エピローグ
自分は、周囲の子供達とは違う。
自分が特殊であることに気付いたのは、いつ頃だっただろうか。
細かいことはもう覚えていない。
ただひとつ、言えるのは。
自分は、他人の半分以下の努力で、他人の倍以上のことができるということだ。
南明人は、常に無気力だった。自分が天才だと気付いた頃から、ずっと。
大した努力をしなくても、人より遙かに優れている。簡単に色んな事ができてしまう。
だから、悔しさも、悲しさも、嬉しさも、達成感も知らない。
学校の授業を聞くだけで、テストはいつも一〇〇点を取れた。
記憶力も応用力も、段違いだった。勉強面だけではない。日常生活でも、一度見た人の顔はまず忘れない。
体育の授業では、あらゆる競技を誰よりも上手くこなせた。
陸上部の奴よりも足が速かった。
サッカー部の奴を、簡単にドリブルで抜いた。
バスケットボール部の奴よりも、高確率でスリーポイントシュートを決めた。
柔道の授業のとき、柔道部の奴を簡単に投げ飛ばした。相手は黒帯だった。当たり前のように、柔道部にスカウトされた。中学三年のときだ。
柔道部に入ってたった二ヶ月で出場した、中体連の地区大会。あっさりと優勝した。無敗のまま勝ち進み、全道大会の決勝で初めての敗北を知った。相手は、全国で準優勝するほどの選手だった。
負けても、全然悔しくなかった。真面目に練習をしていないのだから、悔しいはずがない。
高校に進学して、なんとなく柔道部に入った。一年のときから、エースとして活躍した。練習はサボりがちだったが、それでも、市内の大会で優勝できるほど強かった。
つまらない毎日。
自分が必死に努力すれば、日本一にだってなれるだろう。
しかし、努力する気になどなれなかった。
努力すれば必ず頂点に立てる。そんな確信があるから、努力する気になんてなれなかった。決まり切った未来に辿り着いたところで、達成感なんて得られるはずがない。
高校一年のときの、学校祭。
毎年体育館で行なわれる、音楽イベント。一言で表すなら、素人バンドの発表会。
本当にただの気まぐれで、明人はイベントを見に行った。
思った通り、素人バンドの発表会だった。
だが。
最後のバンドの演奏を聴いたとき、明人の頭から「素人バンド」の言葉が抜け落ちた。
圧倒的なボーカルの歌唱力。耳ではなく、心に直接響いてくるようだった。ギターやベースもいい。ボーカルの歌唱力に負けることなく、曲を支え、個性を打ち出している。
それでもやはり、ボーカルに注目してしまった。それほど、彼女の歌声は圧倒的だった。
目一杯、力一杯歌うボーカル。彼女のことを、どこかで見た気がした。高校に進学してからではない。もっと昔。ずっと昔。確か、小学生の頃だ。
どこで見たんだっけ。明人は、記憶の引き出しを、片っ端から引いた。
思い出した。
母が読んでいた週刊誌で見たんだ。女優の華村真美が、娘を連れた写真。自分と同世代の、華村真美の娘。週刊誌の頃に比べれば大人になっているが、はっきりと面影があった。
華村真美は、普段は札幌に住んでいるという。それなら、娘がこの高校に通っていても不思議ではない。
明人の頭の中には、彼女の姿が刻まれた。
明人は、人の顔を忘れない。そんな明人が、「忘れない」のではなく、「無意識のうちに思い浮かべてしまう」ほどに。深く、深く刻まれた。
彼女が、明人の心に住みついた。
才能に恵まれた彼女が、全力で歌っている。その姿に憧れた。自分にはできないことをしている彼女。自分の才能を、研ぎ澄ましている彼女。
すぐに彼女の名前を調べた。北村美月というらしい。
その名前が、あるとき、他人の口から明人の耳に届いた。下劣な噂とともに。
「北村って、誰とでも簡単にヤるらしいぞ。鳥取先輩とか、他の奴等とヤりまくってるんだって」
その噂が下らない嘘だということは、すぐに分かった。鳥取は有名だ。いい意味でも、悪い意味でも。おおかた、鳥取が美月に言い寄って、フラれて、腹いせにそんな噂を流したのだろう。
