1-1.左頬に文字が見える
俺の名前は谷崎光。この春から大学一年生になったばかりだ。
実家は千葉県だが限りなく南房総の先端の方にあり、都内の大学に進学するにあたり一人暮しを始めた。両親の説得は大変ではあったが、その甲斐があって今は充実したスクールライフを堪能し始めている。
とはいうものの、比較的田舎……の出身だからであろうか。世間の流行についていけていない。
人並みには外見に気を配っているつもりではあるが、凄まじく移り変わる都会の流れには乗れていないようだ。
「おはよ、谷崎! 席取っといたぞー」
講義室に入るなり声を掛けてきたのは、大学に入学してから初めてできた友人、八坂栄助。
八坂とは入学してからまだ二ヶ月の付き合いだが、少しお喋り過ぎるところがあるも基本的にいいヤツだ。明るく染めたふわふわの髪の毛、人懐こい笑顔。シンプルながら計算されたオシャレなファッションセンスで、今日はモノトーンで決まっている。いつも通りだ。いつも通りなのだ。
彼の左頬に“話を盛る”と書かれていることを除けば。
頬に習字をしたかのように、達筆で書かれたその文字の下には、薄墨で描いたタンポポのような花の水墨画。八坂の頬の上で、三本ばかり風にそよぐように揺れている。
今日は朝からそうであった。
すれ違う人の誰もが左頬に何やら文字を書いて平然と歩いていた。
母親と手を繋いで歩く幼子からケータイをいじりながら歩くサラリーマンまで、全員だ。
ちなみにサラリーマンの左頬には、“テトリス”と書いてあり、その下に描かれた小ぶりの花は何故か力なく萎れていた。
何か顔に文字を書かなければならない法律でもできたのだろうか。大学に来るまでは我慢していたが、やはりこの状況はおかしい。
「谷崎、午前の講義サボっただろ。代返しておいたけど、必修科目くらいちゃんと来いよな」
「悪い……昨日夜更ししちゃってさ。八坂のおかげで助かったよ」
そう返事をしながらも、友人の表情よりその左頬ばかり見てしまう。
「なぁ、八坂……。お前のその顔の文字は何なわけ……」
意を決して聞いた質問に、八坂は怪訝な顔をする。
「文字? なんのことだよ?」
「いや、だって———」
言いかけた時、四人の賑やかな女子グループが講義室に入ってきた。思わず女子グループを目で追いかける。人気俳優のドラマ出演が決まったとかで、大はしゃぎをしているうちの一人の女の子の頬に、今にもはらはらとこぼれそうな程の大輪の花が咲いていた。そしてその大輪の花の上には……
「“歌”?」
俺の呟きで、八坂も女子グループの方を見る。
「あぁ、白井さん? 彼女すごいよねぇ」
「すごいって何が?」
「知らないの? 白井さん、歌がめっちゃ上手いんだよ。自分で歌った動画をネットにあげててさぁ。再生回数も伸びてるし、ちょっとした有名人だね。俺も聴いたけど、あの歌声はマジで染みるね。俺ちょっと泣きそうになったもん」
八坂は誰とでも仲良くできる性格もあってか、かなりの情報通である。すらすらと話す八坂に相槌を打ちながら、彼の頬の“話を盛る”ばかりみていた。心なしか花は生き生きとしていて、はらりと花びらが散ったように見えた。
これは、一体どういうことなんだろう。
くらくらする頭。いつもの風景より多すぎる情報に、目の前がぐるぐるする。
「八坂、悪い、俺ちょっと体調悪いから今日は帰るわ」
「は? お前今来たばっかじゃん。大丈夫かよ」
「うん、悪いな……」
八坂の心配を背に、講義室を飛び出した。