プロローグ
母親は華村真美。四十四歳。誰もが知っている美人女優。本名は北村真紀。旧姓は広田。
父親は北村光一。五十七歳。一般人の名を借りた、大企業の代表取締役社長。
美月は、二人の一人娘。顔も名前も世間に公表されていない、存在だけが知られている娘。
美月が世間に顔を出したのは、一度だけだった。母親と一緒にいるところを写真に撮られ、週刊誌に掲載された。白黒の写真。小学生の頃だった。
もっとも、そんな写真で美月が有名になることはなかったが。
成功者の両親から生まれた美月は、生まれながらに、あらゆる物を持っていた。広く大きな家。豪華な食事。好きに買って貰えるオモチャ。ねだればいくらでも貰えるだろう、お小遣い。
けれど美月は、何一つ持っていなかった。
母親は恋多き女で、常に恋人がいた。父親以外の恋人が、だ。仕事がなく地元にいるときは、毎日ちゃんと家に帰ってくる。しかし、それは決して、美月とコミュニケーションを取るためではない。
父は、若い愛人を取っ替え引っ替えしていた。家に帰る頻度は週に一回くらい。ホームヘルパーや父の秘書の方が、家にいる時間は長かった。
美月を取り囲む、たくさんのぬいぐるみ。人形。オモチャ。ゲーム。美味しい食事。美味しいお菓子。どれもこれも、普通の子供なら夢中になるだろう。
しかし美月は、何にも夢中になれなかった。両親の愛情もなく、好きなものもない。後になって思い返してみると、ひどく暗い子供だった気がする。
中学一年のときだった。美月はクラスメイトに誘われて、大人数でカラオケボックスに行った。大部屋で、好きな曲を思い切り歌ってみた。思いのほか気持ちよかった。
曲が流れ終わると、カラオケボックスの大部屋が、クラスメイトの歓声に包まれた。皆、美月の歌声に感動していた。大絶賛だった。
音楽の授業でも、教師の前で歌うと絶賛された。
美月には、昔から特技があった。人の声や周囲の音――耳に入ってくる音を、全て音階に変換できるのだ。
「あれは『ド・ド・ド・ファ』だ」
「これは『レ・ド・レ・ファ・ソ』だ」
後になって、それが絶対音感なのだと知った。生まれ持った特別な才能。
でも、自分の才能なんてどうでもよかった。才能なんて関係なく、歌うのが気持ちよかった。楽しかった。
だから、心に決めた。
どんな形でもいい。たくさんの人に、歌声を聞いてもらえる人になる。大勢の前で歌いたい。
反面、同時に思った。
父や母の力は借りたくない。親の七光りなんて、格好悪い。
夢中になることができて。大好きなことができて。
美月はいつも、音楽について学び、歌い続けた。