美月の噂が嘘だということは、確信を持って断言できた。間違いなく嘘だと言い切れる。
それなのに、明人の心はザワついた。なぜかは分からないが、本人の口から「噂は嘘だ」と聞きたかった。
二年になって、美月と同じクラスになった。
噂のせいで、美月は、クラスで孤立していた。噂は尾ひれがついて「同級生の彼氏を寝取った」なんて話も出るようになっていた。バンド仲間の二人とは仲がいいようだが。
初夏になって、インターハイ予選が終わって。
明人は我慢できずに、美月を呼び出した。
「誰とでもヤるって本当か?」
端的に、美月に聞いた。
明人を前に、美月は震えていた。明らかに怯えていた。そういえば、と思い出した。俺、柔道の強豪なんだ。強くて恐いと思われてるんだ。
明人の心に、少しだけ罪悪感が生まれた。憧れの女の子を、恐がらせてしまっている。
美月は震えながら、それでも、喧嘩腰で言ってきた。
「そんな噂信じてるなら、いっそ、レイプでもしてみれば? 案外、悦ぶかもよ? まあ、そんなことした瞬間に、あんたは犯罪者の仲間入りだけど」
明人はゆっくり視線を落とし、美月の様子を観察した。震えている膝。呼吸が荒く、大きく動く胸元。膝に連動するように震える肩。それでも、怒りを混じえて睨んでくる瞳。
誰とでも寝る軽い女なら、すぐに色仕掛けでもしてくるだろう。でも、美月はそうしない。彼女の様子を見れば、真実は明らかだ。
明人は美月を宥め、噂の真相を彼女に確認した。自分が認識している事実と、完全に一致していた。鳥取を黙らせると、彼女に約束した。
次の日に明人は、早速、鳥取のクラスに行った。彼を廊下に連れ出した。『喧嘩上等』なんて吹聴しているくせに、彼は、借りてきた猫よりも怯えていた。
下らない噂を流すなと、鳥取を脅した。彼は簡単に従った。
しかし明人は、噂を訂正しろとは言わなかった。
鳥取を脅しながら、下心が芽生えた。
噂が否定されなければ、美月は孤立したままになる。それは、つまり――
――俺だけが、美月と親しくなるチャンスだ。
思惑通り、明人は美月と親しくなっていった。
昼休みは、いつも一緒に過ごした。
彼女と親しくなればなるほど、もっと一緒にいたいと思うようになった。
彼女を支えられる男になりたい。そんな願望が生まれた。
自分が美月を支えるには、どうしたらいい?
疑問の答えは、簡単に出た。
美月達のバンドに、ドラムはいない。
その枠に入り込めばいい。
こっそりと、誰にも言わずに。独自に。
明人は、ドラムの勉強と練習を始めた。
美月達は、単独ライブを目標にしていた。その目標が、実現することとなった。彼女達の意欲は、ますます増していった。
そんなときに、華村真美の不倫が明るみに出た。
落ち込む美月を励ました。
下心もずる賢い計算もなく、彼女を励ましたかった。
ただ、美月の心を支えたかった。
ここにきて、明人はようやく気付いた。
美月に対する気持ちは、ただの憧れなんかじゃない。
美月のライブを見に行って、明人の気持ちは決定的なものとなった。決定的に、自分の気持ちを自覚した。
そして、今。
終業式の日。
帰り道。
雪道の上で。
明人と美月は、立ち止まっている。互いに、見つめ合いながら。
美月が何を言いたいのか、もう分かる。それでも聞きたかった。彼女の口から聞きたかった。
「ドラム、始めてよ。私達のバンドで」
美月の口から出た言葉。明人が思っていた通りの言葉。彼女が、自分を求めてくれている。それが、何より嬉しい。たぶん、人生で初めて嬉しいと感じている。
「明人、天才なんでしょ? でも、死に物狂いになれないから、そこそこで終わるんでしょ?」
「まあ、な」
「じゃあ、私達の――私のために、死に物狂いになってみて。私が、明人に迫りたくなるくらいに」
明人は知っている。自分は天才だと。
明人は知っている。自分は熱くなれない人間だと。必死になれない人間だと。
でも。
美月が側にいてくれるなら。
美月と一緒にやれるなら。
明人は口を開いた。
返す答えは、もう決まり切っていた。
(終)