7-2.パンドラの箱
感触があるといっても、暫くするとその期待だったものは氷が溶けて水になり蒸発していくように消えてなくなる。崩れ落ちたものを踏み付けようが、上から寝っ転がろうが怪我をすることはないが、痛みや不快さはある。
これから海鈴さんが出るテレビ番組をスマホで、ベッドの上で観ようと思っていた。なので崩れ落ちた破片の上に寝そべる羽目になるようなことは回避したかったのだ。
兄弟間でパンドラの箱と化しているもの、それはどちらが父親の病院を継ぐかということである。
母親が英才教育に力を注いできた理由も、少なからずそこにあった。
「貴方達もパパのように、立派なお医者様になるために一生懸命お勉強をするのよ」
刷り込みをするかのように、幼い頃からそう言われ続けてきた。
従順な二人の兄弟は何の不満もなく、当たり前のように勉学に努めた。それが今になって藍兄さんは病院を継ぐことを嫌がっているのだ。そして翠に病院を継いで欲しいと思っている。
そもそも、藍兄さんがいきなり弟に病院を継いで欲しいと考えるようになったのは、彼が今熱中している部活動の影響だ。
高校に上がると友人に誘われるままに軽音楽部に入り、バンドを組んだ。勉強漬けだった藍兄さんには、その活動が刺激的だったのだろう。今では勉強を放棄して家でベースの練習をする程にどっぷりとのめり込み、成績の低下を危惧する母親と喧嘩をしている声が翠の部屋まで毎日のように聞こえてくる。
勉強を放棄していると言っても成績だってまだ学年で三十位以内なのだから、そんなに堕落している訳でもないと思う。それでも母親にとっては大問題らしい。何せ母親の願いは、子どもに対する期待は、日本で一番偏差値の高い医学部のある大学に入学することなのだ。
ただそのせいで、ヘッドフォンをしているだけで母親から、
「お兄ちゃんみたいに道を外れちゃだめよ」
なんてチクチク言われるのだから全く嫌になる。とばっちりもいいところだ。
翠だって一応は父親と同じように医者になるつもりで勉強をしてきたが、それを宣言してしまえば今以上に母親からの干渉が強くなるのは目に見えていた。核心的な話になる度にのらりくらりと躱してきたのは、これ以上の過保護は御免被りたいからだ。
なぜなら来年、高等部に上がったらWeirdosでアルバイトをしようと心に決めているのである。海鈴さんと一緒にいれる時間を少しでも確保するためだ。
海鈴さんは来年には高校三年生になるので、大学受験のために仕事量を抑えることはわかっている。それでも少しでも一緒にいられる時間を確保したいなんて、我ながら健気なものだ。
藍兄さんを見ていればわかるが、翠がアルバイトと始めるとなったらその時は母親とのバトルは不可避だろう。そこに将来医者になるという話が絡むものなら、更にその戦いは白熱すること間違いなしである。
つまりは少しでも自由を手にしたい兄弟の、仁義なき押し付け合いなのだ。




