7-8.失敗作
谷崎 光と少し言い争いをした次の日、翠は授業にも身が入らない程に苛々としていた。
――どうしたいとか、意志とか、何言ってるんだよ。
そんなことをぐるぐると考えて、悶々とする。家業のために医師になることは兄と自分の義務で親の期待でもあり、そのために行動しているのは自分の意志のはずだ。
モヤモヤと考え事していると、なんだか無性にあの絵が見たくなった。
苑田 寧々の行きたい場所を全部くっつけたというあの絵。
昼休みになると早々と昼食を取って美術室へ向かう。ドアを開けると、いつものように苑田 寧々は先に到着していて、大きなキャンバスに向かい合って座っていた。
いつもと違ったのは、彼女が絵の具で汚れたエプロンを着けていなかったこと。そして、彼女の目の前にあるキャンバスが真っ白だったことだ。
「苑田、あの絵はどうしたんだ?」
不思議に思ってそう問うと、
「失敗したの」
苑田 寧々が実にあっさりとそう言ったので、思わず聞き返す。
「失敗した?」
翠の言葉に頷いて、苑田 寧々はデッサン画諸々が置かれた一体を指差した。
そこには確かについこの前まで彼女が一筆一筆丁寧に心を込めて描いていた絵が置いてあった。近寄ってまじまじと眺めてみる。
「どこが失敗なんだ」
一体どうして、何を以て失敗なのか翠には全くわからなかった。
絵の中央にそびえ立つ古城は細部まで描き込まれ、滝は迫力を増して水飛沫が飛んでくるかのようにリアルだ。初めて見た時は気圧されるような迫力があったが、全体的にパステルカラーを帯びたのかファンシー感が増している。親近感が湧くような、可愛らしい絵に仕上がっていた。
「そんな絵を描くつもりじゃなかったの」
悔しがるでもなく、何の感情も籠もってないような様子で彼女は言い放つが、“そんな絵”なんて低い評価を下す程の失敗作だろうかと翠は首を傾げる。
そんな翠を真っ直ぐ見つめながら、
「ウチ、もうお昼休みに美術室に来るのやめる」
苑田 寧々はそう言った。
「何で」
食いつくように発した翠の質問には答えずに、
「今日で最後だから。せっかくだから、一つだけお願いを聞いてくれる?」
淡々と可愛げもなくそう返してくる。
いつものように油絵の独特な匂いがしていない美術室に、冷たい風が吹き込んで物寂しい。
苑田 寧々は続けて、
「尾方先輩の顔を見せて欲しい」
と言った。キャンバスに向けるような真剣な目でお願いされると、嫌とは言えずについ頷いてしまう。
「別に……いいけど……」
そう翠が答えるなり、ツカツカと容赦無く苑田 寧々は近づいてきた。その距離、約十五センチメートル。
仕方無しに前髪を捲り上げると、さらに苑田 寧々は顔を近づけてくる。彼女らしく真っ直ぐに見つめてくる。近距離で顔を見られることが気恥ずかしくて、翠は目を逸らした。
「こんな色してたんだ」
と言って苑田 寧々は翠の目を目掛けて手を伸ばす。反射的に翠は体を仰け反らせた。
「おいっ! 目潰しするつもりかよ!?」
こんな大声を出すのは、相手が谷崎 光だった時くらいだ。
「ごめんなさい、先輩の目がキレイだったから触ろうとしちゃった」
「真顔で怖いこと言うのはやめろ!」
そうツッコミを入れながら前髪をバサバサと顔にかかるように戻す翠に、苑田寧々はほんの少しだけ口角を上げた気がした。
「尾方先輩、ありがとう。それじゃ、さようなら」
《わからないでいて欲しい》
その新たな期待には答えられていたようで、吹き出しは割れることなく。何がわからないでいて欲しかったのかはわからないけど。
その後は何となくだが、苑田 寧々がいなくなったからでは決してないのだが、翠も昼休みに美術室へ行くことを止めた。
秘密基地を失った虚しさは、そのうちなくなるはずだと思う。