2.艱難辛苦
「はぁ……」
『貴領地を水晶ランクに叙する』とだけ記された紙を机にぽいっと置いて、リーゼロッテは深く深くため息をついた。
エーデンベルク領にやってきてからのこの一週間、リーゼロッテは日差しの強い新天地の気候に慣れながらも、これから自分が治めていくこととなるエーデンベルク領の勉強に勤しんでいた。
どれくらいの歴史があるのか。気候はどのようなものか。土壌はどんなものか、そこでどんな作物が育つのか。どんな名産品があるのか。学ばなければならないことはたくさんある。――そう思っていたのに。
結論から言おう。
学ぶことが少なすぎた。今後の課題が多すぎた。
何しろ名産品がない。エーデンベルク領といえばこれ、とはっきり言えるようなものがない。
作物の出来が悪い。はっきり言って美味しくない。これではどこの街でもろくに売れないだろう。
領民たちに覇気がない。カルロスに連れられて領地を回ったけれど、皆惰性で働いているといった様子だ。王都の人々は、もっと生き生きと働いていたのに。
そして何より恐ろしいのは、この状況がエーデンベルク領誕生以来ずっと続いているということである。建国から200年近く経つサンティエール王国内でもそれなりに歴史のある領地であるにもかかわらず、だ。翠玉ランクだったのはエーデンベルク領ができてから最初の5年間だけ。つまり、最初の査定でいきなり水晶ランクに落ちてそれっきりというわけである。
(今までいったい何をしてきたのよ……!)
呆れて物も言えない。父だけでなく、先祖代々に恨みつらみをぶつけたくてたまらなくなった。歴代領主たちは、自分たちが治めるエーデンベルク領のこの惨憺たる状況を改善しようという気概はなかったのだろうか。
だが、ここが発展しにくい土地であることはリーゼロッテにも分かっていた。
何しろ土壌が痩せている。栄養分の少ない土壌では作物もうまくは育つまい。王都ではそういった土地での対策法も普及しているのだが、王都から遠いエーデンベルク領までは情報が入らないのだろう。だから先代領主のヨーゼフは王都に勉強しに行ったのかもしれない。結果として手に入れたのは知識ではなく恋心だったようだけれど。
作物がうまく育たない、要するに美味しくないから王都や他の領地に出荷しても売れない。そうなるとエーデンベルク領への信頼は失われていく。そのループが続いた結果、エーデンベルク領は永遠の水晶ランクへと成り下がったというわけだ。
「カルロスさん」
ひとしきりエーデンベルク領の状況を理解したリーゼロッテは盛大なため息をつき、傍らに立っているカルロスを見上げた。
ここ数日、彼はリーゼロッテの傍らに静かに控えて彼女が勉強に励む様子を見守っていた。時折投げかけられる問いに的確に答えてくれるのでリーゼロッテとしてはかなりありがたい。今回も淀みなく答えてくれることを内心期待しつつ、問いを投げる。
「今、エーデンベルク家個人の財産はどれくらいですか?」
この状況を打破するにはまず土壌を改善し、農作物の質を向上させることが必要だ。土壌改善には家畜の糞尿が肥料として役立つが、その発想は歴代領主たちにはなかったようだ。だが、エーデンベルクではほとんど家畜が飼われていない。ある程度は王都から購入しなければならないが、その資金を領民への徴税で賄おうとは思えなかった。なにしろエーデンベルクは貧しい。ただでさえギリギリの生活をしているであろう領民からこれ以上搾り取っては反感を買うだろう。だから、領主家が所有する財産を使おうと思ったのだ。
「あの……その……」
けれど、カルロスが彼にしては珍しく言い淀んだ。これまですぐに答えてくれていたのに。思わず眉を寄せるリーゼロッテ。
口をもごもごさせながらしばらく目を伏せて視線を彷徨わせていたカルロスだが、やがて意を決したかのように顔を上げる。そして覚悟を決めたかのようにごくりと唾を飲むような動きをしてから告げた。
「たいへん申し上げにくいのですが……エーデンベルク家にはほとんど財産がございません。領民からの納税によって何とか生活している、といった状態です」
「ハァ!?」
想定外の返答に、リーゼロッテの声はひっくり返った。
いくら水晶ランクとはいえ、エーデンベルク家は腐っても領主の家柄である。領主に任じられるのはもともとは貴族階級の家だったのだから、それなりの財産を保有しているはずだ。それなのに、ほとんどないどころか領民からの税金で生活しているなんて。
驚愕しているリーゼロッテに、逆に打ち明けたことでつかえが取れたらしいカルロスが再び淀みなく説明をしてくれる。
「リーゼロッテ様もご存知かとは思いますが、下級ランクほど王都への上納金の額は高くなります。正直、領民からの徴税では賄いきれない額でして。そのため、歴代領主様は少しずつですがエーデンベルク家の財産を削って納税を行ってまいりました。これ以上徴税額を増やしては領民の反感を買うからとのことで」
それはそうだろう。領民たちの生活水準と毎月の徴税額を照らし合わせても、すでに領民たちの生活はギリギリだ。むしろこれでよく今まで反乱や一揆が起きなかったものである。
「塵も積もれば山となる、という諺の通りです。少しずつ財産を切り崩し続け、ヨーゼフ様が領主の座を継がれた頃にはエーデンベルク家の財産もかなり少なくなっておりました。この状況を打破すべくヨーゼフ様も色々と頑張ってはおられたのですが、ローゼ様が、かなりの散財家だったのです」
「ローゼ様って……先代様の奥方様ですよね?」
実父であるヨーゼフのことを、リーゼロッテはどうしても父と呼べなかった。今まで父親であることすら知らなかったし会うこともなく死に別れたのだ。そんな人をいきなり父というのも無理がある、というリーゼロッテの心中をカルロスも分かっていたから、「先代様」という呼称を訂正することなく頷いた。
「ローゼ様はエーデンベルク領のお隣、レフリエール領のご出身です。レフリエール領は翠玉ランクですが、限りなく朱玉ランクに近い領地とも言われています。ローゼ様は領主様の末の娘御だったせいか、かなり甘やかされて育ったようでかなりワガママで……しかも、ランクの低いエーデンベルク家のことを下に見ておりました」
「それで、散財を?」
「はい。王都からドレスや宝石を買い漁ったり、好き放題しておられました。それに加えてヨーゼフ様が病にかかられたことも重なって……ただ、正直なことを申しますと、ローゼ様が散財した額とヨーゼフ様の治療費の額を比べても、明らかにローゼ様の散財額のほうが大きいのです」
いつも穏やかな表情を崩さないカルロスの顔が、話せば話すほど苦々しげに歪んでいく。相当ローゼに対して腹に据えかねているらしい。
だが、正直リーゼロッテからすれば裏事情はそこまで気にならない。問題はエーデンベルク家保有の財産がないということである。
ランクを上げるためには領地の発展が必要不可欠だ。
そして領地の発展には金が要る。
だから、ランクを上げるためには金が要る。
「……分かりました」
リーゼロッテは腹をくくった。
こうなったら、身銭を切るしかあるまい。王都に住んでいた頃からコツコツ自分で貯めていたお金と、母がリーゼロッテのために貯めていたお金をここに来るときに持ってきた。どうしても足りない分は王都の母に手紙をお金を貸してもらおう。
とりあえずは土壌の改善、そのための家畜購入だ。
脳内で算盤を弾き資金の計算を始めながら、リーゼロッテは紙にペンを走らせた。