない鳥取にうんざりした。
あまりに鬱陶しくて、つい、正直に言ってしまった。「好みじゃないし、悪ぶってるのが格好悪いし、はっきり言って迷惑」と。
当然ながら、鳥取は機嫌を損ねた。女子人気が高く、そのせいで傲慢になった彼の鼻を、へし折ってしまったのだから。
機嫌を損ねた鳥取は、美月に対して報復した。簡単にヤらせる女だ、と吹聴した。学校祭で有名になってしまったことが、噂に拍車をかけた。
下品な噂。あまりに不快で、一度だけ、当時の担任に相談したことがある。日野輝義先生。彼は美月から話を聞くと、仕方ないという様子で言っていた。
『鳥取には注意しておくよ。あいつの担任にも連携しておく』
結果だけで言うなら、日野に相談したのは悪手だった。彼は、確かに鳥取に注意したのだろう。正確に言うなら、鳥取の怒りを煽る程度の、形式だけの注意をしたのだろう。それを証明するように、鳥取の流す噂は増長した。噂は、学年を問わず広まった。
噂が流れて以降、美月は、何度も校内の男に声を掛けられた。
『今日、付き合ってくれよ。ヤるの、好きなんだろ?』
その度に「ふざけんな!」と追い返した。せめてもの救いは、同じバンドの愛奈と優里亜が味方だったことだ。
そんな噂を流された結果、美月は、今、こんな状況に陥っている。
目の前には、クラスメイトの男。ただのクラスメイトではない。柔道の強豪。「喧嘩上等」なんて粋がっている鳥取など、一瞬で半殺しにできそうな男。
相変わらず、明人はじっと美月を見ていた。人相は悪くないが、目付きは鋭い。部活の練習では、一〇〇キロを超える部員を当たり前のように投げ飛ばすという。今までのように「ふざけんな!」なんて吐き捨てたら、どんな目に合わされるのだろう。
気が付くと、美月の膝は震えていた。精一杯の自尊心で恐怖を振り払おうとしても、体は正直だ。目の前の絶対的な強者を、怖がっている。
けれど、怖がっている自分を認めたくなかった。怖がることを、格好悪いと感じた。
だから、強気な言葉を返した。柔道の強豪に、腕力で敵うはずがない。争いになったら、間違いなくひどい目に合う。そう分かっていても。
意地を張りながら、ヤケにもなっていた。
「そんな噂信じてるなら、いっそ、レイプでもしてみれば? 案外、悦ぶかもよ? まあ、そんなことした瞬間に、あんたは犯罪者の仲間入りだけど」
意図的に、挑発的な笑みを見せた。膝は、相変わらずガクガクしていたが。
明人はじっと、美月を見ていた。彼の視線が動いた。黒目が、美月の足下へ。そこから、ゆっくりと上がってゆく。震えている膝を通り、呼吸が荒くなっている胸元を通り、上下する肩を通り、再び美月と視線が絡んだ。
美月と目を合せながら、明人は溜め息をついた。
「やっぱり嘘か」
「……は?」
明人の言葉に、美月は目を丸くした。強張っていた体から、少しだけ力が抜けた。
「やっぱり、って?」
「いや。目立つ綺麗な女が悪評流されるって、どこの漫画の世界だよって思って。興味があったから聞いてみた」
美月は首を傾げた。膝の震えは、止まっていた。
「嘘だって思ってたの?」
「まあな」
「なんで?」
「だって、そんな都合のいい女がいるなら、実際にヤッた男は噂なんて流さないだろ。独り占めして楽しもうとするから」
「そうなの?」
「そうじゃないのか?」
質問に質問で返されて、美月は返答に困った。怖がっていたのが馬鹿みたいに思えるほど、明人は穏やかな顔をしていた。
今さらながらに気付いた。明人の目付きが鋭く見えたのは、ただ単に、美月が怖がっていたからだ。
明人の表情が動いた。少しだけ、申し訳なさそうな顔になった。
「でも、まあ、嫌な気分にさせたみたいだな。それは悪かった。すまん」
「いや、それは別にいいけど」
素直に謝る明人を見て、美月の苛立ちが落ち着いた。これまで、噂を信じて声を掛けてきた男共は、誰一人として謝罪などしなかった。それどころか、美月が誘いを断ると、吐き捨てるように言ってきた。
『どうせヤりまくってるクセに』
そんな下品な男達に比べると、明人の態度はどこまでも紳士的だった。
「噂が嘘だって信じてくれるだけでも、ちょっと嬉しいかも」
安心したせいか、つい、美月の口から本音が漏れた。楽しくなんてないのに、なぜか笑みがこぼれた。
明人が再度、溜め息をついた。少しだけ美月から目をそらし、また視線を戻してきた。
「噂の出所は分かってるのか?」
「うん。鳥取先輩――って分かる?」
「知ってる。有名だから。馬鹿な意味で」
明人のストレートな物言いに、美月は吹き出してしまった。今度は、本当に楽しくて笑えた。
でも、明人は笑っていない。質問を続ける。
「鳥取先輩が噂の出所って根拠は? 本人に聞いたのか?」
「去年、言い寄られたの。んで、フッたの。そしたらすぐに、そんな話が出回った。鳥取先輩に言っても、笑いながら『知らない』とか言われて。否定して回っても、一部の友達以外は信じてくれなかった」
「そうか」
「だから、こんなふうに男に声掛けられてて」
「本当に悪かった」
「いや、南は悪くないよ。嘘だと思ってたんでしょ?」
「まあ、そうだけどな」
三度溜め息をつくと、明人は、今度は頭まで下げてきた。
「とりあえず、鳥取先輩には俺から言っておくよ。クソみたいな話すんな、って」
「……大丈夫?」
相手は仮にも先輩だ。
明人は、余裕のある顔をしていた。
「あのテの奴は、少し脅せば大人しくなるよ。粋がってるだけの、ただのビビりだ」
明人は、結果で実力を証明している。そういう人間の言葉には、説得力がある。
「ありがとう」
「いいよ。それと、今後、同じようなことがあったら教えてくれ」
「……何で?」
「そいつらにも事実を教えてやる。それでも信じないようなら、何度でも教えてやる」
「いや、噂信じてる男って、いっぱいいるよ? そいつら全員の顔を覚えるのって、無理じゃない?」
明人は口の端を上げた。自信に満ちた表情、ではない。どこか憂いを感じる表情。
「大丈夫だよ。俺、天才だから。一回見た奴の顔は忘れないし、知った名前も忘れないから」
天才。本人が言うと、傲慢にも聞こえそうな言葉だ。だが、明人が言うと、傲慢さも嫌味も感じなかった。彼の言葉に、不快感を覚えることもない。
――その後、鳥取は、本当に大人しくなった。校内で美月とすれ違っても、目を逸らすようになった。
もっとも、美月の噂は消えなかったが。