9-2.水族館へ
三月十三日の日曜日。九時四十分。
尾方 翠は渋谷駅のハチ公前にいた。今日はここで海鈴さんと待ち合わせをしている。
先月のバレンタインデーの日、翠は海鈴さんから友チョコと称したチョコレートを貰った。
喜んだのも束の間、手に持っていた紙袋を漁りながら海鈴さんが
「後渡してないのは……。これはママで、こっちは谷崎に渡すやつで……」
と呟き、翠のテンションは天国から地獄へ落ちた。
違和感を持ち始めたのは去年、海鈴さんの通っている高校で文化祭あった頃くらいからだ。ごく稀に海鈴さんの口から谷崎の名前が出てくるようになった。その違和感を放っておいた結果がこれだ。
いつの間にか海鈴さんから義理チョコを貰えるくらい、谷崎が信頼を得ていたなんて。
翠には自分が弟ポジションに甘んじている間に、海鈴さんと谷崎は一つ、また一つと苦難を乗り越え仲を深めているように見えた。
この危機的状況を脱すべく、海鈴さんに男として意識して貰うためにも意を決してホワイトデー直前の日曜日に水族館へ一緒に行こうと誘ったのだ。
とは言っても貯金第一の海鈴さんのことだから、断られる可能性も十分あった。なのでOKの返事を貰った時は思わずガッツポーズを決めたくらい嬉しかった。
男女二人きりでのお出掛け。そう、デートだ。
準備は万全、ソワソワしながら待っていると、
「翠! おはよ!」
駆け足で近づいてくるサラリとなびく黒髪、くすんだピンク色のコート、ベージュと赤のチェックのスカート。海鈴さんの姿をひと目見て、翠は天にも昇る気持ちとはこのことだと思った。
デートのために海鈴さんがこんなに可愛い格好をして来てくれるなんて心が踊る。
「海鈴さんっ! 俺も今来たところです! さぁ、行きましょうか!」
今日は絶対に楽しい日にするのだと気合を入れてエスコートをしようとするが、海鈴さんはキョロキョロと辺りを見回している。
「海鈴さん? どうしたんですか?」
「だってまだ……」
「へっ?」
状況を飲み込めずに戸惑う翠を置いてきぼりに、海鈴さんは何かを見つけたように表情を明るくする。
「あっ、いたいた! おーい!」
海鈴さんが手を振るその先には。
「あっ、みすずちゃぁん!」
もこもこの白いコートにデニムのジャンパースカート、見慣れたホワイトボードをぶら下げた女の子と手を繋いだ、その相手。
「や、やぁ、翠。えっと、水族館日和……だね?」
申し訳なさそうに苦笑いをする谷崎。
翠は自分の表情筋がピクピクと痙攣しているのを感じた。
お前は何故ここに。